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《菖蒲谷隧道(角倉隧道)》日本では小学校2年になると算数の時間にかけ算を学びますね。そして、かけ算の勉強といえば「九九」の暗唱です。「ニニンガシ、二サンロク~ククハチジュウイチ」で終わる暗唱方法。皆さん、子供の頃、覚えさせられましたね~でも、この暗唱を覚えたおかげで、実社会のあらゆる場面で役立っていることは間違いないところです。九九を学んだ事だけでも、教育の大事さがよくわかります。どうやら日本ではこの「九九」という計算方式を平安時代の教育に取り入れています『口遊』(970年
皆様おはようございます。昔のそろばん教育江戸時代編②です。今回は、日本最初のそろばん塾についてです。日本で最初のそろばん塾は、詳しい年代は不明ですが江戸初期の京都に誕生したといわれています。京都の河原町二条付近において、毛利重能(しげよし)が「天下一割算指南」の看板をだし、角倉家の倉庫を借りて開いたのが日本最初のそろばん塾といわれています。毛利重能は生没年は不詳ですが、江戸時代前期の和算家です。現在知られている中では最も古い和算家で、明(現在の中国)
JR甲子園口駅を越えて、さらに北上しますと見えてまいりますのが、熊野神社です。わりと大きな神社ですが、町名が熊野であることから、昔はもっと大きな社領であったのではないかと推測されます。手水舎球体からチョロチョロ拝殿本殿御祭神は伊邪那美で、那智熊野よりの勧請です。創建時は若王子神社と称していたそうですが、江戸時代に若王子大権現となり、明治になって熊野神社となりました。勧請、習合、分離のたびに名を変えてそうですが、勧請した当時を考えると千手観音じゃないかと
毛利重能(もうりしげよし、生没年不詳)は、江戸時代前期の和算家。現在知られている中では最も古い。通称・勘兵衛、官位は出羽守。当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称1622年[1]。)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。また、割算書に
日本を数学大国にしたミリオンセラー『塵劫記』江戸時代に庶民がこぞって読んだ驚異の数学書の正体『塵劫記』の著者・吉田光由が師事した毛利重能と角倉素庵 このような魅力的な『塵劫記』は突然出来上がったのではありません。そのルーツを少しだけ探ってみましょう。 数学者・吉田光由(1598-1673)は京都の豪商角倉家の一族として生まれました。 吉田光由が最初に師事したのが江戸初期の数学者・毛利重能です。1622年、毛利は『割算書』を著しています。著者名が分かる数学書として現存日本最古のもので
館蔵資料の紹介1991年玉川大学教育博物館>館蔵資料の紹介>1991年>毛利重能の『割算書』『割算書』の序文『割算書』毛利重能著和装本元和8(1622)年13.5×19.5cm写真は元和8(1622)年に刊行された毛利重能(しげよし)著『割算書』で、現存する刊本数学書のうち著者が判っているものとしては日本最古の書です。現存冊数が少ない希献本です。著者不明のものに『算用記』というこれより古い数学書があることが最近わかりました。毛利重能については、生没年も不詳で
毛利重能毛利重能(もうりしげよし、生没年不詳)は、江戸時代前期の和算家。現在知られている中では最も古い。通称・勘兵衛、官位は出羽守。当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称1622年[1]。)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。また
[内容]明治のはじめまで、西洋よりも高度な日本独自の数学があった。殿様から庶民まで、誰もが日常で使い、遊戯として楽しんだ和算。その魅力と歴史を紹介。[目次]第1章聖徳太子の時代に数学は伝わった第2章戦国時代の数学第3章数学塾の登場と活躍の場を広げた数学者たち第4章ベストセラー『塵却記』と吉田光由第5章高度になっていく数学第6章関孝和と関流の数学者たち第7章遊びとしての数学第8章旅を楽しみ、地方に数学を広めた「遊歴算家」第9章明治時代の和