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もう帰ってきてはいるんですけどね、佐賀の旅の最終日について書きます。ザ・佐賀の旅とも言える、吉野ヶ里遺跡に行きました。行き方は色々ありますけど、わたしは電車で、吉野ヶ里公園駅から。駅を降りるとコミュニティセンターがあって、荷物を預かってくれたり、レンタサイクルがあったりして便利です。(有料)駅からは、ほぼ真っ直ぐの道を歩いていく。あった。でっか!!だだっ広いテーマパークみたいな佇まいですね。平日だったのですがGWということもあり、思ったより観光客がい
フォン・スティルフリート男爵夫人も来日なさってたのね❣️https://twitter.com/_9105294027642/status/1523420482028015616?s=21&t=xlifYTL-h1boLSzuohxVng睦仁天皇暗殺現場写真を撮影した、ハンガリーのフォン・スチルフリード男爵の人力車写真3カット。既投稿以外の長崎大学古写真人力車(2514)には娘と夫人。李家長州政権はスチルフリードが江藤新平司法省に告発した為、蔑んでパパラッチ扱い。勅任官江藤新平を不法処
今回の旅の一番の目的は、このシンポジウムでした。『稀才・江藤新平の真に迫る』聴いてきました。終わったあと、すごく胸がいっぱいになってしまって…ホテルに帰り着いたあと、ボーっとしていました。彼の功績は調べればいろんなとこに載ってるので数え上げれば偉大さが語れるんですけどね、今回、佐賀藩とか江藤研究の第一人者の皆さまが語る、彼の人となりの部分が胸にズキュンときまして、すっかり心を持っていかれちゃったよ〜特に心に残ったのが、「江藤新平は急進的に過ぎて、生き急いで、死に急いだ」っていう言
佐賀にいます。楽しみにしていたGWの旅行。このためにツライ仕事頑張ったよ…佐賀は今回で2回目です。目的はまたもや江藤新平で、没後150年の特別展があるのです。ちなみに今回は福岡空港から来たよ。なんだ、わりと楽に来られるじゃんしかし暑いな。着きました!いつ見てもかっちょいい、偉人の像。これは仲良しの江藤新平・大木喬任コンビ。これは大隈重信、副島種臣。佐賀の街は、歩くといろんなとこにエモい建築物が点在している。どうして佐賀県は他県民にイジられるくらい不人気なんだろう。めちゃめちゃカ
今日もお読みくださってありがとうございます。佐賀県議会議員いちのせ裕子です。今年は明治維新の十傑の1人江藤新平没後150年。佐賀城本丸歴史館では特別展が開かれていますが、今日もひっきりなしに来場者があり、学芸員さんによるギャラリートークにも多くの人が。私もワクワク当時に思いを馳せながら聞き入っていました。・明治政府の中枢の参議にまで昇り詰めたのに、なぜ、「明治6年政変」で政府を去ることになるのか。・新しい国づくりにこんなに尽力した人がなぜ佐賀戦争に巻き込
指名手配写真の制度を、日本で初めて作ったのは、江藤新平であった。彼は、明治時代に司法卿を務め、国家の近代化に尽力した。なかなかの傑物であった。江藤新平は、大河ドラマの主役になってもおかしくない人物である。彼が作った指名手配写真制度は、国家の近代化に貢献した。そんな彼だが、とても皮肉な結末が待っていた。1873年、征韓論を巡り、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らの対外強硬派と、大久保利通、岩倉具視らの内政優先派が、対立した。対立したもの
今の暮らしはひと言で言うと"…ねばならないのない日々"例えば明日何時に起きねばならない、がないと今日いつまでに寝なくては…もない。夜更かしして本を読んでもいいし多少酔ってふわりと眠ってもいい。その自由な気分は時間に追われていた時代には味わえないものだった。もっともかなり夜更かししても朝は早くにすきっと目覚める、そんなタチなのだけれど。横になると喉のあたりがもやもやして咽せるような咳が出る。風邪かしら、と一応薬は飲んだ。日付が変わらないうちに眠りに就きふと目覚め
今日もお読みくださってありがとうございます。佐賀県議会議員いちのせ裕子です。初代司法卿として国民の権利を守る為に裁判制度の導入に尽力し、「司法制度の父」と呼ばれた佐賀藩士江藤新平。今年は没後150年の年です。今日は子孫の方々を交え偉業をしのぶ銅像祭りが開かれました。コロナ禍でも開催し今年48回目。非業の死を遂げた江藤新平ですが、名誉挽回を期す声は多く、その機運を醸成すべく特別展が佐賀城本丸歴史館で開催中。曲がった事が大嫌いで真っ直ぐ、自分の理念
2024年4月14日(日)昨日は、佐賀の維新江藤新平氏の命日でした☺️平成18年にインディーズでカセットテープを発売佐賀の七賢人'の一人である「江藤新平」の遺徳をしのび、銅像が建立されている神野公園で、江藤の命日の翌日に当たる4月14日に毎年行われています。私も平成18年に銅像の前で歌った思いでがあります。今から18年前でした☺️次の年に平成19年に「湯の里しぐれ」でメジャーデビューしました🎵
肥前佐賀藩出身で、明治新政府の高官の一人「江藤新平」について、この本を読みました。江藤新平(戎光祥選書ソレイユ003)Amazon(アマゾン)この本。内容は、かなり雑然とした印象で、分かりづらい。恐らく、「江藤新平」について、何も知らない人が、まず、最初に、この本を読むと、理解をするのは、なかなか、難しいのではないかと思われます。さて、江藤新平と言えば、明治新政府の中にあって、日本という国家の「西洋化」を推し進めた人物として知られている。このイメージは、司馬遼太郎
「翔ぶが如く」では田中健が演じた。西郷(演:西田敏行)と大久保(演:鹿賀丈史)が徳川慶喜を処刑せず、江藤新平を処刑したことに異論を唱えていたが、あれは視聴者への説明を引き出すためだったか。〔午前9:39·2023年5月26日〕詳報です✨没後150年江藤新平「佐賀の乱」イメージ払拭へ佐賀で再評価の企画展(西日本新聞)https://t.co/nJlv9ZI1oZ—歴史が好き🍀(@naruseyanoken1)April12,2024〔没後150年江藤新平「佐賀
今日は、幕末の志士にして明治維新以降は政治家・官吏として活躍、立法・行政・司法の三権分立を推進し〝近代日本司法制度の父〟と称される江藤新平の命日・没後150周年にあたります。新平は1834(天保5)年、佐賀藩士・江藤胤光の長男として佐賀城下八戸村で生まれました。12歳の時に藩校弘道館に入学した彼は人並みはずれた頭脳を持っていたものの、実家が貧しかったために学費が払えず、進学もままならなかったとか。1850年に枝吉神陽が結成した義祭同盟に参加して尊王思想など
江藤新平生年月日1834年3月18日(火)日干支甲辰同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・畠山尚順1476年1月25日(木)みずがめ座・阿部正喬1672年5月25日(水)ふたご座・オノレ・ド・バルザック1799年5月20日(月)おうし座・徳川慶喜1837年10月28日(土)さそり座・桂太郎1848年1月4日(火)やぎ座・頭山満1855年5月27日(日)ふたご座・岡倉天心1863年2月14日(土)みずがめ座・ヘレン・ビアトリクス・ポター
明治37年御製苔むせるいはねの松の萬代もうごきなき世は神ぞもるらむ明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。「苔むした古い巌に根を張って生えている松の古本のように、万代の後までも揺らぎのないこの世を、神はお護りくださるであろう」朝鮮半島、台湾、北京(北支事変)と戦いが続き、ついに国の存亡を賭けてロシアとの戦争が始まりました。陸軍は苦戦を重ね、近代戦の難しさを知ることになります。幕末そして西南戦争の頃から軍産政の癒着が深まり、様々な疑獄事件
平成30年(明治151年)tw2018年11月28日(水)#西郷どん「佐賀の乱」の結果の江藤新平の末路は#翔ぶが如くで詳しく描かれていた。「翔ぶが如く」では、江藤新平は西郷隆盛を訪ね、援軍を要請したが、西郷は、江藤が自分の兵士を見捨ててきたことを理由に、江藤に兵を貸せないと言って断った。postedat19:12:33⌚令和6年pst「翔ぶが如く」では田中健が演じた。西郷(演:西田敏行)と大久保(演:鹿賀丈史)が徳川慶喜を処刑せず、江藤新平を処刑したことに異論を唱えて
No.1212021.9.23(木・秋分の日)刀と傘明治京洛推理帖/伊吹亜門/東京創元社/2018.11.30第1刷1700+10%2019年度本格ミステリ小説部門大賞何度読んでも読み足りないような気持ちになることはないだろうか?時には繰り返し読むことで、次々に新しい発見がある、と言ったような。本の海は広いのだ。この鹿野師光という「罪には罰」の信念で生きる“短躯でちょこちょこ歩く、尾張の侍”に、ひどく心惹かれるのだ。何故なのだろうか。尾張藩は幕末のどん詰まりで、幕府側と薩長側
商鞅!法治主義、名言法家、改革変法、読み方死因、秦孝公李斯も解説日本を法治国家に導いたのは初代司法卿江藤...history-ancient.com
征韓論を巡って・・・・・明治時代の政治家が討論している。今の国会より面白そうだ。いや、面白いわけないか。命懸けだもんな。中央に描かれているのは西郷隆盛だな。木戸孝允も居る。江藤新平のポーズもいいな。元気があってヨイヨイ♪
お久しぶりにございます。イッヌに深夜何度も起こされなくなって、それはそれはよく眠っております。体力回復とともに、悲しい喪失感が薄れてゆくといいな・・・本を読む気力は比較的早く回復していたのですが、文章を書く気力まではなかなか至りませんでした。でも、やっと!!書く気力を奮い立たせてくれたのがこれ江藤新平!!推しってすごいよ。萌えってすごいよ。人類を救うよ。これは「紙魚の手帖」という雑誌に掲載されていた伊吹亜門さんの読み切り短編なのだけど、まさかまたこの
立春大吉は新しい自分になるみなさん、おはようございます立春大吉新しい春がやってきました新しい自分になりましょうお伴をしてくれる新しいものを持つのもいいでしょうアリガトウ「2月4日」の國史です「佐賀の乱、開始」明治7年(1874年)江藤新平(しんぺい)が起こしました「ニヒラでいい」と言うのは在原業平を真似てです明治維新を進めた薩長土肥のうち肥前の支族による反乱です維新十傑の一人、江藤新平が起こします大久保利通、山県有朋という「薩長」が
卵🥚が好きでどこに卵が使えるかいつも考えています🤭この日は、鶏つくねにディップして食べました🍳今日の夜は何作ろうかなよく見るテレビ番組は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1874年(明治7年)2月1日、佐賀の乱が起こる→板垣退助らと愛国公党をつくった江藤新平は、佐賀の士族たちと反乱を企てます。しかし政府軍に追いつめられ、捕まり死刑になりました•••••cut•••••
冬に体験したいスポーツは?⛷️▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1874年(明治7年)1月12日、板垣退助らが愛国公党をつくる→明治政府の参議だった板垣退助は、征韓論に敗れたあと、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと、愛国公党をつくります。日本で最初の政党ともいわれます•••••cut•••••
幕末・維新の大政奉還と王政復古クーデター後に生まれた明治新政府は、薩長土肥4藩による藩閥政権だった。肥前(佐賀藩)は、鳥羽伏見の戦いにも参戦せず、出遅れたが、江藤新平の尽力で何とか新政府の一員に割り込めた。松平春嶽侯に見出されその薩長土肥藩閥政権に、他藩出身で入れたのは、わずかだった。紀州藩だったが脱藩し、坂本龍馬の率いる海援隊に加わった陸奥宗光は、その「わずか」の1人だったが、他に親藩の福井、越前藩でただ1人、新政府に加えられたのが、由利公正(ゆり・きみまさ)である(写真)。
この記事の続きである。『【山田太一の訃報】そういえば『獅子の時代』には魅了された(菅原文太と加藤剛)前篇』このブログ、書き手である私が、『年頃?』(つまり、同世代で鬼籍に入る人が大勢いる状態)であるためか、『訃報』をネタ(?)にすることが多くなってしまっている。…ameblo.jp昨日(14日)、この記事の前篇を書き始めた時は、『獅子の時代』の全体像を説明してやろうというような気分になっていた。だがよくよく考えると、そんなことは、ここの短い文章では(おまけに私自身、『獅子の時
征韓論を巡って・・・・・明治時代の政治家が討論している。今の国会より面白そうだ。いや、面白いわけないか。命懸けだもんな。中央に描かれているのは西郷隆盛だな。愛犬のどんちゃん「木戸孝允も居る。江藤新平のポーズもいいな。元気があってヨイヨイ♪」デンキウナギの肛門はアゴのあたりにある。食べたら直ぐに出せるのか。消化器官は頭の先の方に位置するんだよ。身体の8割は電気の発電器官だから。仕方ないんだよな。アゴにある肛門。
いい小説に出会いましたよおすすめ本にあがってきました。多分、明治だの大久保だの江藤だの西南戦争だのとさんざん検索ワードを入れていたから、「こいつにはこんなもん見せてやれ」とAIが考えてくれたのでしょう。AIちゃん優秀です。松本清張さんの時代小説短編集でした。こういうのも書かれていたのですね。タイトルの『西郷札』は、松本清張さんの処女作にあたるそうです。雑誌懸賞小説の入選作だったとか。『西郷札』も感動したけど(ドラマ化もされているらしいですね)、わたしの中のイチオシは『梟示
やあどうも、佐賀の旅から帰ってまいりましたよ!それが、旅行中に腰を痛めましてな・・・つら。プラッと一人旅に行くときは、大体の目的は定めつつあとは気分にお任せなので、2日目は遠出をせずに佐賀の街並みを散策することにしました。やっぱり調べるべくは佐賀の賢人たちですね。佐賀の七賢人?八賢人とか九賢人とか十二賢人とかともいわれてるんだけど?↓この写真のうち、大木喬任までが七賢人らしい。それに枝吉神陽と相良知安を入れて九賢人らしい。あとはちょっと知らないが・・・「不老不死を求めた浪
S・A・G・Aサガ〜と、はなわさんが歌っていたのも遠い昔だな。歳がばれる。ついにやって来た佐賀!!休みをとってさ!!お目当ては江藤新平ちなみに佐賀への行き方なんですが結構不便で、いったん東京に出て羽田から佐賀空港へ。ふつう福岡から行くでしょ、と言われたのですが、そうなの?!福岡空港の方が便がいっぱいあったな。いいんだ…佐賀空港に降り立ってみたかったんだ…佐賀空港だ!なんかローカル感満載でノンビリしてるな〜シャトルバスの運転手さんのウェルカムアナウンスにツボりました。「佐賀には
徳川幕府、第15代将軍、徳川慶喜が、大政奉還をしたことで、「幕府」は、消滅をすることになる。では、この「幕府」が、消滅をした後、政治指導者たちは、どのような「国家」を作ろうとしたのか。実は、「幕府は、このままでは駄目だ」と認識をしていたのは、「天保の改革」で有名な水野忠邦の後を受けて、老中首座として幕府の政治を担った阿部正弘が、すでに、感じていたところ。そこで、阿部正弘は、それまで、譜代大名と直参旗本によって独占されていた幕府の政治に、広く、親藩大名、外様大名を参加させようという構想を
「婦人参政権発祥之地」碑の隣に、もう2つの碑が立っています。まず「嶽洋社」跡の碑。もともと、此の場所には、「嶽洋社」がありました。「嶽洋社」とは、板垣の「立志社」の流れを汲む、自由民権運動の結社で、明治11年に設立されました。社員には、坂本直寛や宇田そうめいらがいました。そして、「子爵・河野敏鎌誕生之地」碑です。「河野敏鎌」も上町生まれ。武市の「土佐勤王党」結成時に加盟しています。藩の弾圧により、「永牢処分」を受けました。維新後は、佐賀の乱で江藤新平を裁いた裁判長、改進党副総裁、農