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一旦ホテルに戻って足をモミモミ。だって朝からすでに20000歩は歩いてる(笑)ですがもったいないのでお外に出る!頑張るせっかく来たんだ!!広島城っ気をつけて!18時までだから!夜は入れない!小さめの可愛いお城です近くで見るとオモチャみたい(笑)まぁ作り直してるからね。中身は全部資料館になってる。急激な階段で5階分ぐらいあがらないと下の景色はみれないです(笑)手すりもあるし、空いてたし、あまりの虚弱体質じゃなきゃ問題ないよー日本刀が鎖に繋がってて、持ち上げられたりし
泉邸裏の京橋川川上には常葉橋広島藩主浅野家の庭園だった泉邸(縮景園)は、戦時中、近隣の住民の第一避難先に指定されていた。第二避難先は京橋川を挟んで対岸の饒津(にぎつ)公園で第三避難先が安佐郡祇園町(現広島市安佐南区)。泉邸に逃げた人たちは爆心地から1kmぐらいの近距離で被爆した人たちだから重傷者が多く、そうしたもう動けない人たちで園内はあふれかえった。桑原房枝さんは泉邸のすぐ南の幟町(のぼりちょう)に暮らしていた。原爆の爆風に吹き飛ばされて意識不明となった夫を、助けを借りてなんとか泉
戸田五郎先生の手記『ピカドン』によれば、8月5日の日曜日は自分の子どもを連れて泳ぎに行っているので、2年生の生徒に6日は自宅修練、要するに休みだと告げたのは4日の夕刻ということになる。生徒に告げる時にも戸田先生はしばらく悩んだのだが、生徒は無邪気に喜んだ。それにしても戸田先生の『ピカドン』には、先生が手にしたビラに「8月6日」と書いてあったとは記されていない。「巷の噂」も耳にしたというから、6日が危ないと知ったのはそれだろうか。私の父も、下級生が「6日にはB29が広島へ空襲に行くゆうてビラ
京橋川と被爆柳8月6日、広島の川におびただしい数の遺体が浮んだ。中国軍管区司令部の半地下壕から脱出した比治山高女3年生の宮田房枝さんも川に呑まれて命を落としている。泉邸裏の土手では火に追われて多くの人が川に飛びこんだが、泳ぎができない房枝さんは手桶のような物を抱えて川に入った。けれど激しくなっていた川の流れが宮田さんを押し流してしまった。気のあせる人達は泳いで渡り始めたが、急流におしやられ、向こうの川原に辿りつける人はわずかしかいない。その時だった。小さな木片につかまって浮きつ沈
中国新聞の記者大佐古一郎さんもそのころ泉邸の惨状を目撃している。大佐古さんは広島市の東隣にある府中町の借家で原爆の閃光と衝撃を感じた。西北の空に真赤な雲がもくもくと湧き上がっているのを見て広島市に大変なことが起きているのを察し、すぐに家を飛び出した。当時、中国新聞の本社は胡町にあった。今は広島三越がある場所だ。そこまで行こうとするのだが、すでに広島駅前も火の海で、熱気と煙が容赦なく襲いかかってくる。その中を無理やり走って行くと栄橋が見えた。対岸は泉邸。川の水が巻き上げられていた。旋風が吹き
私の父精舎法雄は被爆当時崇徳中学4年生。楠木町の学校と同じ敷地内にあった寄宿舎で生活していた。3年生になってからは南観音町(現広島市西区観音新町)の三菱重工広島機械製作所に動員され、授業の全くない名ばかりの中学生となった。1945年8月6日月曜日。土曜日までは小網町一帯で建物疎開作業にあたっていたが、予定より早く終ったので日曜は休みとなり、月曜からまた工場に出ることになった。作業が延びていたら、父も6日におそらく死んでいた。8月5日午後9時27分に空襲警報発令、11時55分解除。日付
当時中学を卒業したばかりで広島市近郊の国民学校の教員をしていた宮田哲男さんは、救護所となった学校で負傷者の世話にかかりっきりとなり、自宅に戻ったのは8月8日、その次は13日だった。13日に戻った時、比治山の陰で焼失だけは免れたものの半壊となった自宅には、ひどい火傷の父親が横たわっていた。そして仏壇には白布に包まれた小さな壺が置かれていた。妹の房枝さんの骨壺だった。原爆が落ちてから、昨日は5人今日は10人と死んでいくのを、哲男さんは気が抜けたように見つめていた。それが妹のいない部屋で妹の
原爆の爆風で崩れた建物の下敷きになって、比治山高女では一人の生徒が命を奪われた。秦先生は助かった生徒から話を聞いている。朝礼がすんで、今日からいよいよ特別の仕事をして貰うからと二階の別の部屋へ引率されました。私は柱の前に、木村さんは私の隣にいました。説明をきき初めたとたんにあの爆弾です。まっ暗な下に落ちましたが木や道具にはさまって身動きも出来ません。「学徒を出せ…」「一番に学徒を」きき慣れた上官の声がきこえます。私も兵隊さんに出して貰いましたが並んでいた木村さんはいませんでした。(秦政
第二総軍司令部の人員は約400人といわれる。その中には女学生も60人ばかり含まれていた。第二総軍(畑司令官)の暗号班に動員された女学校四年生菊組二十名が藤の茶屋に集まる。私はその引率教官であった。我等のオアシス藤の下で隊伍をととのえ、もんぺ姿も凛々しく歩調をとっていつもの様にぎっしり並んだ兵士の右端に一列で朝礼の位置についた。それは又最後の朝礼でもあった。(秦政子「第二総軍に動員された学徒」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った級友の25回忌によせてー』)当時本庁舎2階
戦後は反戦平和に命をささげた詩人峠三吉だが、終戦の報を聞いたときは呆然自失、「唯情け無く口惜しき思ひに堪へず」と日記に書いている。そしてこれまで、たとえ病弱の身ではあっても「徴用のがれの卑俗な思想」に流されてきたことを深く懺悔し、そして思うのだった。…思へば国民は闇買ひに専念し企業家は利己的な利潤を第一に考へる事を最後迄やめず僅かに眞剣であったのは将兵と若き学徒と素質の良い挺身隊位のものであった…(峠三吉「メモ覚書感想」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)「若
1945年8月6日朝5時。楠木町にあった崇徳中学寄宿舎の起床時間である。6日は午前0時25分に空襲警報が発令され、解除されたのが午前2時10分。ほとんど寝る時間もなかったが、いつものように起床して、いつものように私の父は勤労動員に出る準備をした。その時、思い出したことがあったと体験記に書いている。靴を履きゲートルを巻く。靴と言っても穴のあいたボロの地下足袋であったが、その時ふと思い出したのが、昨夜祇園の工場へ出勤している3年生の1人が言った「6日にはB29が広島へ空襲に行くゆうてビラを撒い
広島城址地下壕の窓(2016.8.6撮影現在立ち入り禁止)中国軍管区司令部の地下壕に動員された比治山高女3年生は約90人。8月5日夜から6日朝まで地下壕に詰めていたのは荒木克子さんら第二班の約30人で、荒木さん、岡ヨシエさん、恵美敏枝さん以外の生徒20数名は入り口から入ってすぐの情報室で作業をしていた。八時十五分、その壕の開かれた小さな窓一杯に突然、ピカッと閃光が光った途端、室内の電気は消え、ものすごい風圧に目の前の情報機の倒れる音、誰かのかん高い悲鳴、一瞬茫然と立ちすくんでいた私は
広島城址の地下壕(2016.8.6撮影)広島市は広島城に観光客をもっと呼び込もうと現在模索中のようだが、広島城本丸跡にも原爆の遺跡はある。広島城本丸跡にあった中国軍管区司令部や周辺の軍事施設は原爆で一瞬にして破壊され灰燼に帰したが、本丸南側の石垣に沿ってつくられた地下壕は残った。この地下壕は当時「250キロ爆弾が直接命中しても大丈夫」といわれていたようである。(斎藤美知子「被爆体験について」広島原爆死没者追悼平和祈念館)地下壕内は、奥から、作戦室、指揮連絡室、無線通信室、情報室に分か
江波山にあった広島地方気象台の観測によると、原爆の炸裂15分後ぐらいから市内各所に火の手が上がり、9時ごろには市内中心部は黒煙に覆われた。(『広島原爆戦災誌』)木造2階建ての立派な校舎が建ち並んでいた陸軍幼年学校もすぐに炎に包まれたようである。幼年学校の東隣には逓信病院があったが、院長蜂谷道彦は次のように証言している。渦をまいてまた風が一変した。烈火の勢いで燃えていた隣の陸軍幼年学校の校舎の焔がどっと我々の上へ流れ込んだ。「きゃっ、熱い……」という声がきこえて、私の周囲の者が蜘蛛の
古地図と比較してみると、広島城は近代になって随分と狭くなった。八丁堀という地名がある。城の東側に南北に延びる長い外堀があったのでその名がついたようだ(一丁は約109mで距離はだいたいあっている)。その堀が西に折れる所が今の八丁堀西交差点に当たり、ここから相生橋までの電車通りは白島線(戦後一つ東側の道路に移った)とともに1912年の市内電車開通に合わせて外堀を埋め立ててできたのである。中堀は戦後までわずかに残っていたが、原爆でできたガレキですべて埋め立てられたといわれ、テニスコートと広島市民
広島城本丸跡の被爆したクロガネモチの木1945年7月25日、アメリカ軍が広島上空から撮影した写真には広島城本丸北側から堀をまたいで架かる細い橋が確かに写っている。そして同じく8月8日に撮影した写真では橋が原爆の爆風に耐えて残っていることが確かめられる。(『地図中心2005被爆60年増刊号』日本地図センター)比治山高女3年の倉田さんや恵美さんたちは、この橋のおかげで助かった。ただ、考え直してみれば、橋の真上の絶壁の石垣を滑り降りるのではなく、近くにもっと傾斜のなだらかな石垣があったかも
今年の8月6日、某高校放送部の生徒と一緒にヒロシマを歩いた。朝、映像文化ライブラリーで生徒たちと是枝裕和監督の『いしぶみ』を観てから、『夕凪の街桜の国』の舞台ともなった基町の河川敷を歩いた。そばには被爆クスノキがある。NHKのドラマではヤナギがかつての我が家がどこにあったかの目印となるのだが、それはフィクションである。実際にあるクスノキを使ってもよかったのにと思ったりもする。基町アパートの片隅にあるクスノキには今も深い傷跡が残っている。次に向かったのが広島城だ。今年の暑さにもめげな