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先祖は、徳川御三家、水戸藩の藤田東湖先生の従兄弟‼️でも、人を斬つた先祖、
こんにちはあみこ。です。以前日光東照宮近く日光二荒山神社さんの分社滝尾神社さんへ向かう途中にとても気になった看板がありましたそれを見た時私は「ある姫君様の忘れ去られた場所」そんな言葉が浮かんできました。こちら日光東照宮の裏養源院跡の看板です↓↓(ようげんいん)ここにあった養源院(ようげんいん)を建立されたのは徳川家康さんのご側室英勝院さま(えいしょういん)そして、養源院は英勝院さまがご自身の部屋子から家康さんのご側室となっ
酒列磯前神社から車で約15分、那珂湊の反射炉にやって来ました。☆駐車場すぐ脇の山上門はひたちなか市の指定建造物。もともとは水戸藩江戸小石川邸正門右側の門。反射炉とは繋がらないけど、現在残存する唯一の建築物。当時の陸軍省から払い下げを受け移築。反射炉は9年前に行った韮山の反射炉以来です。那珂湊の反射炉は1855~57年に建造されたものの、1864年に元治甲子の乱(げんじかっしのらん)(*1)で破壊されました。現在の反射炉は、1937年に復元された模型。
桜田門外の変-歴史探偵桜田門外の変。新史料が発見され、従来のイメージが大きく変わろうとしている。井伊直弼暗殺にかかわったピストルと事件直後に起きた内戦の危機。幕末の大事件を調査する。www.nhk.jp今夜は、NHKの「歴史探偵」で桜田門外の変が取り扱われますね。桜田門外の変といえば、幕末の万延元年3月3日、江戸城に登城中の彦根藩主・大老の井伊直弼の行列が水戸藩浪士(薩摩藩浪士・有村次左衛門も参加)に襲われ、井伊直弼が暗殺された幕末の大事件ですね。この際
え~なんでも1875年のきょう…明治天皇が水戸藩の下屋敷で…お花見やるぞー!って訪れたときに、お茶菓子ってーんで…木村屋さんのあんぱんが…ワォッ!出されちゃったんでちゅー!ちなみにきょうは…いやーん!おかまの日…でもあるのよーん!ってのも…きょう4月4日は…3月3日のおにゃにょこの節句とぉ…5月5日のオトコの子の節句の中間の日…だからなんでちゅ!選ぶなら、つぶあん派?こしあん派?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
水戸旅行以後、改めて幕末の水戸について考えています。吉村昭氏の『桜田門外ノ変』は、実行隊長の関鉄之介の視点から描かれた小説です。同名の映画の原作でもあります。水戸の博物館や記念館、関係者の墓所や旧跡を訪れたことで、より一層、想像力がかきたてられます。良学舎/豊四季駅前学習塾小学・中学・高校柏流山おおたかの森野田(goodstudy.jp)
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それでは月曜正午ですが日曜ブラタロウのスタートです!今日は晴天ですが風がストロングで換気扇が逆回転するうるさい部屋からレポートですいつもの麻布十番駅を今日は大江戸線ではなく南北線で目的地飯田橋駅🚉神田川ぞいをてくてく6分ほど、左に⬅️折れて3分ほどつきました小石川後楽園!東京ドームが見えなければ東京とは認識できないスケール感です水戸黄門として有名な光圀の前の藩主頼房が築園し光圀が完成させた庭園。ところどころに中国からの影響を含めた日本庭園。頼房はこの自然の高低差を気に入り家康に直
水戸藩編日向ぼっこする鴨🦆🦆
前回の続きで〜す🍀大場一真斎さんのお墓参りの為長楽寺さんに向かう途中大谷祖廟大谷祖廟-Wikipediaja.m.wikipedia.orgというところがありました☺親鸞聖人のお墓があるそうです!こちらは素通りさせていただきまして左側の門を出て右に曲がると目的の長楽寺さん🍀写真ピンボケですみません^^;長楽寺さんの入り口やっと見つけました^^;ここからさらに坂道登ります^^;805年に桓武天皇の勅命で最澄さんが作ったという古いお寺さんでした🍀坂の途
徳川御三家、水戸藩の【藤田東湖】の従兄弟が先祖また、茨城県へ、行きたいですね。介護保険使って3泊しないと無理かも、高くつくなあ〜車椅子♿️の今は😢
全国ビスケット協会が1980(昭和55)年に制定。1855(安政2)年、パンの製法を学ぶために長崎に留学していた水戸藩の蘭医・柴田方庵が、同藩の萩信之助に、オランダ人から学んだ軍用のパン・ビスケットの製法を書いた「パン・ビスコイト製法書」の書簡を送った。これが、ビスケットの製法を記した日本初の文書とされている。また、ビスケットの語原がラテン語で「2度焼かれたもの」という意味の「ビス・コクトゥス(biscoctus)」であることから、「に(2)どや(8)く」(2度焼く)と読む語呂合
※今回は最後にお知らせがあります。最後まで読んでね。1月行く(往ぬる)、2月逃げる…といいますが本当にあっという間にあと2日で2月も終わりです(ちなみに3月は去るです。)今年はうるう年で1日多くてラッキーな気がしますね。寒いですが、日差しがなんだかキラキラしてまぶしいちょっと気持ちもウキウキしそうさて明日2月28日はウキウキ気分にしたいお茶会にピッタリのなんとビスケットの日全国ビスケット協会が1980年に制定。安政2年(1855年)のこの日水戸藩
先日大場家のご先祖さまと思われる大場一真斎さん大場一真斎meiji-ishin.comのお墓を探しに常磐共有墓地に行きました!が見つからず^^;いろいろ調べてみたら京都にも一真斎さんのお墓がある!新選組&幕末ばんざい!!長楽寺-大場一真斎墓新選組を中心に歴史の舞台を巡りますmiburou.blog103.fc2.comという情報がありましたので機会があれば行ってみたい~🍀水戸共有墓地には水戸黄門に良く出てくる「格さん」のお墓があってその他にも藤田東湖
ここ2日朝ライドに出たら降り出すパターン昨日はパラパラ程度でしたが今朝は本格的に降ってきてしかしレインケープ装着で雨なんてへっちゃら着るタイプのカッパと違い自転車全体を覆えるのが利点欠点は風でバタバタすること何故そこまでして走るのか?それは野菜と卵切らしたからです息子の弁当も朝飯も作れないのは困る弁当と言えば息子の高校2学期から学食が復活してたのですが経営難で来年度からまた閉鎖するそうで木曜は売店でおにぎり買わせるとして結局毎朝弁当作りになりそうです。今は週2〜
水戸通寳當百形態:楕円形穴あき銭分類:地方銭/創作銭サイズ:縦49mm、横34mm、厚さ2.8mm量目:17.4g材質:銅お宝度:◎◎◎◎◎◎作銭度:中水戸というと水戸黄門すなわち徳川光圀が有名ですが徳川御三家の一つであり常陸国内最大の石高を誇る水戸藩では水戸学と呼ばれる独自の学風が築かれ九代藩主斉昭が弘道館を創設するなど幕末における尊王攘夷論を先導したことでも知られています水戸藩の銭貨としては
夕方の水戸黄門再放送が精神安定剤w
これは,天保3年(1833年)に水戸藩の甲冑師十五代早乙女家次が、職人4~5人掛かりで南蛮鉄を用いて製造した大砲である。製造者の名前を取り早乙女砲と呼ばれている。水戸藩所持の早乙女砲種類差火式大砲全長約69cm口径約6cm砲耳約6cm重量約38Kg点火部分は,火縄銃と同じ。火蓋まである。この大砲が製造されたのは,幕末の緊迫した海防問題に対処するためだった。1800年代初め頃から、日本近海で欧米による捕鯨が盛んになり、外国船が日本近海に出没するようになった。
皆様、ご機嫌YOです!幕末に跋扈した尊攘テロリスト共。最終的には薩長らが動乱にうまく乗じて国を奪うに至るのですが、幕末初期に国を乱したのは長州、そして水戸のテロリスト共です。今回は水戸の尊攘テロリスト共が幕末に何をしたかに焦点を当てた動画をご覧頂きたいと思います。「維新」と言う名のテロの魁となった水戸藩。しかし天狗党のテロ、そして反テロ派との殺し合いを経て水戸藩に能力(人間性はこの際措く)のある人材は底を尽いてしまいます。一時的に官職を得た者もいましたが、ほとんどは没落し大日本帝国は
ここはどこだか分かりますか!?そうです。水戸市立博物館の駐車場です。こちらが見たくて来ました。ぎりぎり間に合いました。横山大観の作品も茨城ではよく見られます。一番見たかったのはこちら。山田みのる「七福神」船に乗らないで、みんな楽しそうに歩いています。とってもおめでたい感があって、心がぱーっと明るくなりました。せっかくなので、常設の展示も。水戸城の模型。あら小さい。江戸と水戸と両方だったので財政がきつかったとききます。この歳にな
マルです。宍戸藩士小幡友七郎の諱(いみな)は【通贇(みちよし)】と云います。【贇】という字の意味は容貌が美しい、美しいさま、など。友七郎の諱はとても美しい名前なのです。武士の諱というのは、元服のときに付けられる名です。元服は一般的に10代で行われたそうで、元服時に【贇】の字を与えられた友七郎はもしかして美男子だったのでは、と想像しウキウキしている私です。その美しい諱を持つ友七郎ですが、36年生涯独身でした。代々、宍戸松平家に仕え重役を担ってきた武士の家に生まれ、家柄的にも申し分な
マルです。宍戸藩士小幡友七郎と藩主松平頼徳の主従関係について、まとめてみました。まずは、主君松平頼徳について↓松平頼徳1831―18641846年父頼位の隠居により後を継ぎ、常陸国宍戸国9代藩主となる。1864年9月4日幕命により水戸藩主の名代として水戸藩内乱の平定のため水戸へ向かうも、市川三左衛門らに入城を阻まれ那珂湊にて交戦。同年10月28日幕府追討軍総括田沼意尊により賊魁の汚名を着せられ捕縛される。同年11月4日水戸藩支族松平萬次郎邸にて切腹させられる。享年
1868年。今から2023-1868=百五十五年前…もうそんな月日が経ってしまわれましたか…スマホは無い。テレビだって勿論無い。新聞だって無い…そんな時代に西からやってきた戦争…下野国やその周辺の人々はどう受け止めたのか。場所にもよるが、壬生街道や宇都宮市街地。私の実家の小山市でも戊辰戦争の跡は残っている…あれから百五十五年も経ったのだから、その当時の栃木を知る人はいない。何があったのかな。思いを馳せる…
何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず徳川斉昭(1800年-1860年)徳川斉昭(とくがわなりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。略歴寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男として生まれる。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教(まつだいらとしのり)、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。藩政改革に成功した幕末期の名君の
こんにちはもう冬ですとても寒い…でも良いことも…それはふとんの暖かみですねつい、二度寝をさそう魔力がありますいい魔力ですところで先日ですが…もういいんじゃないかできたら年齢を一歳ずつ返したいと思ったりするmybirthday妻にケーキぐらいは買ってもいいんじゃないとの提案まあ、たまにおいしいのでいいかとひさしぶりの地元のケーキ屋さんへChercher(シェルシェ)です生菓子|菓子工房シェルシェwww.kashikobo-c
面白い展示が観られそう。興味津々です(⁎˃ᴗ˂⁎)美術には色々なジャンルがあり,美術に疎い僕がそれらを等しく味わえるようになりたいと願っていること,そのために「ジャンルを問わぬ鑑賞を行っていこう」と常々心掛けていることは,既にこちらで何度も申し上げているとおりです。しかし実際にはそれはなかなか難しいことも。絵画やイラストレーション・写真といったジャンルの展覧会は珍しくありませんが,それ以外のジャンルの美術作品で頻繁に鑑賞出来るものといえば,他には陶芸くらいでしょうか。「展覧会といえば絵(フ
いつの間にか9月になっておりました。いつもは夏が終わるのが寂しいのですが、今年は異常な暑さだったので、ちょっとだけ秋めいてきて嬉しいです。暑すぎたせいなのか、今年はあまりザリガニの観察ができなかったな。(引っ込んでいたのか、ほとんど見かけなかった)メダカもいなくなっちゃったし。水脈が変わったのだろうか。今日のお散歩ではモグラを見かけました。お亡くなりになってましたが・・・モグラの手はキモチワルイ今週はこれをチマチマと読み進めていたのですが、果たして真相はどうなのか謎めいて
今日から夫も次男もお盆休み日帰りトリップに行って参りました。今回は何故か夫が茨城に行こう!つうことでしたのでやっほい!!とモリモリの計画を立てたのですが💦今日は山の日でお盆休み初日そうは問屋が卸さなかったw頑張って早めに出発したものの目指す場所まで車で3時間ナビは9時半の到着予定になっています。この到着予定なら行きたいところ全部いけるかも!と思ったら渋滞にはまる・・・事故渋滞や自然渋滞で
「「天狗争乱」吉村昭著新潮文庫」幕末の水戸藩といえば、徳川斉昭に代表されるような過激な攘夷論で知られています。本来ならば、薩長土肥なんかより先に攘夷論の先頭を走っていたのです。でも、明治維新の際に、主導権をとることはできませんでした。その要因の一つが、斉昭の死後、攘夷派と門閥派の争いが激化し、藩論を統一することができなかったことでしょう。水戸の攘夷論は、攘夷を実行しなければ、アヘン戦争に敗れた清国のようになってしまうと言う危機感に基づくものでした。藤田小四郎が中心にな
水戸弘道館。水戸藩の藩校です。有名な尊攘の書。至善堂慶喜も居た場所。