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あの頃の僕は早く那覇でLIVEがしたかった。この島の最前線と思えるパーティーでラップしてるラッパーやオーガナイザーやDJや諸先輩方に僕のラップを聴かせたかったしLIVEを見て欲しかっただからとにかくいつかきっと来るであろうその日の為にとにかく山田くんと曲を作ったたっちゃんにトラックをお願いしたかったけどまずは自分達がいままでやってるやり方でLIVEに呼ばれるようにならなければダメだっていう同級生なりの意地みたいのが僕らの中にあってDEEさんにアドバイスしてもらって選んで購入したり、手に
当時僕の働いていた沖縄市ゲート通りにあるショップの系列のショップで”ST-LOW”の名付け親DJDEE師匠は店長をしてて僕の働いていたショップにはわりと若いラッパーとかDJとかヘッズとかがタムロってたんだけどDEEさんがいたショップには先輩のDJだったりダンサーだったりCLUBの店員さんだったりなんだかセクシーなおねーさんだったりなまさにHIPHOP関係者がよくDEEさんを訪ねてきたり買い物しにきていたのでそんなタイミングをねらって僕がLIVEで使いたい曲のインストが収録されてるレコ
黒縁眼鏡にスケッチブックを持った無愛想な中学3年の少年がショップに遊びに来るようになった学校が終わったらトコトコやってきて試着室に置いてあった小さな折りたたみイスを勝手にカウンター隅に持ってきてスケッチブックを開きグラフィティーみたいなタギングみたいな落書きを描きだす日本語ラップ、とくにライムスターが好きらしくブツブツとラップを口ずさみながらスケッチブックに落書きをしている中学生にしてはなかなか上手だったので、グラフィティー好きな僕はやたら遊びに来るこのなんだか不思議な少年と仲良くなっ
沖縄市室川.安慶田エリアから坂道を登りコザボーリングを過ぎてパークアベニューを横目にさらに進むとゲーセンがあり金融屋の看板を越すと十字路がある当時まだあった陸橋から通りの向こう側へ基地の入口へと続く直線には横文字の看板が並んでいたかつてベトナム戦争当時は沖縄市の経済のほとんどはアメリカ軍基地関係に異存していたらしいということもありなにかとアメリカナイズされてきた表側の景色と裏通りの住宅密集地はまるで生きる化石のように、いまや商材の違う錆びたネオン管と同じ商材の増えた看板の狭間でこ
沖縄は暑いなにかと熱いし暑いたまに冬でも暑い僕は太ってILLのでとにかく暑い当時は今より45キロちかく太っていたので暑いのなんのでとりあえず暑いそんなわけかはどうかは置いといて僕は麦わら素材のキャップが好きだった20代の始めの頃僕は麦わら素材のハンティングだったりポークハットだったりをやたら好んで被っていた時期があったちょいオシャレな柄のシャツにアバクロのショートパンツなんて着て麦わらのハンティングとかをかぶるMURO/ELCARNAVALのCDの盤面の感じの格好が好きだっ
そんなこんなで日本語ラップに興味を持ち始めた僕は日本語ラップの曲やラッパーをDIGるようになったとは言ってもSNSとかYouTubeとか無い時代なのでストリートファッション誌だったり深夜番組だったりで見たりHIPHOPに詳しいっぽい友人から聞いたりストリートのショップに通ったりして情報を集めたりしたあるときHIPHOPのDJをしているらしい大学の友人を交えて僕の部屋で合コンをしたそのとき友人が僕に「ヤバいビデオ持ってきたから見よう」つって一本のVHSのビデオテープを持ってきた”さん
「一緒にラップしようぜ大ちゃん」高校時代、空前絶後のインディーズバンドブームがやってきたそのブームにまんまとやられちまった僕はとにかく放課後ひたすらバイトしてはインディーズブランドやバンドTを買い漁ったり有名インディーズバンドの音源を地元の服屋でDIGってはそこでもらったフライヤーを見て地元バンドのLIVEに足繁く通ったりクラスの友人達と楽器を始めてみたりして立派なバンドキッズとして青春を謳歌その熱が覚めやらねまま高校卒業とともに福岡の大学の芸術学部デザイン学科に進学した僕はそ