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関ヶ原の戦いに16,000もの兵を率いて乗り込みながら、一戦も交えることなく、ついでに言えば一兵も損ねることなく撤退した武将がいます。毛利秀元です。参戦要請に対して「ただいま食事中」とお断りしたという、世に「宰相の空弁当」として名高い逸話の主でもありますが、秀元このとき22歳。朝鮮の役でも毛利輝元に代わって陣頭指揮を取った有能な若武者が戦いたくなかったはずはありません。秀元の本音を言えば東軍でも西軍でもどっちでもいいから一暴れしたかったところでしょう。吉川広家さえいなかったら・・・と思ったのか思
毛利秀元生年月日1579年11月25日(水)日干支己酉同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)1.プブリウス・セプティミウス・ゲタ189年3月7日(金)うお座2.源実朝1192年9月17日(木)おとめ座3.シャルル7世(フランス王)1403年2月22日(木)うお座4.リチャード3世(イングランド王)1452年10月2日(月)てんびん5.シャルル8世(フランス王)1470年6月30日(土)かに座6.キャ
昨日は角島大橋を目指してその前にお昼を川棚の瓦そばたかせ本店で車やバイクが駐車場を賑わしていました。瓦そばを美味しく頂きました。それから角島大橋へ。そして角島灯台へ。時間の都合により外から偵察したのみでしたが…。その後今季最後かの紅葉🍁を見に行こうかと神上寺に向かいましたが、道を間違えて土砂崩れしていた道へ迷い込み、ガソリン⛽️も無くなって来ていたので、ガソリンスタンドを探しに撤収。道の駅蛍西の市近くの妙栄寺へ。大内氏の代から続く曹洞宗でしたか。武家は禅寺が多いとか。毛利秀
本日も快晴で散歩日和。今日は岐阜県の南宮大社に来て散歩したよ。●古代から、鉱山・金属の総本宮として崇拝を受けて来た。天平時代に聖武天皇が奈良の大仏を建立した時に、この地に行幸して勅願した言い伝えが有る。●南宮大社は、関ヶ原の戦いの時に西軍の毛利、吉川、安国寺等々の陣となった為に兵火により炎上灰燼となるが、徳川家光が再建した。境内は江戸時代初期の建築物が建ち、国の重要文化財となっている。●今日は連休初日で七五三。晴れ着を着た子供連れの家族で賑わっていた。●もうすぐ年の瀬とは
大僧正天海(90)【寛永行幸】「(寛永二年四月)廿七日、毛利中納言輝元入道宗瑞封地長門国萩城にて卒す。榊原左衛門職直を御使とし、其子長門守秀就に香銀五百枚賜り。大御所より多賀左近常長御使し、香銀三百枚たまふ。」(「大猷院殿御實紀」)毛利輝元について、今更説明するまでもないが、一応簡潔に記すと、「戦国大名・毛利元就の嫡孫であり、豊臣政権の五大老の一人、関ケ原の戦いでは西軍の総大将になった人物」である。輝元の父・隆元は、元就の隠居に伴い第十三代当主となり、
先日訪れた下関市長府の功山寺に久しぶりに参詣した。功山寺は長府に移封された毛利秀元が古くからあった長福寺を修営して洞雲寺12世の三庭龍達を招請して開かれた寺である。金岡用兼を開山とし師の天翁玄播を2世として自らは3世とした。洞雲寺の大雲守的は4世、基外嶺雄は5世となっているのである。下画像の墓碑は洞雲寺に関係する5世までの墓碑である。
豊功神社(下関市·昭和初期)幕末の諸隊の一つ、長府藩士による“報国隊”が結成された場所。この地から見える初日の出は一見の価値があるとも言われていた。昭和44年に、この社殿は火災により焼失した。(保存版「ふるさと下関」より)(彦島のけしきより)豊功神社、下関市長府宮崎町4−1参考①豊功神社豊功神社由緒豊功神社は神話伝説の島として知られる満珠・干珠の二島を展望する絶景の此の地に鎮座する旧県社で祭神は応神天皇、武内宿祢、穂田元清毛利秀元をはじめ長府藩歴代の藩公を祀る古くより櫛崎八幡
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「日本100名城」に指定されています。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しました
南光坊天海(182)毛利家は、大坂冬の陣では徳川方として、輝元自身が参戦している。ところが、船中に病にかかり、秀就らに大坂城攻めを委ねて帰国した。その後も毛利軍は、さほど戦闘に参加しないまま、冬の陣は終了した。夏の陣でも出陣を命じられ、4月21日に秀元が先鋒として出陣し、5月4日に秀就ら主力が出陣した。しかし、毛利軍は、結局大坂城落城には間に合わなかったのである。それどころか、毛利家家臣・内藤元盛が、輝元の命で佐野道可と変名し、豊臣方として大坂城に入っている
南光坊天海(178)家康は京橋口から帰路に就いた。この日は快晴で、清々しい青空が広がっていたのである。ところが、お供のものは、「こんな日は往々にして雨模様になる。」と言って、先行きを危惧していた。案の定、守口あたりから雨が降り出し、枚方にかかる所で大雨となった。そこで家康は御輿を下りて、雨具を羽織ると馬で二条城まで走り抜けた。このため、二条城では家康の帰城に気づくものは誰もいなかったという。9日、秀忠は、阿部正次に天王寺口、高木正次に京橋口、水野忠清に青
南光坊天海(154)「世に伝ふる所は、毛利甲斐守秀元長府にあり。長門守秀就萩城に住す。秀元より萩城に使を五六度つかはし、出陣をすすむるといへども、秀就は遅延して出陣せず。家老福原越後、兒玉豊前は先達て兵庫迄出陣すといへども大坂へは進まず、秀元一人手勢を具し馳上る所に、播州室津に大坂より番船を出し、これをとどむる中をおし分て、明石と岩屋と両方より鉄砲を打ちかくるを事もせず、関東の味方毛利宰相と呼はり。舟を乗ぬけて五月七日の曙に参着せり。秀就あとより出陣せしが、はや大坂落城
【問題】関ヶ原の戦い後、毛利秀元が改修し、雄山城ともいう城は次のうちどれか?【選択肢】櫛崎城上関城高森城敷山城【正解】櫛崎城【解説】関ヶ原の戦いの戦後処理で減封された毛利家では、秀元が大内氏家臣・内藤隆春の櫛崎城(山口県下関市)を改修して長府藩の居城とし、雄山城と称した。
【問題】佐竹義宣・浅野幸長・毛利秀元に共通する事柄は、次のうちどれか?【選択肢】自領内で芝辻砲を製造した茶の湯を古田織部に学んだ鹿児島県内に菩提寺がある示現流の免許皆伝を受けた【正解】茶の湯を古田織部に学んだ【解説】佐竹義宣・浅野幸長・毛利秀元はいずれも古田織部に茶の湯を学んだことで知られる。織部の弟子には武士も多く、他に伊達政宗や大野治長らも知られる。
昨日は衆議院選挙の投票日であると同時に、自然派四柱推命の「月一勉強会」の日でした。選挙で慌ただしい中、参加してくださった皆さま、本当にお疲れさまでした。参加できなかった方は、後でゆっくり動画でみてくださいね(^^)さて、いよいよ関ヶ原の合戦のリメイクブログも、佳境に入ってきました。――――――――――――――――――――――――――――関ヶ原の合戦は、朝の8時ぐらいから始まったものの、お昼には戦いが終結してしまうという、珍しいほどの超短期決戦でした。
今朝の東京は、おだやかな秋晴れ……さっき、衆議院議員選挙の投票所に行ってきました。今日はこの後、入門講座のテキストをブラッシュアップして、夜は四柱推命の「月一Zoom勉強会」です。すみません……今日も相変わらず、関ヶ原の合戦ネタです。――――――――――――――――――――――――――――実際に西軍を指揮しているのは石田三成なのですから、普通なら、三成が西軍の総大将になるのが自然だと思うのですが、毛利輝元に西軍総大将の白羽の矢が立ったのは、三成の盟友・大谷
あっという間に月日が過ぎて、明日は衆議院議員選挙の投票日ですね。僕が応援している、広島から出馬するYさんの対立候補には超有名議員がいるのですが、ぜひとも、打ち克って勝利してほしいな……と思っています。厳しい戦いですけれど、時代の風は吹いていますし、十分に勝ち目はあるはずです。東京にいるので、Yさんに投票できないのが残念ですが……勝利のエールを送っています!!さて今日は、関ヶ原の合戦のリメイクブログの6日目です。――――――――――――――――――――
日本三大カルストを制覇し、南下再びの毛利長府毛利邸ちょっとした城門くらいあるのではないかここは毛利秀元公の像が毛利元就の孫の一人YouTubeの毛利家歴史チャンネルでもたしか出てきたな毛利家の実際の末裔がチャンネル持ってて紹介動画アップしてるんだからすごい時代になったもんだ庭園は管理が大変そうだから、人のを観るのに限る石畳の出口から次へ向かう長府庭園ここ数年庭園オタクのような暮らしをしているが、特に何か専門知識を持っているわけではない
寺社No.6570御朱印No.6958豊功神社(とよこと神社)山口県下関市下関神社13番、長府藩祖毛利秀元豊功大明神2024年6月9日長府藩祖毛利秀元豊功大明神豊臣秀吉→豊国大明神毛利元就→豊栄大明神毛利秀元→豊功大明神
天海(193)「関ケ原が敗れたとなれば全国に散在する西軍の諸将は必ずや大坂に向ってあつまってくるにちがひないと彼は次の合戦に大きな期待と希望をつないで、大坂にやってきたのである。しかし来てみると、今こそ戦備に汲々としていなければならない筈の大坂城は森閑となりをしずめている。へんだとは思ったが、天満橋に手兵を集結させ、すぐ城内へ使者を立てて、『立花宗茂、大津を引払ひ急ぎ駆け付け申した。-関ケ原にて軍功を樹てる機会を逃したことはまことに遺憾至極であるが、大坂籠城には是非共一
天海(189)【関ケ原夢の跡】東軍諸将は伊吹山方面に向かって敗走した宇喜多勢や石田勢の追撃に夢中になっていたようで、東に向かって突き進む島津隊に追いすがったのは、井伊・、松平・筒井隊ぐらいであった。追撃した井伊直政は島津の家臣・柏木源藤の鉄砲に撃たれ、落馬した。弾丸は右脇腹に命中したが、鎧によって跳弾し、右腕を負傷したという。(「井伊慶長記」)一旦は東に向かった島津隊であったが、正面に家康本陣が見えたので、慌てて南下したのである。やがて徳川軍に追いつか
天海(157)「卿(毛利輝元)は去年閏三月に家康と兄弟の契約を結ばれて以来親交の間柄にあり、且つ景勝が五年寄の申合に背いて在国したまま、大坂城出仕を肯ぜざるは秀頼を疎略にするものなりとて家康援助に決せられた。そこで広家卿を主将、恵瓊を副将として毛利軍を会津征伐に参加せしめることとし、(一斎留書)。十四日に在坂中の恵瓊に、「今度の関東下向は大儀・辛労、なかなか言語に及ばざる所である。これも皆毛利家の為を思はれるが故で感じ入った次第である。めでたく帰陣せられを待つ」と申遺り、銀
遊びをせんとや古田織部断簡記Amazon(アマゾン)大坂夏の陣から1か月、切腹を命じられた古田織部。なぜ織部は死んだのか?その真相に毛利の分家・毛利秀元が挑む。戦がなくなった徳川幕府のもとで、毛利秀元の「支藩からの独立」、「古田織部の死の真相」、および武人同士の関わり方、幕府との関わり方、人の心の機微を描いた作品です。秀吉の時代に毛利本家の養嗣子となった秀元は、慶長の役で右軍の総大将として毛利家当主への道を邁進。ところが毛利輝元に嫡男が生まれたことで、秀元は潔く身を引
※こちらの記事は、令和3年9月8日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第49弾として、「安濃津(あのつ)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】江古田原沼袋合戦権現山の戦い第一次国府台の合戦川越城の合戦志賀城の合戦郡山城の合戦厳島の合戦四万十川の合戦今山の合戦耳川の合戦金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦叡山焼き討
天海(90)明軍は何とか慶州まで遁れたが、日本軍のさらなる追撃を恐れて漢城まで逃走した。飢えと恐怖で敗走した明軍は途中で暴徒と化し、行く先々で暴虐を尽くした。後に揚鎬は万暦帝に対して「蔚山城の加藤清正に壊滅的な打撃を与えたが、兵馬が疲労し、日本軍の援軍も水陸から上陸してきたので撤退した。」との戦勝報告を行った。この報告を受けて万暦帝は「国威、大いに彰わした。」と賞賛したのである。ところが、軍内部から「戦死者が二万に及ぶ。」との報告が上がって来た。明軍の統括・邢玠の部下で
毛利元就の四男の末裔7年前の日記を再掲します。山口県下関市には萩藩の支藩としての長府藩がありました。藩祖の毛利秀元は智勇そろった戦国武将です。伯父にあたる小早川隆景に似たところがあります。三原訪問を機に思い出したので再掲する次第です。少し余談ですが…「三矢の訓え」が有名なので元就の息子は3人だけと思われがちですが実は沢山いました^^(…詳細略)。長府藩藩祖の秀元は元就の四男・穂井田元清の次男として生まれています。毛利邸長府藩の最後の藩主・毛利元敏によって建てられ明治
天海(89)既に12月27日、毛利勝信(吉成)ら先行隊が太和江の南岸に現れていた。29日には毛利秀元、黒田長政の兵船が太和江の上流に向かって航行しているのを幸長が発見している。年が明けて1月1日、長政、秀元ら1万3千人が蔚山城近くに現れ、さらに長曾我部水軍が太和江北岸に上陸した。明軍はこれを妨害するため別動隊を派遣したが、上陸を阻止できなかったのである。「其夜天兵,且欲攻城,造大炬,四圍而進。始自子夜,天明乃罷,而賊丸如雨,死傷甚衆,無一人抵城者。」
天海(87)秀吉は西生浦城の在番将を清正から黒田長政に変更するように命じた。そして清正には新たに蔚山城の築城を命じたのである。蔚山城は、日本式城郭群の最東端に位置し、清正自らが縄張りをした。慶長2年(1597年)11月から毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の三軍を中心として築城を始めたのである。蔚山城は島山という50m程の小高い丘の上に城郭が築かれた。島山は蔚山湾の奥にあり、南には太和江が流れ、海に繋がっていたのである。清正は城下まで船を着岸できるようにした。「蔚山之
天海(82)左軍の秀家が南原城を落としたころ、右軍の毛利秀元も黄石山城を攻略した。両城陥落後、左軍、右軍は全州に集結して、今後の方針について協議したのである。その結果、清正や長政らの軍勢は、忠清道侵攻後、慶尚道に戻ること、秀家や義弘の軍勢は、忠清道侵攻後、全羅道の経略にあたること、船手衆は全羅道沿岸を制圧すること、などが決められた。その取り決めに従って高虎ら船手衆は、全羅道の南岸を海路西へ進むことになった。一方、朝鮮水軍は水軍統制使に復帰した李舜臣が、碧波津で反攻の
天海(81)「倭兵は南原府を陥れた。天将楊元走り還った、全羅兵使李福男、南原府使任鉉以下諸将皆戦死した。楊總兵は南京に到り、城を増築し、城外の軍馬墻には多くの炮穴を穿ち、城門には大炮三門を据え、深く塹壕を掘り、防備を厳にしたが、閑山既に敗れて賊水陸より殺到するの報道が頻々として来てるので城中の人民は逃散って、獨り總兵の率ゆる馬軍三千だけが城内にいた。」(「懲毖録」)この頃、日本軍陸上部隊は慶尚道から全羅道制圧を目指し、両道の要衝にある南原城、黄石山城を攻略しようとし
天海(54)【秀次切腹】沈惟敬は宋応昌と共謀して、部下を勅使に偽装し、日本に派遣することにした。一方、行長は、この勅使は「侘び言」を伝える者だと秀吉に報告したのである。5月1日、秀吉はこの戦役で失態のあった大友義統・島津忠辰・波多親を改易処分にした。5月8日、行長は三奉行とともに勅使を連れて日本へ出発した。そして、5月15日には、名護屋城で秀吉と会見したのである。明が降伏したと聞いていた秀吉は、上機嫌で次の7つの条件を提示した。①明の皇女