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河内源氏の流れを汲む源為義の八男。母は大阪の東淀川区江口の遊女といわれる。源為朝は、保元物語によると身長2mを超える強弓の使い手で伝説の人である。保元の乱では、崇徳上皇のもとで、大奮戦する。伊豆大島へ流されるが伊豆諸島を支配した。為朝追討の院宣が下り日本ではじめての「切腹」をしたといわれる。または、源為朝は琉球へと逃れ為朝の子が、初代琉球王・舜天となったともいわれている。
大河ドラマ『光る君へ』第8話「招かれざる者」では、盗賊団がお勤めに入った「東三条第」で逮捕されてしまいました。散楽一座の一員で、盗賊団の一味でもあり、まひろパートと道長パートの間を行ったり来たりしながらストーリーをグリグリ動かしていた直秀が、絶体絶命のピンチ。直秀@毎熊克哉さん大河ドラマ『光る君へ』より⇒★「現行犯逮捕」なので、助かる見込みはかなりキビシイ。SNSでも「直秀は来週で出番終了かな…」なんて見方もチラホラ。歴史上の人物ではなくドラマのオリジナルキャラクターで
河内源氏発祥の地羽曳野市には色々な歴史、史跡があります。今回のご紹介は河内源氏発祥地として有名な通法寺跡河内源氏を祀る壷井八幡宮です。私自身は歴史に余り詳しく無いのでお許しくださいねお時間あれば一度散策にでも行ってくださいね綺麗な山々がお待ちしてますよ周りにはぶどう畑があったりアケビが自生してたりと自然が沢山ありますが最寄りの駅からは結構遠いのが難儀なところでありますが
河内源氏発祥の地羽曳野市には色々な歴史、史跡があります。今回のご紹介は河内源氏発祥地として有名な通法寺跡河内源氏を祀る壷井八幡宮です。私自身は歴史に余り詳しく無いのでお許しくださいねお時間あれば一度散策にでも行ってくださいね綺麗な山々がお待ちしてますよ元々建っていたお寺の復元図を見てみたいな〜鐘楼の釣鐘本体は何処に?元々鐘が吊られていたんだろうな穴だけが昔の重みを知っているんだろうな
皆さん、多田行綱(源行綱)を知ってますか?たぶん、アメブロやっている人の千人に1人が知っているか、どうかと思われる歴史上の人物です。鎌倉幕府を開いた源頼朝と同時代の人です。私が学んだ高校日本史教科書では、多田行綱が1回だけ登場しました。残念ながら、裏切り者の評判が悪い男です。教科書では密告者として登場してました。1177年6月の「鹿ヶ谷の陰謀」の密告者です。後白河院の近臣が京都市左京区東山鹿ヶ谷の静賢法印(平治の乱で殺された信西の子)の別荘に集まって、平清盛を総帥とする平氏打倒
5月20日(土)太子町(大阪府)を散策してきました。聖徳太子ゆかりの地なので町名が太子町になったようです。兵庫県の太子町も同じ。他には愛知県にも太子町があるらしいけど、由来は知らない(笑)むかしむかし、難波から見て奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼んだのに対し、太子町界隈は「近つ飛鳥」と呼ばれていました。また、天皇陵や古墳が多いことから「王陵の谷」とも呼ばれています。近鉄上ノ太子駅から出発、聖徳太子像があります。上ノ太子駅から1.5km程歩くと壷井八幡宮。
5/5(祝金)奈良県の岡寺、大神神社・狭井神社・久延彦神社・若宮社を参拝後、本宅へ戻った後にお好み焼き屋へ河内源氏羽曳が丘店この日は、北陸で暮らす実妹と甥が実家へ遊びに来ており両親+我が家5名の9名で食事会この店舗、お好み焼きは自身で焼くスタイル(本当は焼いて欲しい)実妹と娘から「焼いてくれ」圧力→大阪人、お好み焼きは得意ですハンドルキーパの妻に申し訳なく生ビール1杯目奥、餅チーズモダン焼き手前、スジネギ焼き生ビール2杯目お楽しみ、焼きそば大盛この店舗、
先日、尼崎に用事があって行った時に寄ったお店お好み焼・鉄板焼河内源氏あまがさきキューズモール店06-6470-3408兵庫県尼崎市潮江1-3-1あまがさきキューズモール4階お好み焼・鉄板焼河内源氏あまがさきキューズモール店(尼崎(JR)/お好み焼き)★★★☆☆3.26■予算(夜):~¥999tabelog.comJR尼崎駅に直結していますあまがさきキューズモールあまがさきキューズモールのオフィシャルサイトです。電話番号:06-6493-5583qs-mall.jp\牡
苗字に興味の無い人はつまらない記事になるので最初に断っておこう。民主主義が発展した我国では死語である家格。今回閑話休題として、武家の苗字に焦点を当てて紹介してみる。ご自身の苗字があるか探してみると面白いですよ~。オレ、ワタシの先祖はこれか、と判るかも知れない。まず、高家の氏族で有名なのは、上位であればあるほど力なくとも敬われ、下位であればあるほどさげずまれる。所謂鎌倉期に成立した公家である。まず、御三家というのがあるが、これは説明するまでもないだろう。次にその支流とし
明けましておめでとうございます🎍⛩🐰🎌🎍本年もよろしくお願い致します。元旦は初詣⛩に壺井八幡宮へ行って来ました。前々から気になっていたので、ふらりと寄せて頂きました急な階段を登った先の右手にはかなりの樹齢と思われる御神木がありました。先人の方々のご冥福をお祈りいたしました。🙏😌そして、その先の拝殿へ↓入口の急な階段です。拝殿かな❓わりと俳句が読まれていて、良かったです争いが無くなれば良いのに。。。という詩です。月が綺麗だったので、パチリと。白いくっきりとしたお月様でした境
こんにちは。今日も来て下さり有難うございます。壺井(つぼい)八幡宮に参拝しました。(大阪府羽曳野市)こちらは初めてです。河内源氏発祥の地だそうです。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した、源頼朝公。その、ご先祖様が、祀ってあるとの事で、参拝に、訪れました。運転はあまりしませんが、、奈良から、関屋トンネル、水越トンネル(2km程)を抜けると、もう大阪でした・・千早赤阪村そこから羽曳野までは、遠くなかったです。。壺井八幡宮です。(手前が拝殿、奥が本殿です)(
こんにちはNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ佳境に入ってきました小栗旬さん演じる北条義時がだんだんダークになってきて・・・この先、どうなって行くのでしょう先日、NHKで放送されていた「鎌倉殿の13人」の役者さん達のトークショーによると・・北条義時の最期は、誰も想像できないであろ・・という、終わり方なのだそうです三谷幸喜さん曰く、、「小栗君、頼んだよ」っと笑さてさて先日、鎌倉殿のご先祖さまゆか
(再掲)『英雄の弟-ぼくが1番欲しかったもの』源義光の話いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!本日は推し武将である源義光の命日(旧暦の場合は10月20日)です。ということで、義光ネタを再掲載します。大河ドラマの影響もあり、広く源平関係の界隈が熱いです。私の本来の専門である軍記関連も源泉のようにそこら中でホットに湧いています。
週末に車を陸送する予定なので、車でしか行けない、妻の実家の有った田舎に行ってきました。先祖のお墓へお詣りをして、思いでの場所をうろちょろ。妻の実家は河内源氏のルーツを持つ旧家ですが、今はありません。言い伝えでは、関ヶ原の戦いで敗走した島津藩主をかくまい、海路で薩摩へ帰る手助けをした功績で、島津藩の家紋の丸に十の字を授かったそうです。そんな歴史に思いを馳せながら、妻の育った田舎に別れを告げました。
今日は羽曳野市にある壺井八幡宮に行ったお話を書きます。壺井八幡宮の鳥居を車でくぐります。すぐ右側に駐車場ありました。清泉壺井車で道を上がっていくと駐車場があります。ここからだと階段上らずにお参りできます。せっかくなので下の駐車場に車をとめて階段を上ってみました。階段の途中で黒い小さなカエルと遭遇しました。上った階段右側に大きな木がありました。楠です。とても大きくて包まれるような不思議な感じの木でした。壺井八幡宮です。左側横の道から隣へお寺っぽいですが
鎮守の森に囲まれた八雲神社へ来ました。木々に囲まれた境内は、いつ来ても落ち着きます。スサノオノミコトを祭神とする八雲神社は、河内源氏・源八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が京都祇園社(八坂神社)の祭神を勧請し祀ったのが始まりと伝えられています。河内源氏といえば武家の棟梁で、八幡太郎義家は源頼朝の4代前の祖先です。宝物庫には神輿が。御神木御朱印をいただきました。
こんにちは。火曜はお休みでした。疲れもあってほぼ寝てました。何でこんなに眠いのかきっとストレスで自律神経やホルモンがバランスを崩したんでしょう。(ヒューマニエンスという番組ご存知ですか?毎週観てます。ホルモンは侮れない。)こんなときにはひたすら自分を労わります。共働きやシングルマザーの皆さまは私みたいにお休みの日に寝込むことも出来ないですよね。私、甘くて申し訳ありません。今日の話題です。なんか
青色マークは壷井八幡神社、500m南に源頼義公のお墓があり、更に200m南に義家公のお墓があります。源頼義公のお墓は、江戸時代まで存在していた通法寺の中に在ります。通法寺跡。---歴史街道河内源氏のふるさと壷井・通法寺清和源氏の家系である源満仲の三男として生まれた頼信は、平安時代後期(11世紀)に河内国司として就任し、兄頼光(摂津源氏)や頼親(大和源氏)にみならい、この地に居館を構えて本拠地にしました。河内源氏は
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡金龍寺の御朱印です。ご住職の奥様が書いてくださいました。他のお寺の御朱印をご覧になって「他のお寺はすごいですね。粗末ですいません。」の一言。イエイエそんなことありません。お忙しいのにご丁寧にご対応して頂きアリガトウございました。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡茨城県龍ケ崎市にある「金龍寺」に行ってきました。とっても良いお天気でした。お賽銭箱ありませんwここのお寺は河内源氏の子孫、新田家のお墓があるんですよ。源氏繋がりで参拝にお邪魔しました。源氏の権力争いに負けてしまいましたが、足利尊氏に勝っていたら今の日本は違った国になっていたんですよね、きっと。安らかにお眠りください。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡諏訪神社の御朱印です。書き置きでした。義家と馬の絵が入ってます。これが欲しかったんですよ。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡千葉県流山市にある「諏訪神社」に行ってきました。源義家公ゆかりの神社です。道路に面してますが、境内に入ると車の音は気になりません。義家が乗っていた馬の実物大です。1000年前のデータがどうして残ってる??参道に鳥居と門が2つずつ。計4つ建ってます。手水舎本殿義家と馬の銅像があります。境内はなにげに広いですね。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡正宗寺の御朱印。社務所というかご住職の自宅というか、玄関でピンポン鳴らしたら奥からご住職が出てきてくれました。とっても愛想のよいお坊さんでした。そして直書きです。佐竹氏の菩提寺って書いてあるのが良いですねぇ。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡馬場八幡宮の御朱印。無人だったので、「御朱印無いわぁ。」と思ってたら本殿のお賽銭箱横に「300円をお賽銭箱へ」と書き置きがあり、透明の箱に入ってました。蜂前神社と同じでした。鈴付アマビエ札も同封されてました。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡茨城県常陸太田市にある「馬場八幡宮」に行ってきました。源頼義が石清水八幡宮の神霊を分祀し、佐竹氏の氏神です。源頼義は清和天皇から5代目。パパは河内源氏の祖頼信。長男は義家。孫に常陸源氏、佐竹氏の祖義業。5代あとに頼朝、義経。有名処ばっかですね。そんなスゴイ人が大昔にここに来たのかと思うと、緊張してしまうw1580年に造営された社殿。関ヶ原より前やんwメチャクチャ由緒正しい神社なのに無人でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
源頼朝や足利尊氏の先祖で、武士の棟梁として君臨した源義家について100ページ以内にまとめたリブレットです。「八幡太郎」の愛称で知られる彼の評価は、当時の公卿藤原宗忠の日記『中右記』の中でも「天下第一の武勇の士」(1098(承徳2)年10月23日条)、「武威は天下に満ち、誠にこれ大将軍に足る者なり」(1106(嘉承元)年7月16日条)という絶賛と、「義家朝臣、年来武士の長者として多く罪なき人を殺すと、云々。積悪の余、ついに子孫に及ぶか」(1108(天仁元)年正月29日条)という酷評に二分され
壺井八幡宮河内国古市郡大阪府羽曳野市壺井605-2(一の鳥居脇にP有り)■延喜式神名帳飛鳥戸神社名神大月次新嘗の論社大祁於賀美神社の論社■祭神誉田別尊仲哀天皇神功皇后[配祀]玉織姫武内宿禰[摂社壺井権現社]源頼信・頼義・義家・義綱・義光河内源氏の本貫地に建つ社。南方すぐに源頼信・頼義・義家・義綱・義光の墓があり、社家も八幡太郎義家の六男、義時の子孫。武家らしくとても勇壮な造りに。◎前九年の役にて戦勝した源頼義が凱旋、私邸の横に社殿を設けたのが始まりとのこ
武田氏は、河内源氏「新羅三郎義光」(義家の末弟)を始祖とする一族で常陸国・武田郷(ひたちなか市)に土着し、武田氏を名乗りましたが、土豪達と悶着を起こし、常陸から甲斐の国へと移動しました。甲斐では「源信義」の代になって、有力武士団となったようです。安芸武田氏や若狭武田氏は同族で、甲斐の武田一族には板垣・甘利・逸見・加賀美・南部(盛岡藩)・小笠原(信州源氏)・安田等があります。最初に「武田八幡宮」に行きました。ここで平安末期に「源信義」が元服し「武田姓」に復したとされ「武田氏発祥地」
一週間前の日曜日のこととなるが、夜桜花見をしてきた。住まいの近くに神田川が流れ、そこが隠れた花見の名所になっているので、ちょこっと行く分には楽なのだな。↑神田川の桜ということで、普段であれば歴史サークル「幕末ヤ撃団」として、仲間を集めて夜桜花見の会をしているのだが、ここ数年はコロナ流行のために実施できないでいる。今年も友人のK氏も三回目のワクチン接種直後ということもあり、さりげなくステルスオミクロンなるどっかの最新鋭戦闘機みたいな名前のコロナが流行りだしてもいるということで不参加を余
多田神社兵庫県川西市多田院多田所町清和源氏は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子である六孫王が源姓を与えられ、源経基になって始まります。経基の長男が源満仲です。満仲は、摂津国北部(川西市及び周辺)を開発し、多田荘(荘園)を立荘します。出家して、邸宅に多田院(寺)を建立しました。阪急宝塚線川西能勢口駅で、能勢電鉄に乗り換え、多田駅で下車し、徒歩20分くらいでした。猪名川の河岸段丘にあり、荘園を支配するに適した場所だと思いました。多田院が神仏分離令で、寺院から多田神社になり、現在に至