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※和意谷池田家墓所「一のお山」池田輝政公の墓・・・巨大な亀趺(きふ)の上に巨大な櫛型墓が載っています墓の正面には法名ではなく、「参議正三位源輝政」と生前の官位名と本姓(池田氏は源氏を名乗っています)が刻まれています池田輝政公の墓3️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から
※和意谷池田家墓所池田輝政公の墓所全景、一のお山、二のお山案内板・・・一のお山、輝政公墓所は、儒教式の墓です円墳の前に巨大な櫛型墓、回りには石製の玉垣が巡り、石扉は厳重に施錠されており、中には入れません池田輝政公の墓2️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅
※和意谷池田家墓所案内板・・・池田輝政公の墓所は「一のお山」になります※和意谷池田家墓所石碑…平成10年に国指定史跡になっています池田輝政公の墓1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】20XX春の戦国武将祭りin2024(1)』やっと今年に手がつくな。人数が多いので分割。先ずは星5覇道者上杉謙信さん吟味済み『【信長の野望20XX噺】飛竜乗雲(1)』『飛竜乗雲』ってどこかで聞いたことが…ameblo.jpの続き。本日最初は星4武芸者新納忠元さん吟味済み『【信長の野望20XX噺】激闘!沖田畷と私もぬかるみ』実は密かに楽しみにしていた復刻。早速見ていこう。先ずは隆信さん。中列敵1体物ダメ3.00周囲敵物ダメ1.00周囲とは前3中5
帰路につきがてら〜の朝散歩長久手古戦場跡の公園…池田恒興の長男おはよう池田恒興公園内のハジとハジにあるのだけど向かい合ってるなこのように入れませんま、通り道だったので立ち寄っただけでございます
期間:2024/03/29〜04/10天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)上杉謙信:陥陣の軍神武)武田信虎:府中移転の断戦)鳥居元忠:血天井の勇壮射)甘粕景持:軍神彷彿の武武)新納忠元:巨擘の師戦)相馬利胤:走馬の駒焼戦)佐竹義久:月丸の旗幟武)池田恒興:覇王後継の佐星3武)児玉就方:心眼・参射)吉田重政:会心撃・弐射)河原綱家:心眼・参星2覇)鍋島清房:機耐性・弐武)沼田顕泰:竹蓖返し戦)佐竹親直:疑心暗鬼©コーエーテク
※こちらの記事は、令和3年1月27日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第38弾として、「小牧長久手(こまき・ながくて)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第1回今山の合戦第5回長良川の合戦第6回桶狭間の合戦第8回金ヶ崎城の合戦第10回二俣城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦
「どうする家康」中央の金色の扇ですね。ここを目掛けて突進する大坂方。初期においては「厭離穢土欣求浄土」の纏と併用していたようですが、後に「金扇の馬標」のみになっていったようです。「大坂夏の陣」においてはこの金扇の馬標に突進して行ったのに対して、「小牧・長久手の戦い」の資料を読んでいるとこの金扇が立てられた時に不利とみて退却したと言われている堀秀政の「桧ヶ根本陣跡」を見つけました。堀(久太郎)秀政堀秀政は、美濃斉藤道三の家臣である堀秀重の長男として天文22年(1553
「どうする家康」も残すところ後2話です。来週は「大坂夏の陣」家康の覚悟が見えます。現在の大阪は「こざとへん」ですが、この時の大阪を表す時は「土へん」「土にかえる」縁起が悪いとのこと。「こざとへん」は「阜」という字の略でゆたか、盛んであるとか小高い岡を表しているそうです「大阪」に表記変更したのは明治になってからもあるそうで、「武士に帰ること」をも嫌ったという説もあるそうです。第46話では織田信雄も出てきてた〜「小牧城」での榊原康政が堀った抜け道の事も自分の手柄のように話
明智秀満(最終話)「このままでは織田家の次期当主は信孝になってしまうのではないか。」と難しい顔つきで秀吉は官兵衛に尋ねた。「何を仰せでしょう、すでに次期当主は明白ではありませんか。」「どういうことだ。」と重ねて問うと、「信長様は先代のご当主であり、今のご当主様は信忠様でした。さすれば次期当主は三法師様以外におりません。」と官兵衛は自信満々に言った。「しかし三法師様はまだ…。」と言いかけて、はたと気づいた。「官兵衛、お前は悪党だな。神輿は軽ければ軽いほど良いのか。
明智秀満(121)「待て、待て、さすれば、本物の殿はどうなさるのか。」と伝五は尋ねた。「殿には光重らとともに、隠し口から南山城の隠れ家に逃れてもらう。そこでご出家いただき、我らの菩提を末永く弔ってもらおうと思う。」と庄兵衛は言った。その話に広間の諸将は沈黙したのである。その沈黙を破ったのは荒木行信であった。「よし、その影武者、オレが引き受けた。」というと、佩楯の隙間から、矢で傷ついた太ももを見せた。「勝ち戦なら、治療も受けられようが、このままではいずれ歩
明智秀満(119)「浅野家文書」『同十二日ニ、池田(恒興)を致同道、同中河瀬兵衛(中川清秀)、高山右近令談合、山崎表へ馳せ上り申候へど高山と瀬兵衛と御先をあらそひ候間、筑前申様は、高山申も無餘儀候、手先之儀候條、一番合戦之所ニ陣取り固め、瀬兵衛と申談、合戦之陣取尤之由申候而、両人山崎之内ニ陣取をかためさせ、其次々天神之馬場迄、我等者を取續陣取を大坂へ人を進上申候間、働陣可申候、信孝様を相待、富田ニ一夜陣相懸申候事』秀吉の接近を知った光秀は淀城と勝竜寺城の補強を
明智秀満(118)「池田氏家譜集成」『扠、秀吉は十一日(注:実際は9日早朝)姫路を出勢して上られける、池田紀伊信輝兵庫ニ而出向ひ、先公不慮に傷害の事、互に涙せしあへす、ちからを合せて、光秀を討つへしと也、秀吉今より別而入魂の爲なれば秀次を信輝の婿に約し、信輝二男輝政を秀吉養子とぞ盟ける、其日十二日尼崎へ着陣なれば、池田父子、中川、高山、惟住、合し、軍評議有り、扠池田紀伊守信輝剃髪して勝入とぞ號しける、秀吉剃髪、』秀吉の「中国大返し」は分からないことも多い。まず、備
明智秀満(116)「毛利家日記」『六月四日、船ヲ飾リ、清水ヲ初メ、同兄弟月清、子右衛門尉、幷従者三人乗船、末近左衛門尉乗之、介錯ハ高市之丞、以上七人、清水拳一聲、秀吉公ノ陣ノ前エ漕寄切腹ス、従秀吉公、賜堀尾茂助、乗船ノ輩一度ニ自殺ス、籠城ノ輩ハ被送遣、安国寺、輝元、隆景、元春ニ披露ス、愁涙無止時、因茲和平相調、神文双方取替シ、翌日六月五日、秀吉公幷宇喜多ヲ初諸軍退去ス、就夫岩崎ヒサシ山ノ陣モ猿懸エ被内入、明智日向守反逆シテ、去二日ノ暁、洛下本能寺ニシテ、信長公御自害、秋田
明智秀満(112)「浅野家文書」『右之陣取を筑前不用、後巻而巳堅取巻申候へは城主腹をきり可申と懇望申候へ共、免不申候處、六月二日ニ、於京都、上様御腹めされ候由、同四日ニ注進御座候、筑前驚入候といへども御腹之御供をこそ不仕候共。於此陣者、任本意、城之事は不及申、毛利を切崩刎首申候者、明智退陣之儀は安御御座候と存切、六日迄至逗留、終城主事者不及申、悉刎首候事。』6月3日の夜、秀吉と官兵衛らが話し合っているところに早馬が来た。「火急な書状にて御人払いをお願いします。
家康と秀吉が激突した「小牧・長久手の戦い」について、大河ドラマ『どうする家康』では8月13・20日と繰り広げられていました。それを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳三河物語(ちくま学芸文庫)』から観ていきたいと思います。江戸時代になってからの振り返りなので、すでに関白殿(NHK大河ドラマ『どうする家康』の家康と秀吉のそれぞれの城(C)NHK)小牧・長久手の戦いについて織田信雄から助けを求められる1584(天正12)年、関白殿(羽柴秀吉)が、本所(織田信雄)に腹を
明智秀満(51)「信長公記」『今度、毛利家人数、後巻として罷り出づるについては、信長公御馬を出だされ、東国、西国の人数、膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り侯。然して、永岡、惟任両人は、大船に兵粮積ませ、永岡舟の上乗り。松井甚介、惟任舟の上乗り申し付け、因幡国とっとり川の内へ着けおき侯。』8月13日、毛利・吉川・小早川勢が因幡、鳥取に出陣するのではないかと言う風説が流れた。信長は丹後の
大河ドラマどうする家康第32回「小牧長久手の激闘」2023.8.20放送NHK総合BSプレミアムこんばんは~昨日「どうする家康」やっと観ました小牧・長久手の戦いについて、あまりよく知らなかったので、勉強になりました。徳川四天王が活躍した戦だったんですね特に、今まであんまり目立っていなかった榊原康政(杉野遥亮さん)が、大活躍していて。新鮮でした小牧山城の回りに抜け道をつくって、本国の岡崎を攻撃しようと出陣する敵の別動隊を、秘かに殲滅しようとする作戦。小牧山城を堅牢
森長可の討ち死によって、池田・森軍の左翼が、崩れ始めると、徳川軍の優勢となった。池田恒興は、自軍の立て直しを図ったが、永井直勝の槍を受けて、討死にした。池田元助は、安藤直次に討ち取られ、池田輝政は、家臣に、父と兄は、既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。池田恒興・森長可の軍勢は、潰滅した。長久手の合戦は、徳川軍の勝利に終わり、追撃した後に小幡城に引きあげた。この日の長久手の戦いにおける、羽柴軍の死者、二千五百余人、徳川・織田軍の死者は、約六百人。前述の通り
4月7日、徳川家康は、羽柴秀吉の姉の息子、即ち、甥である、羽柴秀次の軍が、上条城・大留城等、篠木周辺に、二泊宿営した頃に、近隣の農民、伊賀衆からの情報で、秀次軍の動きを察知した。4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高等の軍勢、四千五百人が、支隊として、小牧を夕方に出発し、小幡城に入り、付近の敵情を探った。徳川家康と織田信雄の主力の九千参百は、20時に小牧山を出発し、24時に小幡城に着陣。徳川・織田軍は、主力の到着に同時に小幡城で、軍議を行うと、兵力を二分して、各個に敵
久々に短期間の戦いとなった合戦イベント「長久手の戦い」が、本日14時終戦を迎えました。この短期決戦を制したのは、徳川・織田軍でした!まずは両軍のみなさま、イベントへのご参加誠にありがとうございました。大変お疲れ様でございました。今回の合戦は、現在放送中の「どうする家康」の影響もあり当初から家康方への参戦者が多いであろうという想定のもと、総攻撃が羽柴軍が1回多いという前提でスタートしました。開戦直後からやはり徳川・織田軍が人数で上回り、それにともなって軍功の差も徐々に開
「どうする家康」第32話「小牧長久手の激闘」ついに始まりました小牧長久手の戦い。織田家臣団の古参・池田恒興が秀吉に簡単には従うまいと、勝手に策略を立案して認めさせます。だがその策略は徳川方も見破っており密かに対策をしてました。池田恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次は岡崎城に撃って出ます。徳川勢が出てきたところを叩く。これが羽柴方の作戦。しかし、徳川は出陣をする様子が無い。ところが、岡崎城の手前に布陣してた池田勢は奇襲を受け、池田恒興、森長可討ち死に。羽柴秀吉は小牧山城の
『小牧長久手合戦図屏風』(部分、豊田市郷土資料館蔵)昨日放送の『どうする家康』は、「第32回小牧長久手の激闘」でした。まさに今開催中の合戦イベント「長久手の戦い」の部隊長も多数登場し、感情移入のレベルも最高潮に達するところです。さてその合戦イベント、今回は短期決戦といいつつもお問い合わせの数は増えていますので、いつも通りよくある質問を以下にまとめました。Q.鬨(とき)の声は総攻撃時以外でも3倍になることがあるの?A.「長久手の戦い」から、総攻撃の時に限って「鬨の声」
昨夜の「どうする家康」は我が街長久手市が舞台になりました。平均年齢日本一若い街住み心地ランキング2年連続日本一などとなっていますが、はるか昔は戦場だったのですね。「小牧長久手の戦い」ドラマでは小牧山城の周囲を深く掘削する土木工事からスタートして所謂「三河中入り作戦」を見事に打ち破った話でした。小牧山城を抜け出した家康軍が陣取ったのは長久手市役所裏手にある色金山。この岩は軍議の際に家康が座った床几岩と言われています。お隣り日進市の岩崎城です。ここには秀吉軍の中入り
羽柴秀吉は、織田信雄が、津川義冬・岡田重孝・浅井長時を処刑したことに激怒すると、織田信雄に対し、出兵を決断した。徳川家康は、織田信雄と同盟を結ぶと、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政等と結んで、秀吉包囲網を形成して、羽柴秀吉の陣営を圧迫したのである。本多忠勝は、丹波国の国衆である、大槻久太郎及び、蘆田時直に書状を遣わして、戦況を報告し、油断なく、堅固に城を守備するように指示している。特に時直宛の書状では、知行は、望み次第であり、その他の国衆には
大河ドラマどうする家康第31回「史上最大の決戦」2023.8.13放送NHK総合BSプレミアムこんばんは~土曜になって「どうする家康」やっと観ました最近、時間が取れないのもあり、先送りが定着化してきました。↑記事にするの時間かかるし今回はすぐ小牧・長久手の戦いが始まるのかと思ったら。なんかスゴく引っ張っていましたね。家臣ひとりひとりに、開戦に対する意見を聞いたりして。時間かせぎ?と思ってしまった(もちろん尺の)でも万千代~改め直政(板垣李光人さん)、かわい
お方さまが目指した世はなんとなく分かっているつもりですそれを為すためでございましょああ日ノ本を、二分する戦いに踏み切りましたが調略した池田恒興が裏切りいきなり窮地に鬼武蔵の異名をとる森長可(ながよし)城田優さんで、アニメかゲームかおもた2.5次元感^_^;天下分け目といえば、関ヶ原が有名すぎて小牧長久手の戦いってどんなだっけ⁇次回も注目です
史跡めぐりの記事です。今回は、愛知県長久手市にある長久手古戦場です。大河ドラマもいよいよ小牧・長久手の戦いですね。この戦い、ほぼ尾張地区全域と広範囲で展開された戦いです。圧倒的、数で不利ながらも家康の巧みな用兵術が見事な戦いだと思います。長久手古戦場(ながくて)天正12年(1584)に羽柴秀吉と徳川家康が激烈な戦いを繰り広げた主戦場跡地で、国の史跡に指定されています。小牧山に布陣した徳川家康に対して小牧山城を囲む形で羽柴秀吉が楽田城を中心に布陣しましたが、膠着状態が続きました。状況を打開
本日より地域限定城めぐり「新・岡山城宇喜多氏二代の足跡」がスタートしました。既に30名以上の猛者が全制覇を達成しているとの報告を受け、驚愕しています(;゚ロ゚)これから挑戦される方は、どうぞ熱中症と急な天候の変化にはお気をつけ下さい。岡山城といえば、宇喜多氏が二代続いた後、小早川秀秋を挟んで池田氏が城主となり幕末まで続きます。この池田氏こそ池田輝政の系統で、先日陣触れとなった合戦イベント「長久手の戦い」部隊長の池田恒興はその父、元助はその兄ということになります。…と、なんとか
明智秀満㉔「信長公記」『一丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし侯。次、羽柴藤吉郎、数ヶ国、比類無し。然して、池田勝三郎小身といい、ほどなく花熊申し付け、これまた天下の覚えを取る。ここを以て我心を発し、一廉の働きこれあるべき事一柴田修理亮、右の働きに及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、この春、賀州に至りて一国平均申し付くる事一武篇道、ふがい無きにおいては、属託を以て調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等に聞かせ相済むのと