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選択の自由NEW!2024-04-3012:02:05テーマ:ブログ永さんはトモ子ちゃんをかってました頭が良くてこんなに綺麗なのにどうして誰も・・ってっ松島トモ子は、日本の女優、歌手、タレント。現在、毒蝮三太夫が所属する、まむしプロダクションと業務提携をしている。満州国奉天生まれ。東京都目黒区育ち。目黒区立東根小学校を経てザ・マスターズ・ハイスクール卒業。*現在も東京都在住。生まれ:1945年7月10日(年
youtu.behttps://youtu.be/QafmfXnCkdAyoutu.behttps://youtu.be/7Q-x6bNRTW4youtu.behttps://youtu.be/vesZXdRJMAohttps://youtube.com/@UniversalMusicJapan?feature=sharedUNIVERSALMUSICJAPANユニバーサルミュージックは、世界77ヶ国に子会社となるレコード会社、或いはライセンシーを展開する世界最大の
今日の『四季通信』は、『読書あれこれ』~「大遺言(永拓実:著)」の巻~です。※永拓実さんは、あの永六輔さんのお孫さんです。永さんが亡くなられた後、永さん(祖父)に教えてもらったこと、永さんの残した著書、手帳やノート、メモを読み漁って祖父を辿った本です。※ここでは、ここで描かれた永さんの姿や人となりを知っている方たちのことばもあります、永さん自身が残したことばもありますそれを抜き出してみました。それでは※ま
〇名曲に深き思いを知るも思(し)う「ひとりぽっちの夜」の背景※「上を向いて歩こう」昭和38年の大ヒット曲。作詞・永六輔作曲・中村八大歌・坂本九トリオ六八九。今でも歌い継がれる名曲です。でも、一寸。(どうなんだろう?)個人的に思う一節もあります。「ひとりぽっちの夜」どういう背景なんだろうか?それまで様々があまりに重なり、大変だった意味からか?それとも、一寸時代を廻すけど。昭和38年。当時20歳、21歳ぐらいの若者の幼少期=終戦直後。親兄弟や身
1960年に日本レコード大賞が制定された。それで日本歌謡界が直ぐに変わったというわけではないが、その年が一つの転換点となったのは確かなことだ。レコード大賞の第一回のグランプリは、水原弘が「黒い花びら」で獲得した。その何が画期的だったかと言うと...作詞が永六輔、作曲が中村八大で、ともに20代の若手だった。つまり、世代交代が始まったわけだ。もう一つが、その2年前(1958年)から始まった日劇ウエスタンカーニバルの影響力だった。いわゆるロカビリー・ブームだ。水原弘は、ロカビリ
わたくし大画報Amazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02_TEXT}本厚木駅前の有隣堂で見つけた和田誠さんのエッセイ集。私の産まれた1982年に発売されたものの復刻とのこと。今から40年以上前の日本の様子がよく分かる。主に映画、子育て、仕事のことについて書かれてあるが、サラッと出てくる名前が永六輔、篠山紀信、横尾忠則とビックネームばかりで、和田さんってやっぱり凄い人だったんだなと改めて実感。最後の
パーキンソン病とはJ.パーキンソンの報告した疾患。筋肉の緊張が高まり、震顫(無意識的に頭部・手指に起こる筋肉の無目的規則的な運動)があり、随意運動を開始することが困難になるなどの症状があって、背がかがみ表情が仮面上を呈する。錐体外路系の中枢の障害が原因で高齢者に多く発する。指定難病の一つ。(広辞苑による)詳しくはウィキペディアで。パーキンソン病の著名人マイケル・J・フォックス映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」主人公29歳ころからパーキンソン
にほんブログ村平等は平等じゃないから、、、。ブログ訪問ありがとうございます。夢を実現させるために常にあなたと向き合っていくコーチングTêteàtête(テタテットゥ)です。ボランティア研修の時のこと「障害」「障害者」ってなんですかと質問がありました。ボランティアに応募した人は多種多様。誰一人おなじ環境ので育った人などいないのです。さて「障害」「障害者」は目に見えない。なぜ人は「障害」「障害者」をつくってしまったのか。あるボランティア研修者が「視覚(目)
生れて初めて作ったプラモデルは、サンダーバード1号だった。小学校1年生の頃で、当時一緒に暮らしていたいとこ(同い年)は、サンダーバード2号を購入していた。現代のスマホより少し大きめな箱に入っていて50円だったのだ。(゚∀゚)フォルム的には、サンダーバード2号を作りたかったのだが、いとこが先に玩具屋で2号を手に取り買う気満々だったので、子供時代から人と同じを好まなかった筆者は、1号にしたのだ。プラモを購入するキッカケは、小学校入学の前年にNHKでテレビ放送してい
永六輔(えいろくすけ/本名:永孝雄[えいたかお]/1933年4月10日~2016年7月7日)は、日本の放送作家、作詞家、。1933年4月10日、永孝雄は、代々東京・元浅草の最尊寺で住職を務めていた永忠順(1900-1991年)の息子として誕生。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖にもつ在日本外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。1944年、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)の国民学校から、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学
◆ホットアイマスク的な物◆目薬も使いますけどね。●速報『パワフルプロ野球2024-2025』が7月18日(木)に発売決定!本日からパッケージ版予約開始。今年の『にじさんじ甲子園』は外人転生選手が来るのか。●今日のランチ●半分くらい桜は散りました。今日は吉野家。親子丼が始まっていた!親子丼大盛りに味噌汁付けて837円。量も味も申し分ない。さて、今日の誕生日紹介です。加藤まさを(1897~1977)画家、詩人。少女に圧倒的な人気を得た大
優しい人になりたいと考える理由は人それぞれです。好かれるため、成長するため、自分に自信を持つためなど、様々な理由が挙げられます。しかし、「本当に優しい人」というのは、一体どのような人なのでしょうか。また、優しい人にはどのような特徴があるのでしょうか。今回は、優しい人の定義や、優しい人が日頃からやっていること、優しい人になるための手がりをご紹介します。■「優しい人」の定義まずは、「優しさ」の意味や、優しい人の定義を確認しましょう。人の性格を表す場合は、「他人に対して思いやりがある
あの永六輔の名作「いい湯だな」を編曲して歌ってみました。どうぞお聴きください。今度、私を温泉につれてって!真一のぶら~り散歩ここは上州万座の湯「いい湯だな」を歌って見た編youtu.be
いつもの小道で田辺靖雄梓みちよ近くの小道の桜も見頃ウオーキングにも良い季節そろそろダイエットを始めないとまずいです。いつもの小道で昭和38年(1963年)NHKバラエティ「夢で逢いましょう」今月の歌やっぱり、永六輔・中村八大の作品レコードは「こんにちは赤ちゃん」とカップリングです♪いつもの小道で目と目があったいつものように目と目をそらせた通りすぎるだけの二人のデイトいつもの小道で手と手が触れたいつものように手と手は離れた通りすぎるだけ
2024.3.29こんばんは🌃朝は暴風雨🌀でしたが午後から日差しがさして良い天気になりました。金曜日の夜ゆっくり過ごしましょう🐰フェイスブック「心に響いたらシェア」から一部引用します。~~~~~~~~~~~~~~~~~『貧乏ならいいのよ。貧乏は恥ずかしい事じゃない。でもね、貧乏臭いのはいやァね』永六輔が残した言葉(1)人間、ヒマになると、悪口を言うようになります。悪口を言わない程度の忙しさは大事です。(2)生きているという事は、誰かに借りをつくる事。生きてゆくとい
ひとつ前の当ブログで、『見上げてごらん夜の星を』(1963番匠義彰監督)について触れました。この映画については、当ブログ2020年12月17日に「文太先生のあだ名はカマキリでした」というタイトルで書いています。以下に再録します。***ひとつ前の当ブログの続きです。あだ名があると、つかない子が出てしまうことに配慮して、あだ名を全面禁止する学校があるといいます。ここは、生徒同士同様で、先生にもあだ名をつけることを禁止しているのかな?映画の中では、よ
五日ぶりの青空昨夜のニュースで、長崎県は桜の開花が発表されました。今年は小中学校の入学式は満開の桜が祝ってくれますね。願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ平安時代の歌人西行法師が歌った如月の望月の日は一昨日の25日の月曜でした。お釈迦様入滅の2月15日と同じ日を願ってとも言われています。生きていくということは誰かと手をつなぐことつないだ手の温もりを忘れないでいることめぐり逢
今日のことば永六輔さんの言葉商品を紙で包まないでさ、言葉で包めばいいんだよ。(放送作家・エッセイスト)
人間は三歳までに一生分の親孝行をしてますよ。赤ちゃんの可愛らしさとはそういうものです。それ以上の期待を子どもにしちゃあいけませんよ。~永六輔(放送作家、作詞家エッセイスト)~
女ひとり-デューク・エイセス(DukeAces)「女ひとり」(おんなひとり)は、デューク・エイセスが歌ったご当地ソング。「にほんのうた」シリーズの一曲で、京都府を舞台とした楽曲。1965年に制作され、福岡県を舞台とした「ぼた山」との両A面シングルとして発売された。作詞:永六輔、作曲:いずみたく。#女ひとり#デュークエイセス#DukeAces#おんなひとり...youtu.be
今日の『四季通信』は昨日の続きで、『遠くへ行きたい』~「永六輔京都の旅」の巻その2~です。※昨日も書きましたが、永六輔さんが、自分の番組である「遠くへ行きたい」の収録のため、孫の育之介さんに車椅子を押されながらの京都への旅でした。当時、永さんは、パーキンソン病と闘いながら毎週ラジオの生放送やボランティア活動を続けておられました。※前回は賀茂川、四条大橋が出てきました。渡月橋、嵯峨野が出てきました。瀬戸内寂聴さんと永さんが法話され
今日のことば永六輔さんの言葉運命っていうけれどさ、運と命は違うものです。命は決められたものです。運は自分で決めることができます。(放送作家・作詞家・エッセイスト)
今日の『四季通信』は、『遠くへ行きたい』~「永六輔京都」の巻~です。※上のタイトルだけじゃ何のことかわからないので少し説明します。永六輔さんの本などについてはこの『四季通信』で、何冊も紹介しています。でも永さんの本領はその喋(しゃべ)りにあります。面白いんですよね、永さんの話は。なんでなんだろうと考えてみるとその話し方は落語調なんですよね。よどみなく続く話、そして落ちのあるまとめ方。江戸っ子言葉を使われるからかもしれませ
自分が存在する理由自分がこの世に生まれるには両親の存在が必要だ。両親がこの世に生まれるには祖父母の存在が必要だ。祖父母がこの世に・・・・・と結局、先祖がいない事には自分は存在しない。先祖は大事にしなければいけないと思う理由だ。20代前半に約一年間アメリカに住んでいた。アメリカで車の免許を取り車も買い、車生活をエンジョイしていた。だが、若気の至りというか無謀な運転をしていたと思う。何度か危険な目に遭っている。今思い返しても本当によく
今日の『四季通信』は、『あれも書きたいこれも書きたい』~「無名人のひとりごと永六輔:著」の巻です。※永六輔さんについては、何回かこの『四季通信』に書いてきました。今日は永さんの著書の中から最近ぼくが見返した『無名人の独り言』という本からです。『無名人のひとりごと』著者:永六輔発行:株式会社金曜日2013年発行※まえがきに永さんは、こんな文章を書いておられます。長い間やっている、この、「無名人」の語録を評して、小沢昭一さん
{作詞:永六輔、作曲:いずみたく、編曲:渋谷毅}いずみたくが、自らの音楽制作会社であるオールスタッフの設立以前に手掛けた初ミュージカル作品が『見上げてごらん夜の星を』です。初演は1960年7月に大阪のフェスティバルホール。音楽はいずみたくですが、その頃知り合った永六輔と組んで作り上げ、作・演出は永六輔。その成功によって、以来いずみたくはオリジナルミュージカル制作に全力を傾注し、生涯で114本を制作したそうです(オールスタッフのホームページより)。そのミュージカルの再演を観た坂本九
2月29日今日の名言知らない街角を曲がると、それは、もう旅。(永六輔)今日ラッキーな干支とら、うさぎ、たつうま、いのしし今日の吉方位財神:真南よろこびごと:東南今日の開運アクション粛々としなければならないことを片付ける+++幸せを引き寄せるためのディープクレンジングコーム【萬事如意Ver.】萬事如意すべてが思いのまま幸せ引き寄せ赤色コームasiancosme.online
帰ろかなブンガチャ節北島三郎帰ろかな昭和40年(1965年)♪淋しくて言うんじゃないが帰ろかな帰ろかな故郷のおふくろ便りじゃ元気だけど気になるやっぱり親子帰ろかな帰るのよそうかな作詞・永六輔作曲・中村八大歌はこちらでyoutu.be/3v0krvFT8f4?si=Qb_odwY8cpU89DufNHK「夢であいましょう」昭和39年12月の歌デビューから3年、「兄弟仁義」や「函館の女」などがヒットしていた頃純粋に望郷の想いを歌う「帰ろか
当ブログに来て頂いている方の中で、「昨日のつづき」というラジオ番組を知っている。あるいは聞いた事があると言う方は、何人おられるだろうか?ラジオ関東(現在RFラジオ日本)は、横浜の独立放送局の為、東京神奈川千葉など関東でも聴く事の出来た地域は少ないと思う。1959年からスタートして1971年頃まで放送されていたが、さすらいが聴き始めたのは中学生の後半から高校時代にかけてだから1960年代の中盤から後半にかけてだったと思う。前田武彦と永六輔の二人で始めた日本初のフリートークのラジ
今日の『四季通信』は、『あれも書きたいこれも書きたい』~「永六輔さんの作詞家としての仕事」の巻~です。※2月22日の『四季通信』で永さんが書かれた『大往生』という本について書きました。永さんは日本全国を歩きながらそこで得られたことを書物にまとめるという作家としての一面と生涯においてずいぶんたくさんの作詞をされました。今日は永さんの作詞家としての仕事について触れます。※永さんが作詞した作品を選びましたので、読んだり、聴いたりし