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この本を元に、個人的な想像を交えながら。評伝良寛:わけへだてのない世を開く乞食僧(シリーズ・人と文化の探究)Amazon(アマゾン)良寛は、「お寺」というものについて、どう考えていたのでしょう。有名な逸話としては、越後長岡藩主の牧野忠精が、良寛の元を訪ね、「お寺を用意するので、城下に来て欲しい」と言ったところ、「炊くほどは風がもてくる落ち葉かな」と俳句を詠み、断ったというものがある。良寛が、修業をした曹洞宗の寺院制度の中では、お寺の住職になる資格を
架空の中国後宮を舞台にした新米女医のお仕事小説、第二巻。『華は天命を診る莉国後宮女医伝』好んで読んでいる小田菜摘さんの中華時代小説です。中華宮廷ものはジャンルのファンが多いのか、本屋さんにたくさん並んでいますね。正直、どれが何やら・・・小田…ameblo.jp女性特有の疾患とか不調に関する悩みを扱っているので、現代女性にも身近な話と思います。これまた考えさせられるお話でした。テーマは、ワクチン。現代でも(ほんのつい最近でも)ワクチンというと何故か強烈な反
先日、DVD「峠最後のサムライ」を観た。これは司馬遼太郎著の小説「峠」を映画化したものである。<あらすじ>1867年の大政奉還により徳川幕府は終焉を迎えた。諸藩は東軍と西軍に二分され、翌年戊辰戦争が勃発した。越後長岡藩の家老河井継之助は何れの軍にも属さず、非戦中立を保ち、長岡藩民の暮らしを豊かにすることを願った。だが、和平交渉は決裂し、継之助は苦渋の決断を下し、西軍と砲火を交えることになる。決死の覚悟で挑んだ最後の戦いが始まった。<感想>河井継之助はそれまでほとんど無名
こんばんは😁マスクマンのHickeyです🤣今日X(旧Twitter)のタイムラインを見ていたらたまたま流れてきたTweetなんだが…マスク民❓🤔チャイナウィルスが流行っていた頃は『マスクを着用せんかバカ者💢』そんなマスク警察が彼方此方にいたよな…その頃に僕もマスク警察と一悶着ありこんな話をブログでしてるんだよな🫵😒自分でいうのも何だが結構おもしろい話だからまだ見た事ない人は下をクリックしてみて欲しい!⬇️⬇️⬇️『まだマスクしてますか?』前回は【自民党は新日本プロレス
村杉温泉エリアにある交流施設うららの森でお土産購入&コーヒータイム。時間に余裕があるの楽でいい。落ち着いたら隣町の五泉市へ向かいます。目的のスポットは、慈光寺という山の中にあるお寺。これまたGoogleマップを空中散歩して、たまたま見つけた古刹。ここにとっても気になるモノがあるそうなのです!マニアックスポットハンター・まめクロさんの血が騒ぐwしばしの里山ドライブ。気持ち良いね~(*´∀`*)山の方はまだ桜が残っていたのこれ、桜の季節にはかなり見応えがあるスポ
先週、御用の筋で急遽、新潟県の長岡へ出かけてきました。かつては田中角栄さんの王国と言われた街ですね。上越新幹線「とき」が高崎を発車してからしばらく走ったトンネル内で、なにか固くて重い物が足回りに当たったような、けっこう大きな物音がしました。近くの乗客も声を発しています。最近、JR東日本は運行中のトラブルがしばしば起きていまして、異音が通報され「緊急停車して安全確認」することになったら、予定が狂って困るとチョット心配したものの、どうやらそのまま走行を続け時刻通りに長岡に到着しました。運転士も
今年3月、講演の仕事で新潟県長岡へ。長岡には何度も行っていますが街中を歩いたことがなかったことに気づき。長岡をぶらぶら散策「河井継之助記念館」へ。知られざる最後のサムライ河井継之助。ガイドの小林さんがマンツーマンでご案内してくださり河井継之助を主人公にした司馬遼太郎さんの名著「峠」を読みたくなり、それを映画化した役所広司さんの「峠最後のサムライ」も観たくなりました。小林さん、ありがとうございました!その後、「山本
気が付けば自分の仕事みなさん、おはようございます靖国神社春の例大祭です東京九段の方向に向かって頭を下げましょう海自のヘリコプターの事故は痛恨の極みです隊員の英霊に感謝ですアリガトウ「4月22日」の國史です「山懸有朋、生誕」天保9年(1838年)明治政府での軍、内務省のトップであり後に総理大臣(第3代、第9代)となります長州藩の下級武士の子として生まれます北越戊辰戦争(1868年)奥羽越列藩同盟の長岡藩家老、河井継之助は官軍と中立を保ち和平を
長岡城A4サイズの完成#長岡城#お城#ジオラマ#鍬匠甲冑屋
🌸最新兵器で大暴れした河井継之助⛳河井継之助、負けん気を発揮して出世する☆最大の激戦といわれたのが北越戦争*最強の兵器と恐れられたガトリング砲*ガトリング砲(機関銃)は、この戦いでベールを脱いだ*1分間に200発もの弾丸を発射できた☆アメリカ製の最新兵器を買い求めたのが*長岡藩を率いた河井継之助だった☆河井継之助長岡藩士で負けん気の強さも相当なもの*毎日のように喧嘩をしては傷だらけで帰らてきた*藩に仕えるようになってからもその気の強さは健在☆藩主の牧
裏金議員を「許さん」と言って桃太郎侍でバッサバッサと手●ちにするか河井継之助でガットリング砲(ガットリング銃)にて●の巣にして欲しい2024-FEB.-23-FRI.-06:00(JST)
【7/25】とある日に、仕事で新潟へ行くことになり…それなら空き時間作ってプチ観光だ!ってことで、ほぼほぼ始発で出発してプチ観光。河井継之助邸跡にある、河井継之助記念館を訪問。長岡藩でガトリング砲を使って新政府軍に反抗し…と河井継之助。確か、映画にもなっていたような…残念ながら見られなかったけど。が…お休みでした。ついてない。でも、ここで諦めたら負けなのだ!お次は山本五十六記念館へ向かう。ここはやってた。そしてお昼は…レストランナカ
何かを期待して読み始めたわけではないのに、読んでみたら、ものすごーーーくスピリチュアルな本でびっくりした。すでに今年のベスト本の予感。沢木耕太郎さんが「西川一三(かずみ)」さんのことを書いた500ページ超えの本なのだけど、そのスケールが壮大で、それに合わせるように彼の内面世界もまた宇宙を感じさせるのだ。西川さんは第二次世界大戦末期に密偵として中国大陸の僻地まで潜入し、当時、日本人はまだ5人くらいしか足を踏み入れていないとされるチベットまで、モンゴル出身の僧侶に扮して旅した驚くべき人
先日の3連休、2日目のつづき1月7日早朝に会津若松から只見線を走破し(一つ前の記事見て)小出駅に到着ここから上越線-高崎線で帰京するつもりだったけど只見線に乗ってる途中に、新潟在住の◯ーじさんから「長岡来ない?ラーメン食おうぜ」との連絡があり急遽予定変更し下りの長岡行きへ7駅、約34分乗車し終点長岡に到着駅前長岡と言えば、花火!一度は見に行きたいわねそして、ここ長岡駅は元長岡城の本丸だった場所江戸初期は堀氏、後に牧野氏が城主になり幕末
昨年11月に岡山市と高梁市にいった。それは江戸末期を中心に活躍した山田方谷の、とくに教育者としてのその思想と方法について調べるためだった。あの長岡藩の河井継之助が心酔した方谷。いくつかの資料や文献を手にいれ、それらを読み始めていたら、「??」という文面に出くわした。それは「幕末における大陸経営論の先駆、山田方谷」という論文である。今、詳細に紹介する時間がないが、要するに、西郷隆盛以前にすでに征韓論を展開していたとい内容である。その大陸経営なるものがどんなものか、
或る本に、幕末の長岡藩家臣の河井継之助を、普段は無用の長物だが、いざというときには欠かせない、まるで「消火器」のようなとの人物評があったことを思い出す。日本はもとより、世界がこれほどに騒然として来ると、そんな消火器のような人物が表れはしまいかと期待もしたくなる。古の言葉に、逆境に至れば「賢者はよろこび愚者は退く」とある。またドイツの詩人・シラーは「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」という。歳時記には「龍淵に潜む」との秋の季語があり、それは龍が春分に天に昇り、秋分に淵に潜むことに由来する
秋山景山書江戸時代、われらが地元・越後長岡藩の藩校「崇徳館」の都講(校長)秋山景山(1758-1839)の書をあずかったものの、その達筆の七言律詩を読めないまましばらく事務所に掛けておいた。秋山景山は長岡藩の藩風を主導し、おそらく幕末に登場する河井継之助らに思想的影響を与えたと思われる人物です。持ち込んだ知人に「難字ばかりで読めぬ」と苦情を申し述べたところ書き下し文をよこしたが、写すだけでも手間がかかる。かの時代の知識人の漢文力には頭が下がります。景山については、小川和也
おはようございます!新潟は長岡出身の武士、河井継之介が主人公の映画が昨年公開されました。映画は観ていませんが、原作の司馬遼太郎さんの『峠』は読みました。時は幕末、内憂外患の混沌とした時代に生きた武士です。明治維新後の北越戦争で傷を負い、亡くなりました。新政府、徳川方にも属さない中立国を目指す思想を持ち奮闘しましたが、さまざまな要因が重なり、それを実現することは叶わず、新政府と戦い、命を落としてしまったのです。すごく面白い人間味のある一面もあり、面白いため、小説も一読の価値ありです。そ
*12月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、北越の蒼龍立つのおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868,戊辰)、七月四日に秋田藩が奥羽越列藩同盟を脱退したことで庄内藩は会津援軍を断念しました。秋田での戦いは熾烈を極めます。新庄城は『猛火天ヲ焦サンバカリ』の砲撃で撃滅され、住民も巻き込まれて逃げ惑いました。戦争はいつでも
今日は長岡にGO。申し込みをしていた講演会、「河井継之助記念館開館17周年記念講演会」に行ってきました。お天気は荒れ模様でしたね。雨は降るわ、雹は降るわ、雷は鳴るわでタイヘン。そしてさみーし!!もうすぐ雪が降るね。雨模様の長岡グランドホテル・・・題名はコレ。河井継之助の思想像をさぐる〜陽明学と藩学のあいだ〜難しそうなタイトルだけど、理解できるかなー定員は300名だったのですが、こんなローカルな講演会なのにお客さんがすごく多くて、満席に近い感じだったよ。
司馬遼太郎さんの小説「峠」は、越後長岡藩7万5千石の譜代大名牧野家執政河井継之助という人物を、江戸へ遊学する所から戊辰戦争の激戦地として有名な、北越戦争で亡くなるまでを描いた、上中下3巻なる長編小説です。この原作をもとにしたのが、去年2022年に公開された、映画「峠最後のサムライ」です。原作は、たしかに司馬さんの小説ですが、表現時間の制約がある映画という媒体では、原作の再現を余すことなく期待するのは難しいと思います。小泉監督は、この小説の中から、長岡藩が北越
投稿ネタに乗っかってみました。よく見るYouTubeチャンネルですか〜最近見つけて何度も何度も見ているのがこれです。八十里越を徒歩でいくやつ。制作したこの会社、わたしが長岡に住んでいた頃に勤めていたトコやん・・・テロップに出てくる制作スタッフに、懐かしいお名前を発見。長年お勤めされているんだな。お元気ですかー?さてさて、八十里越とは長岡藩の河井継之助が負傷して、越後から会津に向けて越えていった峠です。それはもう険しい道で、今は事実上、通過は不可能といいます。
右が方谷5歳の時、左は9歳の時の書である。右にある「至誠惻怛」の書は方谷が河井継之助に送った王陽明の言葉だという金光教高梁協会にて露地植えのセキチク大好きなツワブキの花もけなげな千日紅伯備線を走る黄色の列車
島宏さんの『米百俵―小林虎三郎の天命』を久しぶりに読みました。山本有三さんの戯曲『米百俵』を解説している書籍です。司馬遼太郎さんは『峠』で長岡藩の河井継之助を主人公にして幕末の北越戦争を描きました。舞台は北越戦争が終わり焼け野原になった長岡です。主人公の小林虎三郎と河井継之助は親戚でしたが、北越戦争時には官軍と戦うか意見がぶつかり合っていました。河井継之助は北越戦争を断行し戦死します。官軍に敗れた長岡藩は悲惨なもので七万四千石あった藩の俵高は二万四千石に減封されていたため、食えないと
Wikiを見てみると、「真珠湾攻撃」と「真珠湾攻撃陰謀説」ってのがありますな。この本はおそらく真珠湾攻撃陰謀説を前提に書かれた物語でしょう。あくまで「異聞」だし!まあとんでもないお話でした。山本五十六のことが読みたくて入手した本なのですがね。五十六さん、これじゃアメリカの手先じゃないですかぁ!いやアメリカというより、「友愛結社」の同朋のため、つまりフリーメイソンだからという理由でとった行動:それが真珠湾攻撃だという。そんなバナナ。(←古い)いったいフリーメイソンと
NETFLIX河井の掘り下げをもっと(C)2020「峠最後のサムライ」製作委員会峠最後のサムライ幕末、大政奉還に端を発する戊辰戦争が始まる。薩摩、長州、土佐を中心とする西国諸藩は勤王を掲げて東上。東国の佐幕藩を次々と恭順させていた。最大の抵抗勢力である会津の目前に迫った薩長軍は隣接する長岡藩に降伏を申し入れるが、家老の河井継之助(役所広司)は中立を主張。交渉は決裂し長岡戦争に突入する。(C)2020「峠最後のサムライ」製作委員会初見。司馬遼太郎の「峠」が原作。司馬小説の中でも大
上:先始めの十月桜下:満開に向かいつつある頃以前、2回ほど書いたことのあるこのテーマ。一般的には「留学」は外国に在留して学ぶことで、「遊学」は故郷を離れて他所の地域や国(いわゆる古代の国名で語られる)で学ぶこと」と理解されている。したがって、遣唐使時代に唐にわたって学んだ多くの若者は「留学生」であった。鎖国時代の日本で外国に行くことはあり得ないので、国内で故郷を離れて京都や江戸に行くのは「遊学」となる。しかし、なぜ「遊」なんだろうか?漢字の語源を調べると「遊」に
葉隠武士道とはなにか、真に生きるとはなにか、独立して生きるとはなにか、心の炎で溶かしつつ観る名画の一つだと感じる。町内で盆踊りをするシーンもまたとてもいい。info.読書会ハチドリたちの読書会執行草舟著/生くる「読書論」肚をつくる読書会さんが土曜日,10月212023に開催するイベントfacebook.com勉強会逆のものさし道@読書のすすめ肚をつくる読書会さんが東京都江戸川区で日曜日,10月292023に開催するイベントfacebook.com宴100冊の本より
新潟から車で1時間、新潟市につぐ第二の都市、人口約27万人の長岡市にやって来ました。目的は幕末の革命児・河井継之助のゆかりの史跡を訪ねることです。河井継之助に関しては司馬遼太郎の小説や映画である程度知っていますのですがやはりその人物像に触れたいと思い長岡にやって来ました。最初に記念館を訪れて情報を収集したいと思います。長岡駅からすぐの河井継之助記念館にやって来ました。碑が建っていますがここは継之助の屋敷があった場所の様です。継之助の銅像と面影を今に伝える庭が見学できるようになっています。
1867年10月大政奉還山岡鉄舟と西郷隆盛の駿府会談により、江戸は無血開城に収まる。だがパラダイムシフトのうねりは、そう簡単に鎮まるはずがなかった。その後1年半、旧幕府軍と新政府軍との衝突が各地で勃発する。これが戊辰戦争であり、河井継之助の長岡藩も、北越戦争に巻き込まれていく。長岡藩を中心とする奥羽越藩同盟軍の兵は5千対する新政府軍は2万戦力の差は明らかだった。継之助は戦いを避けるため、新政府軍が本営を敷く小千谷の慈眼寺へ談判に赴く。破天荒な男が、息子ほど