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第35回全国高校選抜野球大会入場式戦後まもなく復活し、今日までに春の甲子園大会に7回、夏の大会に4回出場した。そのうち昭和38年の第35回選抜野球大会に優勝、続く夏の選手権大会には準優勝の栄冠を得た。力投を続ける池永投手下商応援団Sの文字が熱狂で乱舞優勝旗を受ける佐野主将幾度か夢見た勝利の栄冠校歌が流れ校旗がセンターポールに幾度か夢見た勝利の栄冠校歌が流れ校旗がセンターポールに大優勝旗郷土に唐戸大優勝旗郷土に赤間町大優勝旗郷土に山口県庁前(下商百年史図録編より)(
「松山千春『空-翼を広げて』に思うこと~松山千春全作品解説139~」S2697・松山千春DATABESE総合TOPPAGENF・アーティスト別LIVEDATABESE総合TOPPAGENF◇更新履歴V1.0:2014.10.31初稿V1.1:2019.09.26最新エディタにて記事を作成し旧記事と差し替えおよび所有のアルバム画像を掲載V1.2:2022.09.29追記及びオフィシャル動画・音源へのリンクV1.3:2024.02.19追
ひとつ前の当ブログの続きです。2014年に「野球賭博」に関わっていた読売ジャイアンツの3投手(笠原将生、福田聡志、松本竜也)は、二軍の練習場に「借金の取り立て」が来たことがきっかけで発覚。バレそうになると、メールを削除して「証拠隠し」をしたり、「口裏合わせ」をして逃れようとしましたが、結局は連盟から「無期失格」となりました。この言葉も「永久追放」よりずいぶんマイルドですが、事実上の「追放」です。さらに、後になってから高木京介投手も上の3人とともに「野球賭博」に関わっていたことが発覚しました。
このところの当ブログで、1969年から1970年にかけてプロ野球界を揺るがした「黒い霧事件」は読売グループが「西鉄ライオンズ」潰しの意図を持って報じたということを書いています。そこには、読売新聞の北九州における販路拡大と「1リーグ構想」があったと言われています。そのため、1956年~1958年の「日本シリーズ」で3タテをくらわされた西鉄ライオンズをターゲットにしたのです。不世出の名投手・池永正明さんを永久追放に追い込んだ読売グループは、彼の大ファンだった僕には大きな怨みがあります。それ以前から
このところの当ブログで、1969年~1970年にプロ野球界に吹き荒れた「黒い霧事件」は読売グループが西鉄ライオンズ潰しの意図を持って報じたのではないかということを書いています。読売新聞の北九州における勢力拡大という狙いに加えて、1956年から1958年にかけて日本シリーズで西鉄ライオンズに苦杯をなめたことへの復讐もあったと思います。読売系の「報知新聞」が先陣をきった「黒い霧事件」報道によって、ライオンズのエース・池永正明投手は永久追放になって弱体化、1973年には「身売り」ということになり、読
ひとつ前の当ブログで書いたように、1969年~1970年にかけてプロ野球界に起こった「黒い霧事件」は最初にスクープしたのが読売系の「報知新聞」ということもあって、北九州での部数売り上げを狙った読売の「西日本新聞」潰しが根本にあったのではないかと言われています。「西日本新聞」が西鉄ライオンズのスポンサー企業のひとつだからですが、さらに言えば「西鉄ライオンズ」を潰してしまえという思惑すらあったと思います。当時のプロ野球は巨人が圧倒的な人気がありました。「実力のパ」と言われながら人気面では「お荷物」
ひとつ前の当ブログの続きです。1969年オフ~1970年にかけてプロ野球界を覆った「黒い霧事件」で、池永正明投手に「永久追放」の処分がくだったのは、他の選手と比べても重すぎると思います。「八百長試合」に関わったと認め永久追放になった与田順欣投手、益田昭雄投手が「池永を俺たちと同じ処分というのはおかしい」と言ったぐらいですから。当時から、池永投手を「永久追放」にしたのは、ネームバリューのあるスター選手をひとり入れておかないと示しがつかないという「見せしめ」の意味があるんじゃないかということが言
このところの当ブログで、昨年2022年9月25日に76歳で亡くなられた池永正明さんのことを書いています。僕がプロ野球を観始めるようになった頃の大エースで、憧れの投手でした。それだけに、1969年の「黒い霧事件」に巻き込まれて、永久追放になってしまったときは本当にショックでした。そもそも、池永正明投手は元チームメイトの中日・田中勉投手から、「百万円」を渡されたが「八百長はきっぱりと断った」のです。なぜ、その場でお金を突っ返さなかったかというと、西鉄ライオンズの投手の先輩である田中さんが手をつい
ひとつ前の当ブログで、池永正明さん(2022年9月25日、享年76歳)の卓越した身体能力について取り上げました。その中で、「黒い霧事件」に巻き込まれて永久追放になったあと、ゴルフを始めたら1か月でハンディが3になったということも書きました。ゴルフでも非凡な才能を見せた池永正明さんを、尾崎将司さんがプロゴルフ界に誘います。実は、尾崎将司さんは池永正明さんと一緒に「西鉄ライオンズ」に入団した同期生なのです。尾崎将司(プロ野球時代はは正司)さんは徳島海南高のエースとして1964年(昭和39年)の選
ひとつ前の当ブログの続きです。昨年2022年9月25日に76歳で亡くなった池永正明さんがどんなにスゴイ投手だったかということを書いています。1965年西鉄ライオンズに入団、1年目にいきなり20勝で新人王。高卒1年目で20勝はそれ以後出ていません。今は、どんな有望投手でも高卒1年目は「体力作り」がスタンダードになっています。「投げさせない」ことも珍しくありませんから、もう出ることのない記録でしょう。池永正明さんは下関商のエースとして、2年生のとき春の選抜で優勝、夏は準優勝を果たしましたが、実は
ひとつ前の当ブログで、2017年6月24日に63歳という若さで亡くなった永射保さんのやっていたスナック「サウスポー」に行ってみたかったという話を書きました。もう一軒、行ってみたかったお店がありました。「サウスポー」と同じく福岡県にあった「ドーベル」というスナックです。昭和のプロ野球が好きなお方にはもうお分かりですね。そうです、元・西鉄ライオンズのエース、池永正明さんがやっておられたお店です。池永さんは昨年(2022年)9月25日に76歳でお亡くなりになりました。そのニュースを知ったときは本当に
今年も残るところ今日を入れて3日となりました。2022年も、老化防止と暇つぶしのためにキーボードを打っている『75歳のブログ』を訪れていただき、本当にありがとうございました。気の利いたシャープな短編を書きたいと願いながらも、相も変わらずダラダラした長文しか書けない後期高齢者の文章を、我慢してお読み頂き、嬉しくまたありがたく思っております。あらためて感謝申し上げます。さて、今年の投稿本数は先ほど数えてみたら、本件を含め「52本」になっていました。ちょうど1
池永正明氏が2022年9月25日になくなる。1946年8月18日生まれ、76才でした。合掌。ーーー【昭和プロ野球】「黒い霧事件」に消えた西鉄ライオンズの天才投手「池永正明」1998年の動画です。驚き☆ももの木20世紀「永久追放された天才投手池永正明の28年」1963年春の選抜甲子園で高校2年時に優勝。1964年春の選抜甲子園で優勝した後のジャンボ尾崎とともに西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)に入団。池永正明の高校時代下関商業高校で
スポーツ選手の火星分割調波エネルギーと怒りのバランス前回、池永正明元野球選手の火星について書きました。火星は一般的にはエネルギー、積極性を表します。スポーツ選手にとって火星は大変重要な天体で、出生図でアスペクトが調和的であれば、怪我も少なく、順調な選手生活を送ることができます。例えば大相撲の玉鷲は、コロナ禍での不出場はあったものの、通算連続出場回数では歴代4位、また幕内優勝は1958年以降最年長の記録も作っていますが、彼の火星は土星とクインタイル(72度)、キローン、ドラゴ
「神戸ニニンガ日誌」(第2,826号)○西鉄で活躍した池永正明が亡くなった。昭和40年、高卒1年目で20勝。その前に稲尾和久が21勝したが、高卒1年目で20勝したのはこの2名だけだ。○堀内恒夫・松坂大輔16勝、江夏豊12勝、森安敏明・田中将大11勝、鈴木啓示・藤浪晋太郎10勝。稲尾・池永がいかに凄いかが分かる。○5年で99勝をあげたが昭和45年、八百長に関わったとして永久追放となった。○疑惑は、池永が田中選手から金を預かっていた事。それだけで永久追放だ。田中勉は西鉄時代の
プロ野球嬉しいニュースと悲しいニュース阪神タイガースの次期監督に岡田彰布氏が内定しました。家人が予想した通りになり嬉しい限り。岡田監督になれば、今、NHKでわかりやすく、格調の高い解説で人気のある藤川球児氏も阪神にカムバックしそうです。となると、もうあの解説を聞くことができなくなる!のです。岡田次期監督の三重円には、トランジットの木星とネータル太陽のトラインが見られる反面、来年、再来年にプログレス太陽・金星が火星・ドラゴンヘッド、ドラゴンテール、プログレス天王星とグランドクロスになりま
【ジョージのコトバ#60】池永さん、お世話になりました僕にとっては兄貴のような人でした譲二の頼みは断れんのぉーいつもそう言って豪快に笑ってくれたあの笑顔を僕は生涯忘れない…お疲れ様でした淋しいです…■解説池永正明(いけなが・まさあき)山口県出身。下関商高野球部2年時にエースとしてセンバツ優勝に貢献。65年にプロ(西鉄)入団後いきなり20勝をあげ新人王を獲得。67年には23勝で最多勝のタイトルを獲得。プロ6年目の70年までに通算103勝。2005年に社会人クラブ野球チーム“山口
今月25日、元プロ野球選手の池永正明さんががんのため亡くなられました…76歳でした。山口・下関商時代に3季連続で甲子園出場、1963年に春優勝、夏準優勝を記録、1965年に西鉄ライオンズに入団、1年目に20勝をマークして新人王になりその後も3年目に最多勝、1969年までに通算99勝をあげ西鉄のエースとして活躍していました。しかし1969年のシーズンオフにプロ野球界を震撼させた八百長問題、「黒い霧事件」に池永さんも巻き込まれ八百長そのものは一貫して否定しましたがやむを得
9月26日(月曜日)、残念なニュースが届いた。私と同学年で元・西鉄ライオンズのエースだった池永正明さんが、25日に逝去されたという訃報だった。(ありし日の池永正明さん。いい顔だ。享年76歳。後ろに最優秀新人賞や最多勝利投手賞のトロフィーが見える。)(池永さんの死去を知らせる9月27日の朝日新聞朝刊。)今から57年前の1965年(昭和40年)3月、18歳になったばかりの私は、福岡市にある大学に入学するため、鹿児島の田舎町から九州一の大都
池永正明さんの訃報を知りました。下関商業のエースとして高校野球で活躍した池永さんは、私たち山口県の子供たちのヒ-ローでした(^^♪画像は、第45回全国高校野球選手権決勝の明星(大阪)戦で力投する下関商の池永正明投手=1963年8月20日の雄姿。これでもか!とばかりの大きな「S」マークです(^_^)。この池永投手が私たちのヒーローになったのは、この大会での2回戦、相手は名門松商学園でのことでした。試合途中に左肩を負傷(脱臼)した池永は、ことも有ろうに右手一本で
元西鉄ライオンズの池永正明さんがガンのため亡くなりました。76歳でした。もちろんこの方の現役時代は全く知らないのだけども名前は知ってるし凄い投手だったという事も知ってます。高卒一年目からいきなり23勝をあげわずか5年で99勝したスーパーエースですよ。その4年目に悪夢に巻き込まれたんだねえ。2015年に讀賣で起こった賭博事件は実際の自チームの試合で八百長をしたわけでは無かったらしいけど、当時はやったらしいですね。でも難しいと思うんだけどねえ。実際ど真ん中に棒球投げても100%打つとは
プロ野球・西鉄ライオンズ(現西武)の伝説の名投手、池永正明(いけなが・まさあき)さんが、がんのため死去したことが26日、分かった。76歳だった。高卒新人でいきなり20勝を挙げ新人王を獲得。入団5年で99勝を挙げる天才投手だったが、球界を揺るがせた「黒い霧事件」で1970年に永久失格処分(永久追放)を受け、2005年に復権するなど波乱万丈の人生だった。通夜、葬儀・告別式は家族葬で行われる。野球界のレジェンドが、亡くなった。オールドファンならば、一度は必ず耳にしたことがある「池永投手」が、がんの
海野俊明UnnoToshiaki♑@unnot元西鉄投手の池永正明さん死去76歳黒い霧事件で永久追放、解除https://t.co/8Nk2rMzGzM2022年09月27日09:31NHKニュース@nhk_news西鉄元投手池永正明さん死去「黒い霧」事件で一時永久失格に#nhk_newshttps://t.co/mPtFxfxGfU2022年09月26日21:5031KB(サイモンのベース)@carp0919池永正明さんが亡くなったのか…プロ5年で99勝、
ともてつぱぱ。のハンドルネームで風景・鉄分をTwitter(ともてつぱぱ。)で開設してます。見てね!【ソフトバンク対ロッテ24回戦】ソフトバンクが2-1でロッテに3連勝でマジック4!8回に今宮が決勝打!モイネロが23セーブ!ロッテは3連敗、佐々木朗希は10勝目ならず・・・長月下旬に突入~!令和4年9月27日(火曜日)仏滅(癸未)旧暦9/2月齢1.2女性ドライバーの日・世界観光の日火曜日木曜日迄営業~営業!おは
自作の小説に出て来る人物のモデルとさせていただいた、元西鉄ライオンズの池永正明さんが76歳で亡くなりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。巨人も狙っていた投手でしたが、獲得しなかったのは大失敗でした。入団して実質5年間で20勝以上3回。300勝も狙えた大投手です。しかもバッティングも素晴らしく、ホームランも何本も打ち、六番を打ったこともあるとか。大谷選手のようになっていたかもしれません。八百長疑惑で球界から永久追放されましたが、刑事裁判では無罪で「見せしめ」とされた疑いが強いよう
池永正明さんが亡くなった。76歳だった。1963年の春のセンバツで優勝した下関商業高校の2年生エース池永投手は、山口県のヒーローであり、女の子たちのアイドルであった。Yako姉など「池永さん、池永さん」と熱を上げていたな。Toko姉の同級生のサカモトくんが下商の選手で、首に優勝メダルを掛けて、下商OBのKitaroに挨拶に来たっけ。Kitaroは「優勝するんだったら、もっと寄付しておけばよかった」と言っていた。超高校級の池永投手を擁した下商は、1963年の夏の大会でも決勝まで進んだ。当然春
一昨日の事、拙宅インターホンのモニターに大きな箱を持った佐川急便のドライバーの姿が・・・・はて(・・?なにかネットで購入したかな訝し気に受け取ると、それは、小芝風花ちゃんからの贈り物でした「お菓子のびっくり箱」山﨑製パンの懸賞に当選したのです尤も家人が応募した訳ですが・・・・内容は、ヤマザキグループのこんな豪華な商品ですこんな会社やあんな会社が、グループだったとは知らなんだ例えば、ミルキーのペコちゃん不二家、大好きなキャラメルコーンの東ハト等々。中でも、驚いたのは、昔
第5262回「「男の引き際」黒井克行著新潮新書」江夏豊、本田宗一郎・藤澤武夫、池永正明、荒井注などの引き際について、そして最後の章では、引き際を間違えた人たちについて書かれていいます。江夏豊は、MLBに挑戦して最後まで残り破れ去り現役を引退しました。本田宗一郎・藤澤武夫は、地位に執着せずすっきりさっぱり引退しました。二人は二人で一つだったのでしょう。荒井注は、人気絶頂で芸能界から引いていきました。彼の撤退があったから、志村けんが生まれたのです。僕が最も関心を持ったのは、池永正
6月16日付け朝日新聞の読者投書欄「声」に、珍しく”みんなで語ろう思い出のプロ野球”というサブタイトルが付いていた。なぜこの日、このサブタイトルが付いた投書を特集したのだろう・・・と不思議に思った。プロ野球は6月12日にセ・パ交流戦を終え、翌17日から再びセ・パそれぞれのリーグ戦に戻って再開するタイミングではあったが、特集を組むほどの出来事でもない・・・と思いながらも楽しく読んだ。多くの投稿の中から選ばれたのだろうが、掲載された8人の方の心の中では、セピア
ひと時代前とはいえも高校卒業後、1965年にプロに入ってすぐ20勝。5年間で三度の20勝。ほか二年も15勝、18勝。300勝くらいしたかもしれない。池永正明-Wikipedia疑わしきは罰するで、球界永久追放。確かに疑惑の根拠はあったが、絶対的エースであった池永が八百長に加担したとは思えない。ライオンズ憎し(日シリで3年連続敗北の過去あり)のジャイアンツが、ウラで動いたという説もある。2005年にようやく復権されたが、まるで映画『フィールド・オブ・ドリームス』のジョー・ジ