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※和意谷池田家墓所「三のお山」左(手前)が池田光政公、右(奥)が勝子の墓です池田光政公、勝子の墓1️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀
※和意谷池田家墓所「二のお山」池田利隆公、正室鶴子の墓所・・・向かって左(奥)が利隆、右(手前)が鶴子の墓です池田利隆公、鶴子の墓戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573
高松から岡山市中心部へ戻ってきました。岡山城の住所が岡山県岡山市北区丸の内。備中高松城の住所が岡山県岡山市北区高松。実は二城とも岡山市北区なんですよ。前回はJR移動してまして岡山から高松まで5駅で、確かに20分ほどで到着した記憶。距離にして約15kmだそうです。こんなに近いんだけど令制国時代の岡山城は備前国、高松城は備中国。二城とこ国境に近い位置だったのが非常に興味深い。さて…ホテルへ戻りまして少し早いけど今日はもう部屋で駄目人間なろうかと思ったが…まだ日も落ち
※和意谷池田家墓所入口に建つ巨大な石鳥居と国指定史跡「和意谷池田家墓所」案内板・・・岡山藩主初代池田光政公により2年間の歳月をかけ和意谷敦土山に池田宗家本墓所を築きました平成10年(1998)菩提寺岡山曹源寺とともに国指定史跡となっています和意谷池田家墓所※和意谷池田家墓所配置図案内板・・・この案内板を写真に撮って、パンフレットと見比べてまわりましたが、ほぼ「登山」でフラフラになりました(一から六のお山までしか行けませんでした)しかし、
例の脚に真剣ブッ刺し事件だがとある記事を見て…初めに加害者の教員を擁護するつもりは全く無いと言っておく。この事件に対してコメンテーターらしき男が「居合道家は何故か知らないけど真剣を使いたがる」と発言。なんでわざわざ危険な日本刀を使うの?なんで居合刀を使わないの?という事。剣術家にとっての日本刀は職人の道具と同義。職人は自分の使う道具に強いこだわりを持つ。同様に剣術家は自分が扱う日本刀に強いこだわり持つ。もっと分かり易く言えば野球選手が自分好みのバットをオーダーする。これと同じこ
昨日の「比丘尼塚」左隣にもう一つ、すぐ横です。こんな碑(墓石)がありまして、こちらは古墳とは言えない江戸時代の話。解説板・福田五人衆:岡山藩主・池田光政の治世、弾圧に遭い、美作のこの地に落ちのび終焉をここで迎えたというものらしい。モッコリ、いや”こんもり”したところに、このような穴が。ここでしばらくは暮らせてたんだろう。それだけなんですけど。(-_-;)にわとり飼ったことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようないです~、朝早くから「コケコッコー」うるさ
12/23(土)に城友と訪城した最後のお城(3城目)は「山崎陣屋」(兵庫県宍粟市山崎町)です。「篠ノ丸(ささのまる)城」から下山して駐車場から車に乗り、坂道を下ったすぐの所にあります。私達は、「山崎市立図書館」近くに車を置いくと、もうそこは「内堀」跡を綺麗に舗装した道になっていました。「内堀跡」碑↓「内堀」跡↓「山崎陣屋」の資料が「図書館」で貰えないかと入館して伺うと、「ブラやまさき」というガイドブックと「山崎歴史郷土館」の資料をいただきましたので、その後の遺構巡りに凄く役立
吉方稲荷から若狭街道に戻る途中、一本橋という橋に出会った。若桜街道から城下に入るときに渡る袋川に架けられた橋だ。かっては、丸太を一本渡した橋だったため、この名がある。室町時代までの鳥取市は、低湿地に覆われており、袋川が久松山の山麓近くを蛇行して流れていた。その頃は『湊川』と呼ばれることもあった。16世紀半ばに鳥取城が築かれると、湊袋川は西側に対する重要な防御ラインとなった。江戸時代になり、池田長吉、つづいて池田光政が鳥取城に入ると、袋川には9つの惣門が設けられ、鳥取城の総構えとされた。
岡山市大岩墓所の調査(「岡山藩重臣の眠る墓」をご覧ください)を通じて岡山藩の葬制に興味を抱いた私は、自宅近くの矢坂山にある滝川家の墓所を訪れました。滝川家は織田信長に仕えた滝川一益の五男辰政にはじまり、代々禄高3000石で岡山藩の番頭〈ばんがしら〉を務めました。当主夫妻やその子女の墓石が30基ほど立ち並ぶ墓所の奥に、「滝川氏一宗之墓」と刻まれたひときわ小さな墓石があります。滝川辰政の孫にあたる一宗(1629~1674)は、藩主池田光政の庶女六姫(1645~1680)に見初められ、寛文2年(
その日のうちに、泊まり予定の4人で、日生(ひなせ)から岡山駅前へ移動。夜は岡山城がライトアップされているが、見に行くパワーが無かった。↓桃太郎像日頃から不摂生なヤツばかりなので、朝はゆっくりダラダラ。。暇なので、一人で朝の散歩へ。ホテル近くの宇喜多直家供養塔と菩提寺に行くも、かたや寺の工事中、かたや朝早すぎて門が閉まってた。仕方なしに、駅前の桃太郎像を見にきた。↓桃太郎像2岡山県といえば桃太郎、桃太郎といえば岡山県というイメージたが・・・近年、桃太郎発祥地は山梨県大月市だ、とする
本日、広島出張に行く途中、岡山県備前市にある旧閑谷(しずたに)学校を訪問しました。閑谷は「しずたに」と読みます。1670年に設立された日本で最古の一般庶民向けの学校。岡山藩主・池田光政は非常に開明的な人物だったようで、藩士向けの藩校を1668年に創立したわずか2年後に庶民向けの閑谷学校を創立しました。そして、学校に領地を与えて財政基盤を確立するなどこの学校を後世に残すために様々な手を打ったようです。国宝の講堂。資源を持たない日本の強みと言えば、やはり人材。池田光政のような人物
山陽自動車道のインターチェンジや岡山空港へのアクセス道路が整備され、近年にぎわいを増している岡山市津高〈つだか〉地区。その西方にある大岩山の頂きには、かつてここを采地とした岡山藩重臣池田家の墓所がありました。初代の池田武憲〈いけだたけのり、1650~1690〉は藩主池田光政〈いけだみつまさ〉の従弟〈いとこ〉にあたり、禄高四千石の番頭〈ばんがしら〉として家老に次ぐ地位を占めました。武憲はまた熊沢蕃山〈くまざわばんざん〉の娘を娶り、池田家一門の重臣として出頭人の津田永忠〈つだながただ〉と鋭く対立し
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、第47回まで投稿してきましたが、約1ケ月の間「お城紀行」の投稿を優先しましたのでお休み(中断)をしていました。今回から、久々に第48回目を再開いたします。初回は、「プロローグ」ということで「天守」についてのエピソード等をお話をし、2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)」を織り交ぜて掲載してきました。「天守(御三階櫓含む)」の構造など
岡山市東区水門町には驚く風景がありますそれがこれ・・写真ではなかなか伝わらないのでGoogleMapでみるとこんな風に川の中に小さな出島?があるのです千町川大水門(東側)・千町大水門(西側)をつなぐ堤防の上にできた島で数軒の立派なお家が建っていますまるで軍艦のように凛と威容を称える姿で川上から見えたお家はお蔵や茅葺の母屋もあります大水門の歴史は貞享元年(1684)幸島新田の完成に遡ります江戸時代・・岡山の新田干拓は
こんにちは。蒸し暑い日が続いておりますね。そして雨も凄い。少し前には雷で停電してパソコンが途中でシャットダウン、大変な目に遭いました。さてさて岡山城は散策の続きです。岡山城にほど近い岡山神社。岡山の総鎮守として建立。岡山城増築の際にこちらに移されたのだとか。裏手の駐車場から望遠レンズでパシャリ。早く城に向かいたい自分もいますがまだイキません。逸る気持ちと闘いながら城周辺を散策。ひと際デカい建物がありました。何でしょう。このデカい建物がある交
一宮市河田城跡6月27日はちらし寿司の日。卵焼きなどの調理用食材を製造販売する広島県の株式会社あじかんが制定。岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日。ちらし寿司美味しいですが、イクラが入っているものは、特に大好物です。
ちらし寿司の好きな具材は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようちらし寿司の日(6月27日記念日)広島県広島市西区に本社を置き、ちらし寿司などの調理用食材の製造・販売メーカーである株式会社「あじかん」が制定。日付は、この日が岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日であることから。山の幸、海の幸などの食材をたっぷり使ったちらし寿司を食べて、夏に向けて元気になってもらおうと記念日とした。記念日は2004年(平成16年)に
岡山を代表する郷土料理「岡山ばら(ちらし)寿司」。その起源は、江戸時代に岡山藩初代藩主の池田光政(1609~82)が「食事は一汁一菜(飯のほか、汁とおかずを各1品)に限る」との質素倹約のお触れを出し、贅沢を禁止した。それに反発した町民は、瀬戸内の魚介を底に敷き、見た目は質素なばら寿司を考え出した。人目を忍んでひっくり返すと見事なばら寿司に!表向きだけ一汁一菜にした--と説明されることが多い。しかし、この光政原因説を「根拠なし」とする報告が15年前にまとめられ、これに基づき、名物駅弁のパ
6月27日は【ちらし寿司の日】です。この【ちらし寿司の日】について調べてみました。【ちらし寿司の日(ちらしずしのひ)】広島県広島市西区に本社を置き、ちらし寿司などの調理用食材の製造・販売メーカーである株式会社「あじかん」が制定。日付は、この日が岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日であることから。山の幸、海の幸などの食材をたっぷり使ったちらし寿司を食
ちーらしぃ寿司ぃなーらぁあぁ…サブちゃん…ん?あっ!不肖ツカちゃん…つい…チョーシこいて…歌っちゃいまちたぁ!こちら調理用食材でおなじみの、あじかんさんが制定マンボぉ!なんでもきょうが、岡山のばら寿司ができるきっかけになった…備前岡山藩主!そうでち!池田光政さんのご命日だそーでちゅ!ちなみにきょうは…いやーん!演説の日…でも…あんでちゅー!さかのぼりますこと1874年のきょう…慶応義塾の三田演説館で…日本初の演説会がこかれたことにあやかってだそーなんでちゅ!ちらし寿
元禄6年(1693)、鳥取藩初代藩主、池田光仲が没した。寛永7年(1630)6月18日、岡山藩主・池田忠雄の長男として岡山藩江戸藩邸で生まれた光仲は、寛永9年(1632)、父忠雄の死後、わずか、三歳で家督を継ぐことになる。幼少のため、備前岡山を治めることは難しいとされたが、家康との縁戚関係にあるため、光仲を鳥取藩32万石に、従兄の鳥取藩主・池田光政を備前岡山31万5,000石への国替えが行われた。水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び称される江戸時代初期三名君、備前藩主池田光政は、
岡山県備前市の閑谷(しずたに)学校を見てきました。閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校とのこと。2015年4月には「近世日本の教育遺産群」として最初の日本遺産に認定されたそうです。校門、講堂(国宝)、飲室、文庫etc.etc重要文化財に指定されている施設はほかにも多数ありましたが、どれもとても立派で大変素晴らしかったです。また、明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設された校
どーも、castom98です。先日、岡山県の古墳見学に出かけた際、山中で何やら史跡?を発見。訪問したのは2023年3月ですので、現在では状況が異なっている場合がある点をご了承ください。山上の古墳群目指して狭い林道を登っていたところ、矢印のある看板を発見!名馬東雲号とな?!全然聞いたことありませんが、とりあえず見学開始!塚というか・・・真新しい墓地があります。遠目には単なる墓のように見えますが・・・?ふーむ、二代将軍徳川秀忠公の孫娘と結
岡山県立和気閑谷高等学校創立330年記念誌より(2000年)孔子七十七代子孫女史から母校に賜った直筆の軸教えありて類なし類は物事の軽重、違い誰にも分け隔てなく教えられるはじめから相手の軽重を問うて教えるわけではないそれでも習得する中身に【類】が生じるのは教えられる側の姿勢と努力の違いである母校の同窓会からの便りの封筒にはいつも論語の一章が書かれているそのことを生徒さんにお話した時に学生の時、苦手だった論語を再勉強したいというご希望があり
JRグループの「鉄道開業150年記念秋の乗り放題パス」で、10/18(火)〜20(木)にかけて、山陰、山陽地方の「城巡り」に出掛けました。「福山」から「岡山駅」に到着したのが13時30分でした。駅前からは路面電車で「城下」電停まで移動しました。先日は「鹿児島」でも路面電車に乗りましたが、路面電車が道路上をガタ~ンゴト~ンと走る音は大好きです!岡山市内を走る路面電車(岡山電気軌道)「岡山城」(岡山県岡山市)に来城するのは12年ぶりでしょうか。「岡山城」の「天守」は、11月3
スムーズにいかない時は、本当に行きませんね。一歩進むのに時間を要して、やっと行けたと思ったら次で足止めを食らって……今日は運が悪かっただけ、と思っておきます。池田光政生年月日1609年5月10日(日)日干支戊午同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・細川幽斎(細川藤孝)1534年6月3日・新渡戸稲造1862年9月1日
こんばんは、今日もお越しいただきありがとうございます。今日の暑さも厳しかったですね!ちょっと動くと玉のような汗が出ました。今日はちらし寿司の日です。今日がちらし寿司の日になったのは、ちらし寿司が生まれるきっかけを作った岡山県の藩主、池田光政が亡くなった日だからです。池田光政がちらし寿司を作ったわけではありません。池田光政が質素倹約を奨励し、食事は一汁一菜にするように布告したのです。これに対して庶民がいくつものおかずをご飯に混ぜ込んでしまう工夫をしてちら
みんなで一緒に作れるおすすめのごはん教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようおはよーございまーす🌸今日は「ちらし寿司の日」です🌸ちらし寿司は具材に錦糸卵を混ぜた五目ちらしをイメージする方が多いとは思いますが、海鮮丼のようにも見える江戸前ちらしと言うものもあります💕違いは海鮮丼は通常の白飯に対し、江戸前ちらしは酢飯なのです❣️今日もファイトですー🌸✨—ソラ🌸(@soraplaza)June27,2022全国せんじ揚げファンの皆様おはようご
▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう※岡山名物、ばら寿司の一例。ちらし寿司などの調理用食材の製造販売会社、あじかんが2004年に制定した。日付は、この日が岡山のちらし寿司、ばら寿司が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主、池田光政の命日であることから。○岡山ばら寿司=瀬戸内海の海の幸と、旬の野菜を、華やかに盛り付けたお寿司。○3/3春のちらし寿司の日、11/1すしの日とは異なります。
ちーらしぃ寿司ぃなーらぁん?あっ?す…すいません…不肖ツカちゃん…つい…チョーシこいて…歌っちゃいまちたぁ!こちら調理用食材でおなじみの、あじかんさんが制定マンボぉ!なんでもきょうが、岡山のばら寿司ができるきっかけになった…備前岡山藩主!そうでち!池田光政さんのご命日だそーでちゅ!ちなみにきょうは…いやーん!演説の日…でも…あんでちゅー!さかのぼりますこと1874年のきょう…慶応義塾の三田演説館で…日本初の演説会がこかれたことにあやかってだそーなんでちゅ!みんなで一