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今回長崎再訪を思い立ったのは、一つには戦後80年に際し、被爆関連の史蹟を改めて巡っておきたいと考えたからです。その後押しとなったのは、5月に観劇した俳優の北村総一朗さんの演出による演劇「フツーの生活長崎編」、『”長崎の空は青かった”劇団昴ザ・サード・ステージ公演39回公演「フツーの生活長崎編」』5月25日(日)、俳優の北村総一朗さんが演出を担われた、北村総一朗オフィシャルブログ「行住坐臥」PoweredbyAmeba北村総一朗さんのブログです。…ameblo.jpそして7月の広響
永井隆の「この子を残して」のその後を知りたくて娘茅乃さんの「娘よ、ここが長崎です」も合わせて読むことにしました絶版になってしまったこの本が古書店から送られてくるのを待ち侘び今朝ようやく手元に届くと同時に数時間で完読しましたこの書には永井隆博士の偉大さ人柄が紹介されているだけでなく大好きな、楽しい事をしてくれる優しいお父さんが描かれています尊敬して止まない大事な事を教えてくれる父であり一方で無邪気なかやちゃんをそのまま愛してくれるあたたかいお父さんの姿を知る事
長崎の旅からひと月が過ぎましたこの8月はこれ迄以上に反戦意識の高まった戦後80年となりました長崎から戻り永井隆の「この子を残して」を読んでいます戦争という迫害から尊い人生にいかなる影響を受けたかを大切なお子さん達への思いと飽くなきカトリックの求道を通して永井博士は綴っています原爆によって妻を失い病気のために子ども達を残して死ななくてはならなかった永井博士の不安と無念さは如何ばかりだったでしょうふたりの愛児がやがて孤児になってしまうことを憂い悲しむ文面には
永井隆さんの『長崎の鐘』を読了した。長崎の鐘は、世界最初の原爆体験記である。しかし、本が世に出るまでには3年の歳月を要した。原稿を引き受けてくれる出版社がなかなか見つからず、やっと見つかったところで内容が原子問題に触れることやその他様々な事情があったからだ。1946年8月脱稿、1949年4月刊行。死に追い討ちをかけられていた永井さんにとって、長崎の鐘は悲願の本だった。時は1945年8月9日の朝から始まる。場所は長崎医科大学。学生と教職員たちは医
長崎市を歩く22放浪日:2017年9月17日旅は出会いの連続だと言う初めて見る光景、初めて食べる味、初めて知る文化ネットの情報が無限大に漂っているとはいえやはり、旅先の地を踏んでいないと出会えない出会いというものは存在するあもんがこの日、長崎市で出会った人がいる故人【永井隆博士】だあもんは彼の“生き方”に憧れたのである彼は余命を宣告されているうえに被爆をしたのに放射線を研究している医師として被爆者の治療を続けていましたしかし、約1年後に自らが病床に伏すようになっ
長崎市を歩く21放浪日:2017年9月17日旅は出会いの連続だと言う初めて見る光景、初めて食べる味、初めて知る文化ネットの情報が無限大に漂っているとはいえやはり、旅先の地を踏んでいないと出会えない出会いというものは存在するあもんがこの日、長崎市で出会った人がいる故人【永井隆博士】だ生誕110年を超える偉人で長崎市栄誉市民第一号という勲章もあるお方だ長崎が抱えた“戦争の悲劇”をまさに身をもって経験し“自らの命を掛けて“伝え続けた偉人だと、あもんは思うこの日この時
7月中旬から怒涛の日々が続き巷にあふれる「戦後80年」の文字が頭に充満していたヒロシマもナガサキも今年の首相の式辞が印象に残り、ここ数年には感じたことのない気分にもなった石破さんの自ら原稿を起こしたのであろう内容が心に迫った広島での歌人・正田篠江さんの歌「太き骨は先生ならむそのそばに小さき頭の骨あつまれり」長崎での医師であり詩人でもある永井隆博士の言葉「ねがわくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」こういう歌や言葉に触れている機会があ
一昨年、昨年、アップしたものを再編集して今年もアップします。『終戦日』いろいろなことが分かってきてますね。やっぱり教科書なんて戦争勝者に都合が良いように書かれてるわ。【永井隆】長崎原爆の地で人々を救い続けた医師<1ヵ月100円…ameblo.jp広島、長崎、大空襲は大量民間人虐殺。(※他にもありますが、すべて残虐過ぎる上に非人道の行為。わたしは敢えて書きませんが二度と起こしてはならないです。嘘やでっち上げではなく痛みを伴いますが現実に起こった事実を忖度無しで公表してい
==========================少しだけ、簡単に書かせてください。今日の昼、NHKの4Kで永井隆さんのことを考える、「昭和の選択原爆と平和のはざまで」という番組を放映していました。永井さんが書いた「長崎の鐘」を中心としていましたが、様々なことを考えることを必要とする番組でした。夜になると、BSで再放映していました。石破さんが居眠りしていたと書き込んでいる人たちは、この番組を観るならば、己の過ちに気づくでしょうか。気づいて欲しいです。========
<妻が藁筆で書いた峠三吉さんの詩>(2025年度-No.43)ブログ作成日:2025.8.11(月)**********************アメリカが広島・長崎に原爆を落として80年経った今年トランプは「あの一撃で戦争は終わった」と記者団に話しましたあたかも原爆投下が正しかったかのように・・・そんな中広島・長崎の平和記念式典について新聞・テレビ・SNSほか様々なメディアがそれぞれの目で様々な伝え方をしました今回はこのことにしっかりと
ほのぼの文庫を訪れてくださり、ありがとうございます。一日遅れて、被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和式典を【アーカイブ配信】で視聴しました。被爆者の方々の合唱に始まり、歌声が心に沁みました。石破総理があいさつで引用されましたが、「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ。」という故・永井隆博士の言葉を今年も心に刻みました。長崎市長が力強く述べられた長崎平和宣言が、世界中の人々に届くことを心から願います。この時期になると『八月がくるたびに』という絵本のことを
幾万の御霊を鎮め長崎の鐘は私の八月を問ふ20年以上前に詠んだ歌を、あえて毎年書く毎年の鐘はちっぽけな私の平和への覚悟と行動を問うものなのである海に向かって立つ大浦天主堂今年の8月9日は土曜日であり、自宅で黙祷何度か行った長崎の風景が浮かぶ平和公園、爆心地、浦上・大浦天主堂、如己堂、西浦教会の26聖人像爆風で片足になった鳥居といくつもの坂ヒロシマはヒロシマの、ナガサキはナガサキの夏の日だったテレビの中継で平和公園の鐘が鳴るとき、
※note「オヤジの思ひ出話」の転載記事です。オヤジの思ひ出話が80話を超えました。80という数字は、2025年の今年、大変意味深いものがあります。太平洋戦争終結から80年目の大きな節目に当たるからです。オヤジの思ひ出話で、原爆被災地を訪れた旅の思い出を書かせてもらおうと思い、先週の「広島」に続き、今週は「長崎」をテーマとします。第81話「長崎の地で見たもの」です。8月9日は長崎に原爆が投下された日です。長崎には1998年に訪れました。あれから27年が経ちましたが、長崎の原爆被災地
戦後80年の今年,今日は長崎に原爆が投下されて80回目の「長崎原爆の日」です.キリスト教徒が多く,「大浦天主堂」や「浦上天主堂」など歴史ある教会も携える「祈りの地・長崎」その場所が,一瞬にして地獄絵図と化した中でそれを受け入れ,前を向いて生きる方々の力強さを見事に表した「長崎の鐘」です.2020年のNHK朝ドラマ「エール」では,主人公の古関裕而が被爆した曲のモデルとなる永井隆博士を訪ねて苦悩しながら曲を作りあげるシーンがあり,ドラマのハイライトでした.長崎の原爆を語る上で,
フランス人相方の母は敬虔なカトリック教徒です。教会が毎月発行する小冊子の今月号は日本人のカトリック教徒、永井隆さん特集でした。長崎で医師として働いていた被爆者です。奥様は原爆投下で亡くなりました。この小冊子を通じて、少しでも多くのフランス人に核爆弾の恐ろしさを理解してほしいです。フランスはアメリカ、ロシア、中国に続く、核爆弾保有数世界第4位の国。
永井隆博士長崎原爆の日の朝・・・すべて戦死者の方々のご冥福をお祈りします。そして日本政府が心を入れ替えて一日も早く核兵器禁止条約に署名することを切に願います。長崎といえば・・・永井隆博士のわが子へのメッセージに大いに共感します。「愛の世界に敵はない」。平和憲法を変えようという勢力が声高に改憲を訴えるときが来るかもしれない。そんな時でも、最後の一人になっても「戦争反対」を叫び続けておくれ・・・とわが子を励ます父が永井隆博士です。2015年の8月、長崎県の高校
==========================まだ小学校にも行かなかったころ、ラジオでかかる、ある歌に違和感を持っていました。わたしは、好きでもない歌謡曲を、遊びに行っていない時は、祖母とラジオで聞いていました。歌謡曲がメインでしたが、一曲だけ「この曲は歌謡曲じゃない」と、心の中で呟いていました。「長崎の鐘」というタイトルです。「なにか堅苦しくって、面白くない歌だな」と想いながら聴いていました。歌詞の中に、何を込めたいのだろうと。けれど大人となり、好きな曲をネット
おはようございます。今日から三連休。お盆の期間は、一般的には8月15日を中心とした8月13日~15日、もしくは16日までの3~4日間程度。毎年、新暦の8月13日(迎え火=盆の入り)から8月16日(送り火=盆明け)までの4日間を「月遅れの盆(月遅れ盆)」と呼び、大半の地域ではこの期間がお盆とされています。企業などがお盆休みを設定する際も、これに合わせられることが多いようです。2025年のお盆休みは8月12日(火)を休めば最大9連休になります。2025年の8月13日(盆の入り)は水曜日。8
40年前の長崎で一番印象に残っていた如己堂に行きました。平和公園を出て数分、40年前の記憶と地図を見比べながら。40年前は、記憶していたことが正しければ、今回と逆コースで浦上天主堂から如己堂に移動し平和公園に向かったのではと思います。長崎の原爆に関わることを思い浮かべたときに、最初に如己堂、永井隆博士が頭に浮かんできます。如己堂は、「長崎の鐘」、「この子を残して」などの著者で知られる永井隆博士の病室兼書斎だった場所です。「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から「如己堂」と命名しました。自
旅のミッション2へ永井隆記念館と如己堂に「大橋」まで参りました「己の如く人を愛せよ」「どん底に大地あり」永井博士の力強い言葉に病めるひとの真の強さとそこ知れぬ愛を一身に受けあんなに小さな住まいにも関わらず圧倒される思いで如己堂を暫く見つめていました胸がいっぱいですこちらも念願が叶い大きな喜びに包まれました
長崎行きが来週実現出来ることになりましたどうしても訪れたいところは何を置いてもコルベ神父の記念館そして長崎原爆の被爆者で医師の永井隆の暮らした如己堂更に私と母が共に愛読した遠藤周作の記念館の3つです永井隆とコルベ神父の繋がりを示すものが「聖コルベ記念館」にあるということで「コルベ記念館」では同時におふたりを感じることができます学生時代にカトリックに出会った折にコルベ神父の「聖者コルベ霊的メモ」に触れて以来それは私にとってもうひとつの聖書となりました十字架の栞の
金比羅高射砲陣地跡から下ります到着するのは「坂本国際墓地」です元々外国人用の墓地は居留地がある大浦に外国人墓地としてありますがそこが一杯になり新たに1888年に浦上山里村に開設されたのが現在の坂本国際墓地になります現在でも長崎で最大の敷地面積になります(↓国際墓地のエンジェル)墓地は入口から3ブロックに分けられていて入口からアメリカ人とイギリス人フランス人にユダヤ人等がそれぞれ埋葬されているそうですまた入口すぐの場所には長崎名誉市民の永井隆の墓も設け
日本のビールは世界一うまい!――酒場で語れる麦酒の話(ちくま新書1737)Amazon(アマゾン)日本のビールは世界一うまい!酒場で語れる麦酒の話(ちくま新書1737)[永井隆]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}そりゃあ日本のように毎年新しい銘柄の新製品を、しかも4つのメーカーがしのぎを削って出しながら戦っている国は他にはないでしょう。海外は昔からの製法やブランドを頑なに守り通しています。一方で、日本では「ドライ戦争」
1948年3月に浦カトリック教会等の協力により永井隆の療養のための庵が完成します永井はこの庵に聖書の言葉「己の如く人を愛せよ」から「如己堂」と名付けますこの言葉は永井が生涯の信念として貫き通した言葉でもあります(↓如己堂)同年8月永井は大学を休職して療養に専念する事になります永井はニュース映画の取材に対して「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね最後までやっぱり光になってばーっと光ることができると思います」と答えています更に同年10月18日に
浦上天主堂の次に行ったのは、如己堂。如己堂は永井隆博士が晩年を過ごした家だそうです。永井隆は、数年前の朝ドラ「エール」で吉岡秀隆が演じていた人です(役名は違っていたみたいですが)。第102作「エール」|作品紹介|朝ドラ全史|番組|NHKアーカイブス【2020年度前期】第102作「エール」についてご紹介します。www.nhk.or.jp如己堂については↓↓↓如己堂永井隆記念館に隣接する如己堂は、永井隆博士の病室兼書斎です。原爆で無一文となった浦上の人々やカト
1945年の8月12日永井隆は子どもと義母が疎開していた西浦上へ行きますそこで救護本部を設置して被爆者の治療に当たりますが永井は9月10日に自らの傷口からの出血が止まらず昏睡状態に陥ります永井はこの時に自ら辞世の句を詠んでいたのですがこの時は一命をとりとめますが9月20日にやはり出血が止まらず再び昏睡状態に陥りますこれにより永井の救護班は解散しますこの時永井は神父に告悔して終末期の神の恵みを受けますすると出血が軌跡的に止まります永井本人によると告悔し
永井隆は1937年に長崎医学大学の講師に就任しました同年に長女の郁子が誕生します1940年に長崎医学大学助教授に就任し物理的療法科部長となります戦時中永井は結核X線検診に従事しますしかしフィルム不足で透視による診断を続けますそのため1945年6月にはX線の散乱放射線被爆によって白血病の診断を受けますこの時永井は余命3年の宣告を受けましたこの頃永井隆は「この戦争は絶対に勝たねばならない日本国のために、陛下のために」と口癖の様に話していて地域の夫人部の竹やり指導
森山家に下宿して緑さんと運命の出会いをした永井てす1932年5月永井は大学の代表てして卒業式で答辞を読む事になってましたが卒業式の5日前に雨に濡れて帰りそのま寝ました永井は急性中耳炎にかかり命の危うい重症になりましたこの時カトリック信者の老婆が永井の世話をしていました永井は高熱のうわ言で「天の後母堂マリアわれの為になりました祈りたまえ」といい老婆は「この人はきっとカトリック信者になる」と確信しました、と後にのべています2ヶ月後回復した永井ですが後遺症として
長崎の歴史も昭和に入ります人物紹介では最後の人物になります昭和に入り太平洋戦争終結後永井第一号の名誉市民賞を受賞した医師で随筆家の永井隆さんです永井隆は1908年に島根県松江市に誕生します永井隆の父は医師をしており裕福な家庭で医師の父の影響を受けて育ちます(↓永井隆の住居如己堂)永井隆は優秀な生徒だったらしく学級委員長を努めたり全校生徒を代表して皇族を迎えたりと活躍しています高校を卒業する頃には教師の影響もあり唯物論者となっています高校の成績も優秀なまま
今日は「長崎原爆を知る」の27です。人が生活している場所めがけて原爆を落とされた国は、私たちの住む日本だけです。1945(昭和20)年、アメリカ軍は8月6日に広島に原爆を落としました。その3日後8月9日には長崎にも原爆を落としました。この事実を、もっと知ろうと思えば知れる、そのためには現地に行ってみることがよいと思い、広島へ、長崎へ、撮影旅をしました。本シリーズは長崎編です。写真の撮影は2019年ですが、今の解釈で現像しています。よろしければ写真での平和学習の旅を、ご一緒