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これは皆素通りしているであろう歴史スポット「蓮池鍋島家の墓所」山手通りで人が何千何万と行き交う場所にある。この角度で気づいた鍋島は九州の元々龍造寺に仕えていた武将の家で沖田畷の戦いで島津に龍造寺が敗れた後かなりの高待遇で残った家。歴史好き武将好きにはたまらん!!グラッチェ#蓮池鍋島家の墓所#山手通り#龍造寺#沖田畷の戦い
所在地〒855-0073長崎県島原市小山町(本光寺)特徴浜の城の北側を守る支城で、島津氏と龍造氏の沖田畷の戦いの舞台となった。現在は島津藩主の菩提寺だった本光寺が建ち、城の遺構は残っていない。感想島津藩主松平家の墓所は次の記事で紹介。
島原城といえば、堂々たる天守閣や美しい石垣が有名ですが、実は城の北側を守っていた裏口、「北門(別名:諫早門)」にこそ、築城の執念とも言える驚きの防衛システムと歴史のドラマが隠されています。今回は、資料から紐解く北門の歴史ロマンをご紹介します!①名前のない警備隊?「北門番所」の謎資料には「北門番所」という直接の名称は残っていません。しかし、間違いなくここには鉄壁の警備体制がありました。家臣50人の駐留記録:幕末(1865年)の記録によると、家臣のうち50人が城内の「各番所」に暮らし
一番好きな風景写真ある?▼本日限定!ブログスタンプ四方を山に囲まれているので"みどり"は豊富です…🌳「みどりの日」元々は4/29が「みどりの日」でしたが、2007年(平成19年)より、5/4に移動しました…🇯🇵以前は「国民の休日」でしたね、でもその頃はほぼ仕事でしたが…😅「競艇の日」競艇の創始者である笹川良一氏の誕生日からの由来だそうです…🚤競艇は笹川良一氏が戦後に仕事に復帰出来なかった若者達を集めて始めたと聞いた事があります。(笹川良一氏と言えば…右翼の黒幕と言われていたよう
【問題】沖田畷の戦いで、赤星統家は次のうちどちらに与して戦ったか?【選択肢】龍造寺方島津方【正解】島津方【解説】赤星統家は肥後の国衆で、龍造寺隆信に人質を出して傘下に収まっていた。しかし、その人質を隆信に殺されたことから復讐に燃え、沖田畷の戦いでは島津軍の先鋒を務め奮戦した。
龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で戦死をした後、龍造寺家は、重臣だった鍋島直茂に乗っ取られる格好になる訳ですが、その経緯は、どうだったのか。この本から。私見も交えながら。龍造寺隆信:軍事に通じ甚だ機敏(ミネルヴァ日本評伝選)Amazon(アマゾン)龍造寺氏と鍋島氏。この二氏の関係は、「龍造寺氏中興の祖」と言われる龍造寺家兼の時代から、非常に深く、鍋島氏が、いかに優れていて、いかに龍造寺氏を支えていたのかという逸話が、数多く、存在をしているようですが、これは、恐らく、江戸時代
戦国時代、敵に対して、圧倒的な大軍を有して、有利な立場にあったはずの総大将が戦死をしたという合戦が、二つ、あります。その一つが、今川義元が戦死をした「桶狭間の戦い」であり、もう一つが、龍造寺隆信が戦死をした「沖田畷の戦い」です。基本的に、戦国時代に起きた合戦の様相は、江戸時代に書かれた「軍記物」による創作で、実際に、どのような戦闘が行われたのかということは、よく分かっていないというのが実情です。そのため、「圧倒的に有利なはずだった軍の総大将が戦死をする」という失態を演じてしまった今川義元、
6月2日から開始していた「皆様からの疑問・質問を大募集」に関して、投稿頂いた皆様ありがとうございました。受付は終了させてもらいました。まだ全部しっかり読んだわけじゃないですが、めちゃくちゃたくさん疑問・質問を頂いたのでどれをピックアップするか迷うところです。アプリの基本的なところから、不定期に開催される合戦イベントまで、ありとあらゆるジャンルのものがありました。10周年記念イベントに申し込み済みの方は楽しみにお待ち下さい。さて、合戦イベントといえば、今年3月に行われた「沖田畷の戦
今日、沖田畷の戦いが終了しました🤗久し振りに敗北しました😭同軍の方々、お疲れさまでした
本日13時、ついに合戦イベント「沖田畷の戦い」が終了しましたー!戦いの結果は…龍造寺軍の勝利となりました!!龍造寺軍のみなさま、誠におめでとうございます!今回の合戦イベントは、またいつもと違う戦況推移でした。開戦後の混戦模様が晴れると島津・有馬軍が500人ほど多かったものの、龍造寺軍が5万軍功リードしているという幕開けに。そこから、じわじわ人数差が開いていくにも関わらず、軍功は逆にじわじわと龍造寺軍が引き離していきます。3日目終了時点では約22万の差を付けて両軍総攻撃に
「沖田畷の戦い」が3月15日に開戦して5日、いよいよ合戦イベントも中盤に差し掛かって参りましたぁぁ!ここから終盤へ向かって果たしてどのように展開していくのか、まったく想像がつきません≡°Д°;)さて、今回の合戦でもやはりお問い合わせが増加傾向にあります...。特に今回多いものについては、以下にまとめております。こちらも参考にして下さい↓Q.袖印を総攻撃の日に付けても効果が一緒だったんだけど?A.総攻撃日の袖印着用を勧める注進を見た方から結構お問い合わせが来るようになってき
今日から沖田畷の戦いイベントが始まりました☝️島津軍の新納忠元隊に配属されました🤗
本日11時、ついに合戦イベント「沖田畷の戦い」の火蓋が切られました(゚ロ゚)!!これくらい早めの時間に開戦したのは21年の「神流川の戦い」以来のようです。午前中、寝ぼけ眼で仕事していたところ(何時に起きてんの?)、戦場から聞こえてくる鯨波で目を覚まされました。早くも熾烈で一進一退の戦いが繰り広げられているようです!以前書いた通り、イベント最終日の3月24日はまさに沖田畷の決戦が行われた日です。では、今日3月15日あたりはというと、島津家久が島原半島へ渡った頃です。決戦前から既
抜け漏れなくば、今日が最後の告知となります。合戦イベント「沖田畷の戦い」、論功行賞などの発表です!!さっそく参りましょう(°Д°)!!!★全参戦者参戦者全員に、協賛楽座特典「物見・茶道具・袖印」を贈呈!■勝利軍勝利軍全員、家臣団コレクションで「圓久尼」(限定)の登用が可能に!■軍功第一の部隊両軍通して軍功第一の部隊全員に、異名「無双の剛の者」を贈呈!(獲得済みの場合は「10,000貫」を贈呈)■個人の軍功ランキング各軍軍功上位1~50位までの方へそれぞれ所
合戦イベント「沖田畷の戦い」まで、残すところあと1週間となりました(*゚0゚)!!本日は、少し早めに大手柄武将の発表と参りましょう!後半にクエストイベントの告知もありますので、ぜひ最後までお読み下さい。それではまずは大手柄武将のラインナップから!※ルビは武将検索用です。┃龍造寺軍の大手柄武将木下昌直(きのしたまさなお)執行種兼(しぎょうたねかね)成富茂安(なりとみしげやす)龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)龍造寺長信(りゅうぞうじながのぶ)龍造寺家就
立て続けの告知です!2月27日に陣触れとなった合戦イベント「沖田畷の戦い」について、本日は部隊長の発表と参ります!!陣触れの際に少し説明した通り、沖田畷の戦いは元は龍造寺隆信と有馬晴信の対立に起因し、晴信から救援要請を受けた島津軍が島原半島に渡ったことにより勃発した合戦です。戦場では島津軍が主導的な役割を果たしたことから、今回は“龍造寺軍vs.島津・有馬軍”という構図となります。それではそれぞれの部隊長の顔ぶれを早速見てみましょう!両軍ともに、6名ずつの部隊長とな
沖田畷古戦場跡(長崎県島原市)前回2月27日に陣触れが発せられた次なる合戦イベント「沖田畷の戦い」について、早速スケジュールなどを発表していきたいと思います(」゚ロ゚)」「沖田畷の戦い」は、以下のようなスケジュールを予定しております!【開戦日時】2023年03月15日(水)11:00【参戦期限】2023年03月20日(月)22:30【終戦日時】2023年03月24日(金)13:00狙ったわけではありません。が、奇しくも、沖田畷の戦いが行われたのも天正12年(1584)
肥前国、島原半島。この地を治める有馬晴信の運命は、“五州二島の太守”龍造寺隆信の攻勢により風前の灯火となっていた。天正12年3月、晴信の救援を決意した島津義久は、弟・家久以下3千の精兵に八代海を渡らせた。一方、島津・有馬両氏を一気に屠る好機と見た隆信も、自ら3万とも5万ともいわれる大軍を率い海陸から島原半島に押し寄せた。両者が相まみえたのは、無数の湿地が散在する沖田畷。智将・鍋島直茂擁する龍造寺軍は、即座に全軍を三手に分けて展開する。対する島津・有馬連合軍は厳重に柵を構えてこれを待ち
八代から在来線にて北上し、熊本へ。熊本城、行くと思たら行かんのかい熊本港へ向かうバスに乗り込む。↓白川途中見えた川は白川でしょう水源は名水百選にも選ばれている。天井川で、豪雨となるとしばしば氾濫し被害をもたらしてきた。加藤清正が治水事業に力を注ぎ、熊本城の外堀の機能も果たした。↓有明海海が見えてきた。有明海だ。写真右端に見えているのは、熊本港の埠頭の先端。↓フェリーくまもと乗ってるフェリーから見た、別のフェリー。有明海を横切り、熊本から島原半島へショートカットできる。
国道251号戦沿いに看板が出ています。長崎県島原市です。天正12年(1585年)3月24日朝から龍造寺隆信は兵25000を率いて、有馬晴信・島津義久軍8000と沖田畷(おきたなわて)で戦いました。龍造寺軍戦死者約三千名など両軍の犠牲者を埋葬した所に供養塔を立てています。この供養塔は、この土地にあった祠百二十九個を一箇所にまとめ昭和4年5月に建立したものだそうです。当時沖田畷は、胸までつかるほどの湿地帯でその中を細い一本道が通っているだけでした。地理に不案内な上、大軍を誇りに
皆様、ご機嫌YOです!さてさて、今回は前回に引き続き島津家ネタです。ちなみに次回も島津家ネタを予定していますが詳細は後で。ところで皆様は「島津家久」と呼ばれる人物が近い時期に二人いた事は御存じでしょうか。一人は薩摩藩祖である家久、そして今回紹介する島津四兄弟の末弟である家久です。一部の歴史ファンは両者を区別する為に、前者を「悪い家久」、略して「悪久」、「DQNな家久」、と呼び、後者を「釣り久」、「良い家久」と呼び分けています。では、なぜ家久(四兄弟の末弟の方)が「釣り久」と呼ば
【問題】沖田畷の戦いで、龍造寺軍が大軍の利を活かせなかったのは、次のうちどのような理由によるか?【選択肢】農繁期にあたり、勝手に帰国する兵が続出したため大半がキリシタン兵で、有馬氏攻撃に躊躇したため戦場が沼沢地で、大軍が一度に展開不能だったため猛烈な向かい風で、目を開くことも困難だったため【正解】戦場が沼沢地で、大軍が一度に展開不能だったため【解説】“沖田畷”の名が示す通り、戦場周辺は沼沢や深田が広がる湿地帯で、龍造寺軍が有馬・島津連合軍に攻め掛かるためには、畷の一本道を
常陸と同時に進めていた九州クエストのひとつ「沖田畷の戦いに参戦した武将を15人登用せよ!」をクリアしました!肥後に送った阿蘇惟豊が赤星統家を連れてきてくれました。「沖田畷の戦いに参戦した武将を15人登用せよ!」クリア!こうやってみると結構石高が重い面々でした。派生クエストなし・・・
今回のガチャ。外れなしとの前評判を聞き、紹介状13枚分を使ってまわしたところ、3枚目で慶誾尼、10枚目でなんとクマーを引き当て、ガチでカンタンしました。攻略動画はしばらくなさそうなので、クマーについて少し語ってみたいと思います。龍造寺隆信は肥前の一国人(町長レベル)から一代で、大友氏、島津氏と肩を並べる大勢力を築き、「肥前の熊」と称されました。その勢力は、北九州5カ国に及び、壱岐・対馬も含め、「五州二島の太守」と自ら号したほどです。その戦略眼や不屈の精神は、卓
こんにちは、スタルペスです。前回に引き続き「乱斗山古墳群(らんとやまこふんぐん)」の2回目です。この乱斗山の”乱斗”は”乱闘”のことだそうです。直訳すると、「乱闘の山」ということになります。昔、この地で龍造寺の残党と鍋島藩士の乱闘があり、多くの死者が出たことから「乱斗山」というそうです。1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」で島津・有馬連合軍に大敗を喫した「龍造寺隆信」は敵の手に落ち首を取られてしまいます。その後、家臣の鍋島直茂が実権を握っていくこととなります。
(その1)今、対馬と九州が熱い!!!!!!↑↑↑↑↑↑↑前回までの記事もう九州の中だけでも、沖田畷(おきたなわて)の戦いとか色々と不謹慎ながら少数で大軍を撃破なのは、智略での勝利は今のこのコロナ化の日本人にはとっても知って欲しい部分ですし。あ、最近の日本人は、バカが増えたから言ってますよ♡今、私の中で第二の戦国ブームが来てます!!!第一の戦国ブームは、映画【のぼうの城】を好きなアーティストのエレカシさんが、歌ってたから見てから戦国ブーム来ました。決して、のぼ
今朝も雨が降っていますね。箱入り娘ならぬ、籠入り娘になって相変わらず動かない田豊とらっきー、またの名を肥前の熊・・・・。今日は嫌な予感するニャン・・・・。ご先祖様の龍造寺隆信も絶頂期に島津兵の奇襲に遭って、まるで桶狭間の今川義元並みにあっさり命を落としたから、油断は禁物・・・・。とりあえず、視界の良い籠に入っていれば、安心。桜田門外の変みたいにもならないニャン・・・・。オラ、うすうす知っているけど、言わないニャン・・・・。byズブ高覧おい、
簡易ブログにてお伝えします。〖国盗りクイズ答え〗九州の有力大名・龍造寺隆信が討死した合戦といえば「沖田畷(おきたなわて)の戦い」である。○か×か?答え:〇〖城めぐりクイズ答え〗新開実綱とは、次のうちどの国の国人か?答え:阿波国