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○2019年11月1日、运城北站から临汾西站まで行った。临汾到着は午後7時くらいと、結構、遅かった。すでに外は暗い。タクシーで今日の宿泊先である山西临汾金都花园大饭店まで向かった。駅からホテルまでは7公里ほどだった。○臨汾は堯の故郷として知られる。ここまで、永済、運城と経て来た。永済は舜の都したところであり、運城は禹の居たところである。つまり、10月31日は舜の都した永済に泊まり、11月1日は堯の故郷である臨汾へ宿泊し、11月2日は禹の居た運城へ泊まった。こんな贅沢は、まず無い。○順序からし
○山西省运城市で、运城舜帝陵(舜帝公園)へ出掛けた。舜帝と言えば、“三皇五帝”之一として知られる。その舜は蒲阪(今山西永济)に都したとされる。その永济へは、前日訪れている。そして、この運城から、今日は尭の都したとされる平陽(臨汾)まで行く予定である。○舜の後を継いだ禹の都も安邑で、運城にある。今日、この後に訪れる予定である。運城には、そういうふうに、舜や禹の足跡が随所にみられる。今回の旅行では、そういう尭舜禹の足跡を辿ってみようと言う計画だった。○この日、午前中に、山西省运城市解州镇西关を訪
○何気なくブログを振り返っていたら、永济でのホテル、永济海纳温泉国际酒店について、何も書いていないことに気付いた。今回の旅行では、2019年10月28日、佐賀空港を14時10分に春秋航空6358便で飛び立ち、西安咸阳国际机场に到着したのは17時30分だった。宿泊先は西安中晶城市酒店だった。・テーマ「陝西省:西安」:ブログ『西安中晶城市酒店』西安中晶城市酒店|古代文化研究所:第2室(ameblo.jp)○10月29日は、黄帝陵のある陕西省延安市黄陵县へ行き、黄陵桥山滨湖酒店に泊
○2019年11月1日、永济から运城へ行く道の途中、柳宗元広場へ立ち寄った。タクシーの運転手が言うには、「もっと興味深い場所があります。」とおっしゃる。道の途中だから、わざわざ行く必要も無いと言う。それなら、見てみようかと言うことで立ち寄ったのが古代神医扁鵲之廟である。○寡聞にして、扁鵲なる人物に不案内である。ウイキペディアフリー百科事典が案内する扁鵲は、次の通り。扁鵲扁鵲(へんじゃく)は、古代中国、とくに漢以前の中国における、伝説的な名医である。その行動・人格・診察・治療の
○山西省永济の柳宗元の故地を訪れた。柳宗元と言えば、何と言っても「江雪」だろう。日本人でも誰でも知っている名詩である。もちろん、「唐詩選」「唐詩三百首」「全唐詩」の全てに掲載されている。いまさら、柳宗元の「江雪」でもないが、せっかくの機会である。案内しておきたい。【原文】江雪柳宗元千山鳥飛絶万径人蹤滅孤舟蓑笠翁独釣寒江雪【書き下し文】江雪柳宗元
○永济名人と言えば、楊貴妃であり柳宗元だとする。中国語で名人は有名人、もしくは著名な人物を意味する。その柳宗元の故地が永济市の東側にあることを日本に居る時に確認していた。○2019年11月1日に、永济から运城の解州关帝庙まで、タクシーで行った。永济から运城の解州关帝庙までは、およそ40公里もある。日本に居ては、そういう距離をタクシーで行くことは、まずない。○中国のタクシーは極めて安い。交通の便が悪い時は、タクシー利用が最善の方法である。一日タクシーをチャーターしても、400元(6000円)が
○永济の南には、五老峰が聳え立っている。百度百科では、山西运城永济五老峰风景名胜区として、次のように案内している。山西运城永济五老峰风景名胜区山西运城永济五老峰风景名胜区位于山西省永济市市区东南16公里的中条山脉,地处晋、秦、豫三省交汇之黄河金三角。景区面积200平方公里。东20公里有全国最大的武庙关帝庙、黑泥漂浮浴场——中国死海;西20公里有《西厢记》故事发生地普救寺、中华瑰宝唐代黄河铁牛以及全国四大文化名楼之一的鹳雀楼。山西运城永济五老峰风景名胜
○2019年10月31日に、舜都:永济を訪れた。鸛鵲楼から蒲津渡遗址、普救寺、萬固寺と廻り、永济の町へ帰って来たのは、午後5時前だった。この日、昼食からずっと同じタクシーの運転手さんにお世話になった。人の良い、大人しい運転手さんだった。○それで、「明日の朝、运城の解州关帝庙まで行くのだが、一緒に行ってくれないか?」とお願いした。大丈夫だとおっしゃる。永济から解州关帝庙までは、运城の町まで行って引き返すしかない。時間がだいぶん無駄になる。それでタクシーで行くこととした。○翌日の朝8時にホテル前
○2019年10月31日に、舜都:永济を訪れた。できれば、舜都:永济に関するところを廻りたかったのだが、舜帝が存在したと言われるのは、遥か昔々のことなのである。そんなものが残されていることを期待する方が無理だろう。そういうふうに思っていた。○実際、山西省永济市を訪れてみても、なかなかそういうものが存在しているわけではなかった。ただ、永济市のメインストリートは舜都大道と言うし、永济市の中心となるところに、舜都広場が存在した。その舜都広場には、舜帝の銅像が建っていた。○いまさら、舜帝のことなどを
○山西省永济市の有名人に楊貴妃が居る。山西省永济市首阳乡独头村には、杨贵妃故里が存在すると言う。私が訪れた萬固寺から独头村までは15公里くらいしか離れていない。時間があったら、訪れてみたかったが、萬固寺ですでに午後4時を過ぎていたので、諦めた。○楊貴妃は日本でもよく知られている。ウイキペディアフリー百科事典が載せる楊貴妃は、次の通り。楊貴妃楊貴妃(ようきひ、719年6月22日(開元7年6月1日)-756年7月15日(至徳元載(元年)6月14日))は、中国唐代の皇妃。姓は
○2019年10月31日に、山西省永济市を訪れ、鸛鵲楼から蒲津渡遗址、普救寺と見学して回った。普救寺参詣が終わったのが午後3時30分ころで、まだ少し時間があった。それで、タクシーの運転手さんに、「もう一つ、萬固寺へ参拝してから帰りたい。」と言うと、「判った」と言って、萬固寺へ向かってくれた。○この日は、午前中からずっとこの運転手さんと一緒だし、昼食も一緒に食べた。40歳過ぎくらいの、温厚な人だった。ずっと一緒に居て、疲れない。安心して過ごせた。良いタクシーを拾ったことに感謝した。○萬固寺も、
○2019年10月31日に、山西省永济市を訪れ、普救寺にお参りした。そのことについて、ブログ『普救寺』、『西廂記』と書いて来たが、普救寺について、何か、説明不足を感じる。それが何なのかがよく判らない。それで、とりあえず、撮ってきた写真くらいは案内しておきたい。○中国各地を歩いて、これまで、多くの寺や道院へ参詣して来た。すでに中国三山五岳へは全て参詣済みであるし、中国佛教四大名山や中国五山にも全てお参りしている。そういうものと、何処か普救寺は様相が違うのである。○それが何なのか、上手く説明でき
○山西省永济市を訪れ、普救寺にお参りした。中国では有名な寺らしいが、日本人には、とんと馴染みの無い寺である。何で有名かと言うと、『西廂記』の舞台として有名らしい。その『西廂記』を知らないから、ここで、学習しておきたい。ウィキペディアフリー百科事典が案内する『西廂記』は、次の通り。西廂記『西廂記』(せいそうき、せいしょうき)は、元の王実甫(おうじっぽ)による雑劇で、元曲の代表作である。正式な題は『崔鶯鶯待月西廂記』。○正式名称は、「崔鶯鶯待月西廂記」と言うらしい。崔鶯
○普救寺自体は、日本では馴染みの無い寺である。ただ、中国では、元代の王実甫の雑劇の名作『西廂記』の舞台として有名らしい。ちょうど、鸛鵲楼や蒲津渡遗址の手前に存在する寺である。永济を訪れた中国人なら、誰もが訪れる観光地であるらしい。そういう評判につられて、普救寺を訪れた。○日本のウイキペディアフリー百科事典にも、ちゃんと普救寺項目が存在するのに、驚いた。普救寺普救寺(ふきゅうじ)は、中華人民共和国山西省運城市永済市蒲州の古城にある仏教寺院。元代の王実甫の雑劇の名作『西
○永济の古名は蒲坂、蒲州と称していた。百度百科には、次のように載せる。蒲州永济古称蒲坂,是中华民族发祥地的核心区域,司马迁在《史记》中称这里为“天下之中”。《路史》中记述:“柱所都蒲坂”,认为上古传说中的农神,即烈山氏之子柱曾建都于此。先秦史专家丁山先生考证:“能植百谷百蔬的‘柱’就是‘后土’的省称”,说明后土祠出现在河东亦是渊源有自。○「史記」を書いた司馬遷は蒲州に詳しい。何故なら、黄河を挟んだ対岸、韓城が司馬遷の故地なのだから。私が遥々、永济までやって来た
○中国山西省の永济にある鸛鵲楼へ登って来た。もちろん、王之渙の「登鸛鵲楼」詩に促されてのことである。王之渙の「登鸛鵲楼」詩なら、誰でも知っている名詩である。登鸛鵲楼王之渙白日依山尽黄河入海流欲窮千里目更上一層楼○この詩を読んで、鸛鵲楼に憧れない人は居ない。一回は誰でも永济を訪れ、鸛鵲楼へ登り、王之渙が鸛鵲楼で見ただろう風景を見てみたいはずである。2019年10月13日に、やっとその願いが適った。○当古代文化研究所では、江
○前回、王之渙の「登鸛鵲楼」詩を案内した。・テーマ「陝西省:西安」:ブログ『王之渙:登鸛鵲楼』https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12638246731.html○王之渙より一世代前の詩人に陳子昂が居る。陳子昂は辺塞詩人として知られる。当古代文化研究所では、すでに陳子昂の辺塞詩を24個ほど訳している。・テーマ「辺塞詩」:120個のブログhttps://ameblo.jp/sisiza1949/theme-10113155927.ht
○2019年10月31日、山西省の永济へ行った。永济と言えば、私なら、断然、王之渙の「登鸛鵲楼」である。したがって、永济到着後、昼食を済ませて、最初に向かったのが鸛鵲楼である。○インターネット検索で鸛鵲楼を検索したところ、思いの外、検索ページが少ないように感じた。日本のウイキペディアフリー百科事典には、鸛鵲楼項目すらない。王之渙項目は存在するが、載せているのは「九日送別」で、「登鸛鵲楼」ではない。それが意外な気がした。○インターネット検索したら、次のページがヒットした。王之渙
○2019年10月31日、韩城から永济まで行った。距離的には200㎞も無いのだろうが、直行便が無いから、結構時間が掛かりそうだった。それが韩城のタクシーの若者と运城行きの高速バスの車掌の若者のお陰で、11時には永济に着いていた。何とも幸運な道中だった。○これには中国のタクシーの運転手の気概が影響している。中国で何度もタクシーを利用しているが、中国のタクシーは目的地がはっきりしないと行かない。私が知っているからと言っても、埒が明かない。その徹底ぶりには感心させられることが多い。反面、面倒な時もあ
○2019年10月31日は、韩城から永济へ行く予定であった。6時前には起きて、身支度を整え、6時30分にはホテルを出た。ホテル前で、タクシーを拾って、韩城市汽车客运总站まで行くようにお願いした。○韩城市汽车客运总站へ行く途中で、若い運転手が「何処まで行くのか」と聞くので、「河津まで行く。その後、永济まで行くつもりだ。」と言うと、旅程表をのぞき込んで、「それなら、韩城市汽车客运总站ではない。韩城新城汽车站へ行くべきだ。」と言って、韩城新城汽车站へ連れて行ってくれた。○この若者は、車から降りて「