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江戸6名君の一人に上げられている備前岡山藩32萬石初代藩主池田光政が領民のために設立した閑谷学校です。写真①、学校建築で唯一国宝に指定された閑谷学校の講堂桁7間×梁6間で入母屋造、備前焼瓦、10本の欅(ケヤキ)の丸柱に支えられ、四方の火灯窓(カトウマド)からは壮重さを感じる当時、武士(家臣)の学校は全国に数例あったが、庶民(領民)の学校として、我が国最初の公立学校です。写真②、学校の約1km南にある石門で度重なる道路の嵩上げ工事により当初4mあったものが埋
閑谷(しずたに)学校は【日本で一番古い庶民のための学校】です寛文十年(1670年)岡山藩主池田光政が創建1670年といってもピンと来ませんが私なりに比較対象を探してみるとアメリカの独立が1776.7.4なのでそれより106年前赤穂浪士の討ち入りは1702(元禄15年12.14)なのでそれより32年前に閑谷学校は作られていたと思うとびっくり国宝となっている講堂は入母屋造りしころぶきの大屋根とかとうまどが壮重な外観内部は十本の欅の丸柱で支えて
相方の誕生日ということで、ちらし寿司でお祝いを・・・もちろん、小太郎が大半作ったんだけれどね・・・(笑)今回は3種類作ってみたよ酢飯はノーマルで鮪(中トロ)、サーモン、ホタテ、錦糸玉子、刻み海苔をタップリ江戸前風ちらし江戸前というだけあって江戸が発祥。寿司飯の上に握り寿司用のネタを飾り乗せして並べたものなんですよ。まぁ、酢飯に海鮮を乗せるだけだから握らない寿司でといってもいいよね・・・(笑)なんでも「江戸前ちらし寿司」は江戸時代後期に寿司職人の賄い飯として誕生したと言われてい
昨年秋よりお届けしてきました「天守台シリーズ」ですが、年末年始にかけて訪城した「お城紀行」を優先して投稿しましたので、暫しの間中断していましたが、第67弾「鳥取城」から再開いたします。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケ
鳥取・島根漫遊初日。一の宮、重伝建を巡り、再び鳥取駅に戻ります。<旅の行程>1日目:鳥取→若桜→鳥取2日目:鳥取→湯梨浜町→倉吉→三朝温泉3日目:三朝温泉→大山町→米子→美保関4日目:美保関→米子鳥取駅から2km程。久松山に築かれた山城があります。◆鳥取城◆(国指定史跡・日本100名城)別名、久松城。戦国時代、山名氏・毛利氏・尼子氏により争奪戦が繰り広げられた後、毛利氏の重臣である吉川経家が入城しますが、天正9年(1581)、豊臣秀吉による兵糧
岡山市の中心部の岡山城脇を流れる吉備の大河・旭川は古来より氾濫を起こし、江戸時代初期(1654年にも氾濫している)に岡山城下町を守るため、岡山藩31.5万石初代藩主の池田光政(1609~1682)の命により熊沢蕃山や津田永忠などの指揮の基に旭川放水路の百間川(1669着工~1686完工)が築造された。川幅が100間(180m)有る事から百間川と呼ばれる(全長13km)<2>写真①、百間川への放流地点の旭川の流れその後も水害に見舞われて最終的には1974~1983年に本格的
「天守台シリーズ」第64弾は、「岡山城」です。いよいよ中国地方のお城の「天守台」紹介です。外観復元の「岡山城天守」と「天守台」(「天守曲輪(本壇)」から)現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築し
江戸時代に庶民が学べる学校がありました。当時の閑谷学校で、現在は旧閑谷学校と呼ばれております。閑谷学校には楷の木があり、楷書の語源になった木(≒学問の木)です。”同じ楷の木”なのに左右で違う色に色付くことも面白いです。良い青空が嬉しかったです。大人気の場所とアングルですが、こういうショットのタイミングがありました。向かって右側の木の黄葉の葉っぱが透けています。これは木が弱っているんだそうです。また元に戻れるのかどうか。。。。反対側のアングルでも、少し紅葉の葉が透けてるん
伝兵衛のぶらり街歩きシリーズ備前国「日本遺産のあるまち」~JR赤穂線伊里駅~2021年夏~初秋。JR赤穂線沿線ぶらり歩き、続行中であります。今回は、いつものように播州赤穂駅で岡山行きに乗り換え。五駅目の「伊里駅」で下車しました。停車する際、駅ホームに設置されているこの看板が気になっていました。駅前の川沿いの道を南へ歩き、左折して赤穂線のガード下をくぐり、山裾の道を南へ歩きます。右手の水田の中に、駅の看板で見た記念碑が見えてきました。「井田碑(せいでんひ)」です。井田とは、中国
只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。「東日本のお城の櫓門」の総集編及び「西日本のお城の櫓門」前半はこちらからご覧ください↓『<東日本のお城>の”櫓門”前半総集編』5月9日から始めた「櫓門」シリーズは、「東日本(※)」のお城42城の「櫓門」をお届けしてきました。(※)東日本、西日本は、「中部地方」で東西を分けました。こ…ameblo.jp『<東日本のお城>の”櫓門”
ちらし寿司で好きな具材は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう承応3年(1654)、備前(岡山県)で大洪水があり、当時の藩主であった池田光政公が「一汁一菜令」という倹約令を出しました。災害復旧の為、食事まで制限された人々は、その様な状況下でも少しでも美味しい食事をしたいという思いから出来る限りの副材をご飯に混ぜ込み、一つにしたという庶民の工夫がちらし寿司のきっかけとなったそうです。6月27日はその池田光政公の命日だそうです。ちらし寿司といえばひ
台風だ、朝から本降りの雨だ、と予報されていた日曜日。明けてみれば曇ってます。しかも雲が薄くて結構明るい。今朝になって午後から雨の予報に変わりましたが、どうなのかなぁ?どうやら予報でも本降りにはならないみたいです。昨日は星ノ飛ブ夜のライブに出かけました。星の飛ぶ壺、壺中天。壺の中に天にきらめく星があるかのように、既存の音楽をぶっ飛ばす。ロックあり、演歌あり、時代劇やプログレあり、新曲もあってといろいろとあってとても面白かった。もちろんアレンジや構成は毎回変わるのですが、うねるよう
ちらし寿司で好きな具材は?定番のちらし寿司の具と言ったら、錦糸卵・蓮根・椎茸や人参干瓢を煮たもの・海老・さやえんどうでしょうか?穴子が入っているのを食べた事あったかもしれません。穴子大好きです。定番の具の中では、煮た椎茸が好き。ここでは新鮮なお刺身が手に入りにくいので、我が家ではスモークサーモンを使っています。ところで、何故今日がちらし寿司の日なのか、ちょっと調べたところ、この日が岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日だから、だそうです。2
ちらし寿司で好きな具材は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようちらし寿司の日(6月27日記念日)広島県広島市西区に本社を置き、ちらし寿司などの調理用食材の製造・販売メーカーである株式会社「あじかん」が制定。日付は、この日が岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日であることから。山の幸、海の幸などの食材をたっぷり使ったちらし寿司を食べて、夏に向けて元気になってもらおうと記念日とした。記念日は2004年(平成1
ちーらしぃ寿司ぃなーらぁえっ?あっ?す…すいません…不肖ツカちゃん…つい…チョーシこいて…歌っちゃいまちたぁ!こちら調理用食材でおなじみの、あじかんさんが制定マンボぉ!なんでもきょうが、岡山のばら寿司ができるきっかけになった…備前岡山藩主!そうでち!池田光政さんのご命日なんだとか!ちなみにきょうは…いやーん!演説の日…でも…あんでちゅー!さかのぼりますこと1874年のきょう…慶応義塾の三田演説館で…日本初の演説会がこかれたことにあやかってだそーなんでちゅ!ちらし寿司
1609年5月10日(慶長14年4月4日)に岡山藩主の池田光政が生まれました。池田恒興の曽孫であり、池田輝政の孫です。父は池田利隆です。1613年に祖父の池田輝政が亡くなり、父の池田利隆と共に徳川家康に謁見します。このとき徳川家康は5歳の池田光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「池田輝政の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけました。そして脇差を与えますが、池田光政は徳川家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物だ。」と言ったそうです。徳川家康は池田光政の
次に向かったのは鳥取城鳥取藩といえば---徳川家康の血筋の親藩で池田家が治めたけれど幕末には新政府側について維新に貢献した---それくらいの前知識しかなかったのですがいやはやとても立派なお城でした県立博物館近くの西坂下御門(復元)から入りました整備された石段をあがると目の前に三階櫓の石垣がそびえますこの時は気が付きませんでしたが右の一段上がった手前角の下にお左近の手水鉢が埋め込まれていますお左近(さこ)は城の改築で活躍した女中とか
別に祝い事という訳でもないのだけれど、鰻がを食べようと2人前ストックしてあったとおもったのですが・・・なんと1人前しかなかったのです・・・(笑)ということで鰻丼はやめて別な形で鰻を食べることにしました。うなぎちらし寿司そうそう、鰻の蒲焼を細かく刻み、小口切りにしたきゅうりを塩でもんで水気を切り、錦糸玉子をつくり、酢飯に混ぜ込んで出来上がり~うなぎはビタミンA・B1・B2・D・E・DHA・コラーゲン・EPA・ミネラル等の栄養素豊富で高たんぱくで消化も良いうえ、免疫力増加
暫くの間「三重県のお城紀行」を投稿していましたので中断していた「全国の“二重櫓”を巡る」を再開いたします。引き続きご愛顧ください。「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南にかけてお届けしています。本日第26弾目は、「岡山城月見櫓、西の丸西手櫓、天守付櫓の塩櫓」の三基です。当初、「月見櫓」は「三重櫓」に分類して含めていませんでしたが、一般的には一重目の瓦部分は「庇」であるの
名古屋のシンゾウですなかなか覚えられません。「洛陽三十三所観音霊場」です。京検の最近の出題傾向を考えると、必出問題になる予感がします。初めて聞いた寺名が沢山あります。私が苦戦しているのは以下のとおりです。(08)大蓮寺→有栖川宮家、八坂神社の仏像を移す(廃仏毀釈)(18)善能寺→泉涌寺塔頭、ばんだい号の慰霊←出題済み(22)城興寺→最雲親王の弟子の以仁王が寺領を領有(24)長圓寺→源信(「往生要集」)作の聖観音菩薩、板倉勝重と一族の菩提寺(26)正運寺→「安産寺」
こんばんは。今日から3月。6府県、緊急事態宣言が解除になりましたね。さて先日私たちは、旧閑谷学校へ行きました。こちらは江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主・池田光政によって創建された、現存する世界最古の公立学校で、“日本遺産第一号”に認定されています。★校門屋根は備前焼の本瓦葺き棟に鯱が載っています。★閑谷神社閑谷学校の創始者・池田光政を祀っています。★講堂(国宝)入母屋造り、しろこ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な外観を形作っています。また内室は、火灯窓から入る光
岡山藩主池田光正公が承応4年2月、当時16歳の津田永忠の持っていた扇に書き与えたものだそうです。これは、そのレプリカ。「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や護らんつくばやま葉山茂山しげけれどおもひ入にはさはらざりけり」
こんばんは、のいです。今回は松下幸之助さん著「指導者の条件-人心の妙味に思う-」です。本書は私が初めて読んだビジネス書です。パナソニックの創業者、松下幸之助さんが歴史上の人物の様々な行いから、「指導者とは何たるか」をくみ取って一冊にまとめたものです。中でも一番心に残っているのが、岡山の名君、池田光政公の事例です。光政公が若いころ、先輩大名に政治の取り組み方を尋ね、「四角い器に味噌を入れ、丸い杓子で取るようにする」と言われたそうです。指導者は基本を押さえ、
岡山県の郷土料理に、“かくし寿司”という料理があります。岡山駅で、かくし寿司の駅弁を見つけたので購入。中身は、ちらし寿司かばら寿司のようですが、指示通りにふたを開けると。。白飯しかない!これが、かくし(隠し)寿司。なんでも江戸時代初期、岡山藩の初代当主、池田光政が、倹約令をだし、贅沢を禁じたらしい。そこで、庶民はお殿様などの前では、こんなに質素倹約ですよ、と。お殿様などがいなくなり、ひっくり返すと、具材がど~ん!具材たくさんのお寿司を食したらしい。おもしろいですが、ほん
なんでも九州北部は大雨ざんざかのようですね!そーですね!そんな中ズム兄がラジオで謝罪したようですね!そーですね!画像は売られないよう気をつけないと…ですね!そーですね!で…ごめんちゃーい!きのうおとといに続いて、きょうもまた…ツカちゃん…パタパタおじさんイモ食ってぷ!ぷ!ぷー!いやいや…きょうもおうちのことで、ぱたぱたしまくら千代子!なもんでブログの用意…できてないんです!ヒルナンデス!いやー心の底から…ごめーん…ちゃいちゃいチャイニーズ!なワケで…ブログは…日づけが変わったころ
<開催レポート>名古屋城の実物大金シャチレプリカが宮崎空港に初上陸「名古屋おもてなし武将隊による...PRTIMES(プレスリリース)名古屋おもてなし武将隊から織田信長が宮崎空港に参上!...セレモニーでは、名古屋城を拠点に活動をしている「名古屋おもてなし武将隊」の織田信長と踊舞が...御朱印ブームに続け吉川広家の「御将印」販売47NEWS米子観光まちづくり公社(川越博行理事長)は、米子城を築城した武将、吉川広家の「御将印」の販売を始めた。全国的にも珍しい取り組みで、
令和最初の建国記念の日、午後からは所用のため在宅しなくてはならなかったが、天気がとても良かったので十数年ぶりに下津井城へふらりと出かけた。鷲羽山の西、倉敷市下津井にある。-下津井城(しもついじょう)概略-海上交通の要衝と言える下津井の瀬戸内海が見渡せる標高約90mの丘陵上にある連郭式平山城である。現在、岡山県史跡に指定されている。主郭全景なお、下津井は倉敷市にあるが児島とともに旧国名では備前国に属する。桃山時代の文禄年間(1592年~1596年)に宇喜多秀家が海上交通に睨みを効かせる
岡山県備前市の閑谷学校の所にある、閑谷神社の屋根工事が終わり、工事の様子と今まで公開されることのなかった神社内部が初公開されました。屋根工事の足場の上に立って工事がどのようにされたか説明を受け、その後神社の中へ案内されました。池田光政公をお祀りしている神社で、アゲハチョウの紋様が沢山有りました。とても興味深い内部でした。<閑谷学校><閑谷神社屋根><閑谷神社内部初公開>内部アゲハチョウの紋様神社漆の木でで
昨日の岡山への旅の続きです。(昨日の記事はこちら)まずは、岡山県出身の画家として有名な竹久夢二の生家へ!竹久夢二といえば…↑こんな、面長でどこか儚げな夢見るような女性を描いたことで有名な、明治後期から大正、昭和初期に活躍した画家です。まさに大正ロマンって雰囲気に溢れてますよね〜!↑その夢二が自ら設計して住居兼アトリエにしていた「少年山荘」を復元したもの元々は東京にあったものですが、夢二の次男不二彦氏の協力を得て、夢二生誕95年を記念して夢二の故郷のこの地に建てられたものだそうで
江戸時代の郷学としてその名と建物・敷地が残っている閑谷学校。かなり以前から行きたかったところだった。念願がかなったのは2017年6月のことだった。前日に岡山市に入り、前泊。というのも、交通の便がとてもよくないからだ。その岡山市ではおりしも岡山城址内にある県立博物館で「江戸時代の岡山の学びー教育県の源流ー」という企画展があった。企画展の説明は次のようになっていた(http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/documents/manabi-ura.p