ブログ記事13件
中日ドラゴンズホーム用・ビジター用1965年~1968年途中略年表1965年《ホーム・ビジター共通》西沢道夫監督就任に伴い、濃紺と赤をベースにしたユニフォームに変更。1967年《ホーム・ビジター共通》ホーム用の筆記体Dragonsロゴ変更。ビジター用はCHUNICHIロゴのNの部分が分断されず生地に乗るタイプにマイナーチェンジ。ともに1968年途中まで(ただし、1969年のキャンプ時に練習用としても着用)。ホーム用西沢道夫監督就任だけでなく球団オーナーが変更になるのに伴い、ユ
10月6日は中日、ロッテ、大洋、太平洋で活躍した強打者江藤慎一の生誕日です。闘志あふれるプレーで、60年代ONに対抗できる打者として人気のあった選手です。野球雲3号でひょんなことからプライベートエピソードを聞くことができました。3号からの転載です。野球伝説劇場「江藤慎一とロック歌手の絆」野球映画の名作、「フィールド・オブ・ドリームス」の大事なキーワードに「それを作れば、彼は来る」がある。野球雲も「本を作れば、野球選手が来る」
僕の一番好きな長嶋茂雄さんのエピソードをひとつだけ。現役最晩年の頃、強い当たりも野手の正面をつき、併殺打が増えてきた。最後のシーズンの大洋(現横浜DeNA)戦で、併殺打に打ち取られた長嶋選手に大洋の若手選手から、酷い野次が飛んだそうだ。それを聞いた同じチームのベテランで大打者である、江藤慎一選手がその若い選手をいきなり殴りつけ、こう言ったという。「お前たちがオギャーと産まれた頃に、あの人はバット1本で日本中を沸かせていたんだ!お前達にそんな芸当が出来るか?あの人は日本
太平洋クラブライオンズユニフォームギャラリーシリーズ#7皆さんのお陰で人気記事ランキングにも顔を出すようになり、自分でも驚きを隠せません、『プロ野球ユニフォームギャラリー』。第7回目は太平洋クラブライオンズ「豪快さと脆さが同居していた山賊打線」を取り上げます。太平洋クラブライオンズはわずか4シーズンと球史でも短かったのですが、残したインパクトは絶大でした。1973年前期シーズン序盤に快進撃を見せたことで赤のビジター用ユニフォームになぞらえて「赤い旋風」と呼ばれた時期、1975年
昭和には野球の記録の本が児童書にもなっていた。そんな、記録の本で、すごい記録としてイラスト入りで紹介されたものを紹介します。1971年のロッテオリオンズは、前年10年ぶりのリーグ優勝をし、この年も江藤慎一も首位打者を獲得する好調さで、4月は7勝7敗と5割の成績だったが、5月1日、2日と不調東映相手に2連勝しスタートダッシュの遅れを取り返していた。一方、東映フライヤーズは4月を2勝12敗と悲惨な戦い、前日まで9連敗と元気がない。もちろん最下位独走中だ。そして迎えた5月3
Q.叶えたい夢・叶った夢を教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようA.叶えたい夢…個人的には「東北一周」の放浪かな…あとは何と言っても、ベイスターズの「親子日本一」ですな…*昨日10/5、ベイスターズファームは日本一となりました!めでたい!☆ランキングに参加しています各ジャンルをクリック👇ポチッとしていただけるとありがたいですその1…その2…10月6日・夢をかなえる日…(No.7869)お疲れ様です放浪するブロガーbobbyです自宅療
10月6日は中日、ロッテ、大洋、太平洋で活躍した強打者江藤慎一の生誕日です。闘志あふれるプレーで、60年代ONに対抗できる打者として人気のあった選手です。野球雲3号でひょんなことからプライベートエピソードを聞くことができました。3号からの転載です。野球伝説劇場「江藤慎一とロック歌手の絆」野球映画の名作、「フィールド・オブ・ドリームス」の大事なキーワードに「それを作れば、彼は来る」がある。野球雲も「本を作れば、野球選手が来
1975年でもっとも忘れられない出来事といえば「広島東洋カープ」の26年目の初優勝だ。カープについて、何から書いたら良いのか解らない。しかし1975年と言えば一番に思い出すのが「カープの初優勝」だ。僕がプロ野球に興味を持って間もなくの事だった。前に書いたようにこの年のNPBのシーズンは「長嶋ジャイアンツ」の予想しなかった最下位独走とそれに代わって上位戦線で戦い続けた広島東洋カープの健闘が話題の中心であった。この頃、当初僕は特にカープのファンではなかった。周囲の野球ファンと同じよ
昭和には野球の記録の本が児童書にもなっていた。そんな、記録の本で、すごい記録としてイラスト入りで紹介されたものを紹介します。1971年のロッテオリオンズは、前年10年ぶりのリーグ優勝をし、この年も江藤慎一も首位打者を獲得する好調さで、4月は7勝7敗と5割の成績だったが、5月1日、2日と不調東映相手に2連勝しスタートダッシュの遅れを取り返していた。そして、5月3日祝日のゲーム、一方、東映フライヤーズは4月を2勝12敗と悲惨な戦い、前日まで9連敗と元気がない。もちろん最下
アロンゾ・パウエル(元中日ドラゴンズ外野手)江藤慎一(元中日ドラゴンズ外野手)岡林勇希(中日ドラゴンズ・外野手)田尾安志(野球解説者)中利夫(元中日ドラゴンズ外野手)福留孝介(野球解説者)森徹(元中日ドラゴンズ外野手)プロ野球最優秀選手賞セントラルリーグ村上頌樹投手(25・阪神タイガース)初受賞パシフィックリーグ山本由伸投手(25・オリックスバファローズ)3年連続3度目最優秀新人賞セントラルリーグ村上頌樹投手(25・阪神タイガース)パシフィックリーグ山下舜平
東京都文京区後楽。後楽園球場。マウンド上には十九歳になったばかりの若者、堀内恒夫が立っていた。前年に導入された新人選択会議、いわゆるドラフト制度の一期生として、栄光の巨人軍に一位指名で入団したこの高卒ルーキーは、前評判にたがわず、シーズン開始からここまで破竹の勢いで十連勝、あっという間に巨人軍のエースにのし上がっていた。この試合、堀内は一回の表から中日の先制攻撃にあい、いきなりのピンチを迎えていた。無死一、二塁。打席に四番江藤を迎えたとき、三塁手がマウンド上の
V9全盛期、ONをさしおいて4番に座った男であり、王貞治の三冠王を阻止すること2回。両リーグ初の獲得するなど屈指のスラッガーだったが、学校の成績は優秀でギターの名手でもあり、キャンプ中は連載コラムを書くなどの異才の持ち主であり、今の独立リーグや社会人野球のクラブチームの先鞭をつける活動をするなど、発想は先進的なものをもっていた才人である。また、育成面では体罰を否定したり、選手のセカンドキャリアのことを真剣に取り組んでいたりと精力的な活動をしたり、一選手で終わってしまうのが惜しまれるような活
江藤慎一とその時代早すぎたスラッガー著者木村元彦(きむら・ゆきひこ)「江藤さんの生き様、野球人として、人間としての姿を今に伝えてほしい」(王貞治)「彼は、自分の人生をかけて打ちにいっとるよね」(張本勲)「必ず振ってくる。力勝負を好む人やった」(江夏豊)「夢見る慎ちゃんっていうあだ名がついとったんです。だけど今は、それが全部実現しているじゃないですか」(江藤省三・実弟)「ギターの弾き語りをする野球選手に初めて会った」(有藤通世)彼らを筆頭に、古葉竹識(故人)、杉下茂、権藤博
内川聖一(野球解説者)江藤慎一(元中日ドラゴンズ等)押切もえ(モデル・タレント)落合博満(野球解説者)河野旭輝(元中日ドラゴンズ等)杉内俊哉(東京読売ジャイアンツ・コーチ)タフィ・ローズ(元東京読売ジャイアンツ等)張本勲(野球解説者)山崎武司(野球解説者)柳裕也(中日ドラゴンズ・投手)涌井秀章(中日ドラゴンズ・投手)正代が大関陥落!最近の大関は情けないね。。。大関陥落が珍しくなくなってる!!はぁ。。。サッカーワールドカップ1次リーグブラジル(3)2-0セル
10月6日は中日、ロッテ、大洋、太平洋で活躍した強打者江藤慎一の生誕日です。闘志あふれるプレーで、60年代ONに対抗できる打者として人気のあった選手です。野球雲3号でひょんなことからプライベートエピソードを聞くことができました。3号からの転載です。野球伝説劇場「江藤慎一とロック歌手の絆」野球映画の名作、「フィールド・オブ・ドリームス」の大事なキーワードに「それを作れば、彼は来る」がある。野球雲も「本を作れば、野球選手
2008年に肝臓がんのため70歳で死去した、元プロ野球選手で元監督の江藤慎一さんを、趣味の姓名判断で占ってみました。江藤さんには、引き立てがある。才能がある。不和に注意。晩年は注意。名誉、利益共に得る。といった暗示があります。初めまして、常盤英文です。僕のブログは、フォロー厳禁です。また、どこかで会いましょう。
江藤慎一1937年10月6日-2008年2月28日熊本県山鹿市出身右投右打内野手、外野手、捕手今回紹介する選手は1960年代を中心に中日、ロッテなどで活躍した江藤慎一です。当時のプロ野球を代表する強打者であり現代の選手と比べても偉大な成績を残していますが、平成以降に生まれたような若いファンの中では知らない人もいるかもしれません。江藤慎一の野球の出会いは父親の影響が大きい元々江藤の父親は八幡製鐵で野球をしていた人物で当時の慎一少年も幼年の身ながら新聞配達などを戦後
アベックホームランを解剖する7人目は中日-ロッテ-大洋-太平洋クラブ-ロッテと渡り歩き史上初の両リーグ首位打者を獲得した江藤慎一です。江藤慎一は日鉄二瀬から1中日ドラゴンズに入団。1年目1959(昭和34)年、捕手、強打の選手として期待されたが、前年、引退した西沢道夫が守っていた一塁手として1年目から130試合フル出場し、打率.281、18本塁打、84打点を記録その後、6年連続全試合出場。1964(昭和39)年、1965(昭和40)年と連続首位打者王貞治(巨人)三
1975年3月7日佐世保市営観衆:7,000人オープン戦※NPB初のDH制度導入試合日ハム000001210|492太平洋010000000|171勝:三浦敗:木原日本ハム(4)阪本4-1-0H5ジェシー1-0-0(5)八重沢3-0-0H9千藤2-0-0(7)張本勲4-2-154中原全1-0-0(D)東田2-2-1(9)内田順2-0-07島津0-0-0(
昭和には野球の記録の本が児童書にもなっていた。そんな、記録の本で、すごい記録としてイラスト入りで紹介されたものを紹介します。1971年のロッテオリオンズは、前年10年ぶりのリーグ優勝をし、この年も江藤慎一も首位打者を獲得する好調さで、4月は7勝7敗と5割の成績だったが、5月1日、2日と不調東映相手に2連勝しスタートダッシュの遅れを取り返していた。一方、東映フライヤーズは4月を2勝12敗と悲惨な戦い、前日まで9連敗と元気がない。もちろん最下位独走中だ。そんな東映にと
久しぶりのアベックホームランを解剖する7人目は中日-ロッテ-大洋-太平洋クラブ-ロッテと渡り歩き史上初の両リーグ首位打者を獲得した江藤慎一です。江藤慎一は日鉄二瀬から1中日ドラゴンズに入団。1年目1959(昭和34)年、捕手、強打の選手として期待されたが、前年、引退した西沢道夫が守っていた一塁手として1年目から130試合フル出場し、打率.281、18本塁打、84打点を記録その後、6年連続全試合出場。1964(昭和39)年、1965(昭和40)年と連続首位打者王貞治
2月28日は中日・ロッテ・大洋・太平洋クラブで活躍した闘将!江藤慎一さんの命日です。以前、野球雲3号で発表した江藤慎一さんのエピソードをあらためて紹介いたします。野球伝説劇場3「江藤慎一とロック歌手の絆」野球映画の名作、「フィールド・オブ・ドリームス」の大事なキーワードに「それを作れば、彼は来る」がある。野球雲も「本を作れば、野球選手が来る」のような気持ちで作っている。先日「記憶より記録に残り男長
↑小林繁王貞治をも苦しめた投球法。本当に一瞬止まる様だが、ボークにはならないのか?投手生命と同じく若くして亡くなった。上の曲「亜紀子」は内山田洋作曲。↑江本孟紀歌う政治家。↑平松政次(先発)カミソリシュート。↑尾崎将司(西鉄投手)野球では0勝。↑松岡弘(投手)惜しくも200勝に届かず。↑江夏豊(抑え)江夏の21球。伝説の投手。↑藤城和明(巨人、右端)↑野村克也(捕手)↑落合博満(三塁手、二塁手、一塁手)↑原辰徳(二塁手、三塁手)江藤慎一(三塁手、捕