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寺社No.6400御朱印No.6774比賣許曽神社(ひめこそ神社)大阪府大阪市東成区下照比売めぐり2024年1月8日【許曽】「許曽」とは珍しい呼び名です。その語源は、朝鮮半島の古代国家新羅の言葉からきたようです。「許曽」は新羅で祭祀や神社の森を意味します。新羅神話によると、神社の起源は、新羅の初代王赫居世を祀る祖神廟からおこったと伝えています。赫が名で、居世はその治世をさす尊称ですが、この居世がなまって「許曽」となったといわれています。「許曽」名をもつ神社は、全国に百数十社を数え
12月14日、鵲森宮、玉造稲荷神社に参拝したあと、鶴橋方面へ移動。比売許曽神社に参拝しました。先日、高津宮の境内にある比売許曽神社に参拝したので気になってました。主祭神下照比売命末社の大國主大神にお祈りしていたら、後からきた男性もお祈りにこられ、おぉ〜と思いました。本殿には参拝しても、小さなお社はスルーする方が多いのですが、丁寧に参拝されている姿を見ると目を引きますね。男性が後ろで待ってるから早く祈り終えないと…と思って振り向いたら誰もいなかった…というパターンも何度かありました
ご訪問くださり、ありがとうございます。とっても嬉しいです。わが家のカレンダー11月の天照比売さまにお参りしたくて、11月11日(土)同神さまといわれている下照姫命(高比売神)さまが祀られている売布神社めふじんじゃ(兵庫県宝塚市売布山手町1-1)へ行きました。「延喜式」に記載されている神社で、推古天皇18年(610年)の創建と伝えられています。衣・食・財の守護神で、縁結びの神様。下照姫神が当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを見て、稲を植え、麻を紡ぎ、布を織ることを教え、そ
(旧)文月三十日ヒメコソの社にぱちぱち跳ねている夏を諭して秋の筋雲雲端昨日紹介した神輿蔵の横。本殿の裏と言ってもいい場所に下照姫を祀る比売許曽(ひめこそ)社はある。かつて高津宮は現在の大阪城の辺りにあった。それが、豊臣秀吉の大坂城築城にあたって現在の場所に遷座させられた。それまでこの場所は下照姫を祀る比売許曽神社だったという。。。
明月館に行った日に参拝しました。産湯稲荷神社小橋公園の北側、見落としてしまいそうな神社。こちら、比売許曽神社跡地になります。元は境外摂社比売許曽神社の摂社だったそうです。現在は、境外摂社。織田信長による石山本願寺攻めで焼失した比売許曽神社の現在の鎮座地は、1キロ弱東にあります。「桃山跡」というのは、昔は桃の名所だったからなんやって。お手水ご祭神宇迦之御魂神(稲荷神)下照比売命(多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神の妹)大小橋命(中臣氏系の
上の記事の続きです。6月18日新月🌚中道八阪神社に呼ばれた後、比売許曽神社に参拝しました。比売許曽神社は、高津宮の摂社にもあります。↓『『かまど』のサインから新たなミッション☆高津宮に呼ばれる。②』上の記事の続きです。先日、マヤ暦の『青い嵐』(ワタシの太陽の紋章)からかまどの神様に繋がり、宝塚の清荒神に呼ばれたのですが、『かまど』のサインはそれで終…ameblo.jp高津宮にご縁がある方は、比売許曽神社にも参拝してみてくださいね。御祭神下照比売命速素盞嗚命・味耜高
前回の桓武天皇の諱と山部について|久米の子の部屋(ameblo.jp)を書くために、大阪における久米(来目)の活動の跡を探しているとき、「愛来目山(あくめやま)」と「久米路山」を見つけました。比売許曽神社-Wikipediaの「歴史」には、垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営された。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されている。当社の
上の記事の続きです。4月27日東高津宮(元高津)に参拝した際、ドッカ〜ン!!と予定外に導かれた場所がありました。目の前に現れたのは、産湯稲荷神社…やたら『稲荷』のサインがきていたのですが、こちらも稲荷神社でした。⛩️予定外の神社に辿り着くのは偶然ではなく、神様に呼ばれてる時のパターンです。『神様に呼ばれる』ことを意識していない人は、スルーしてしまうレベルで巧妙に誘導されています。『神様に呼ばれた時のサインと意味✩ライトワーカーについて。』ヒーラーのAkaneさんが、最近神様
世界最大のお墓はエジプトのピラミッドではなく日本にある仁徳天皇陵♪↑僕が小学校の頃はこういう風に習いましたが…いつの間にか大仙古墳と名称が変えられて被葬者は誰かわからないとかで世界遺産に登録されちゃいました(泣)これは…秦の始皇帝のお墓が世界ナンバーワンとしたい中国の陰謀で…中国4千年の新しい国がどんどん古い国を滅亡させつづけてきて成り立った歴史の中で…遥か昔に滅亡した国である秦なので秦の始皇帝のお墓も何処にあるか全然わからなかったの
12月11日、マヤ暦の青い嵐から『かまど』のメッセージが続き、高津宮に呼ばれました。↓上の記事で、高津宮の境内にある比売古曽神社(ひめこそじんじゃ)を紹介しながら、気になると書きました。↓比売許曽神社は鶴橋にもあり、昨年呼ばれた神社なので特に気になる神社でした。地図で見るとこちらです。↓記事を書いた翌日、燈さんが娘さんに誘導されて鶴橋の比売許曽神社に参拝してきたという記事があがってきました。燈さんの記事です。↓『2022.6.13大阪天満宮と比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)』おひさ
おひさしぶりです…ブログにログイン出来ずにいました年内に行かせていただいた神社やお寺を全部書けるよう年内毎日更新目指しますお休みをしていたにもかかわらず、いいねをくださったり、フォローしてくださったりした皆様ありがとうございましたゆっくりブログを見直しさせていただき訪問させていただきますさて6月。この頃は熱心にYouTubeのホツマツタヱの動画を拝見していました。その中で『比売許曽神社』さんが氣になりました。そんなときに長女が比売許曽神社さんの近
大阪最終日の昼は、長年通っている鶴橋「二両半」ヘ。2001年布施勤務になって初訪問以来の大ファンです✌️開店前に一番乗りで待ちました😃まずは瓶ビール🍺醤油、並、豚バラ、麺硬め、ネギ超多めで注文したら、本当にネギ超多めでした😆旨味のある出汁が、麺によく絡みます。チャーシューを、豚バラに代えられます😀お土産に、チャーシューを持ち帰りました✌️二両半の近くに、比売許曽神社というとても古い神社があり、パワーを感じます。甲本ヒロトさんの素敵な言葉がありました。「幸せを手に入れるん
こんにちは、ロイヤル麦茶です。昨晩、花粉症の症状を抑える薬を飲み忘れたので、今朝起きたら鼻水と鼻づまりで大変でした。スギ花粉のピークは過ぎているそうですが、まだまだ油断できないですね…。それではお参りした神社を紹介します。今回紹介するのは大阪府大阪市東成区東小橋の比売許曽神社です。JR、大阪メトロ、近鉄の鶴橋駅の東側、コリアンタウンの北側に鎮座しております。御祭神は下照比賣命、速素盞嗚命、味鉏高彦根命、大小橋命、大鷦鷯命、橘豊日命。垂仁天皇(紀元前29年~70年)の御代に愛来目山(末
比売許曽神社ひめこそじんじゃ大阪府大阪市東成区東小橋3-8-14最寄り駅近鉄大阪線・奈良線鶴橋駅最寄り駅JR大阪環状線鶴橋駅◆御祭神◆下照姫命速素戔嗚尊味耜高彦根命大小橋命大鷦鷯命橘豊日命◆東側鳥居◆◆正面鳥居◆玉津3交差点近くに鎮座します◆正面鳥居そばの狛犬◆建立年代不詳蔵の陰にかくれるような吽形浪速狛犬◆手水舎◆◆社務所◆◆大國主大神◆◆拝殿前の狛犬◆昭和18年(1943年)
お参り行ってるのをブログにする人は。雨降りに出掛けない。行ってたら、雨降りにあっても今回は、そんな話では、ございません!お仲間さんらと月イチ韓流のDVD買いに行く親。行った火曜が定休日。買えなかった、また行こと思ったか?思い付きも、思い付き、ナイショでと。(勝手に行ったら揉めるんかな?)コリアタウンへ行った、土曜の話晩飯ない言われても困る年では、ないし。料理も、作れる。用あったんで(それ無くなったけど)だから、行く気は無かった。何度も
(旧)睦月十八日こけたなら立てばいいんだ痛みさえ覚えておけばと師は宣いぬ雲端比売許曾社の拝殿の扉に「こけたら、立ちなはれ」という松下幸之助氏の言葉が貼られていた。松下電器産業、現、Panasonicの創業者である。
(旧)睦月十七日不可思議な物語持つ比売許曾社に小さな小さな春を見ている雲端鶴橋駅の東、徒歩5分の場所に、、、比売許曾神社というのがある。「ひめこそじんじゃ」と読む。今は小さな神社だが、元は名神大社だった。いわば、古くから大事にされてきた社ということだ。祭神は、出雲のオオクニヌシと宗方三女神のひとつタギリヒメの子でシタテルヒメとなっている。。。。が、、、実は古事記には、朝鮮半島の新羅から夫の横暴に耐えかねて逃げて来た「アカルヒメ」を比
やっと行けました…比売許曽神社♪僕が比売許曽神社に興味を持ったのはこの地図…鵲森宮にあった平安時代後期の地図…この同じ地図は…北御堂ミュージアムにも展示されていました♪この地図の中央小さい方の島…拡大します♪↓仁徳天皇大宮跡の横…延喜式比売許曽社♪↑かなりの大きさで記載があります♪…これは気になりますよね♪…おそらく…仁徳天皇の時代はこの島全体が大宮だったと推測しますので…比売許曽神社は仁徳天皇にも縁が深い神
上の記事の続きです。8月12日東成区の比売許曽神社に呼ばれ、参拝してきました。カノアさんの記事で見た稚日女尊、Sakiさんがコメントで書かれた玉津島神社というキーワードから、今回のミッションに氣付きました。カノアさんの記事です。↓『ワカヒメヒルコ』先ほどこの記事を書きましたそして下記のブログのYouTubeにたどり着きました丹生都比売神(にうつひめ)は別名わか姫わか姫、丹生都比売神、下照姫命など上記の神…ameblo.jp高次元存在は、あらゆる手を使って、ワタシにメッセージを見せ
6月18日(木)壬辰二黒前回、大分県東国東郡姫島村の比売語曽神社を紹介しました。阿加流比賣神について見てきましたが、「古事記」にはこは難波の比賣碁曾の社に坐す阿加流比賣神と謂ふ。とあります。今回は、大阪市東成区にある比売許曽神社を見ていきます。主祭神下照比売命相殿神速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命この神社は、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であったといいます。(ウィキペディア)牛頭天王は素戔嗚尊と御同神とされ
6月17日(水)辛卯一白平田篤胤著「大扶桑圀考」黒歯圀ハ其ノ北ニ在リ。人爲リ黒歯。稲ヲ食ヒ蛇ヲ啖フ。一ハ赤一ハ靑。其ノ旁ニ在リ。下ニ湯谷有リ。十日ノ浴スル所ナリ。湯谷ノ上ニ扶桑有リ。黒歯ノ北ニ在リ。平田先生は、黒歯圀に當る一渚を索むるに、豐後の圀埼の東郡、伊波比洋の西南に、今現に姫島と稱する島あり。黒歯之圀は疑なく是なり。と書いておられます。応神天皇記、垂仁天皇紀、摂津国風土記逸文に阿加流比賣神の話があります。阿加流比賣神が逃げて来た場所に関して、古事記に
【比売許曽神社】(ひめこそじんじゃ)大阪市東成区主祭神は、下照比売命。創建垂仁天皇2年。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡比売許曽神社」の論社の一社である(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。『記紀』によれば祭神の由来については、新羅の王子天日槍(あめのひほこ)(又は大加羅国の王子、都怒我
鶴橋にある比売許曽(ヒメコソ)神社です。神社の紋がかわいい産土様を探せ!https://ameblo.jp/rainbow-tower/entry-12565728971.htmlで書いたように、産土(うぶすな)神社を勘違いしていたアニマル☆ママ初めて産土神社に行って来ました!詳しく神社の方に(ここが産土様であってるか)お話を聞いたところ間違いないそうで、30年くらい前に色々あって玉造元町の氏子さん達は引っ越して行ってしまったそうです。(いやも~その時はと
四天王寺後に行ったのが鶴橋駅から徒歩5分くらいの距離にある比売許曽神社2回目のお参りご縁に感謝してお参りさせていただきました最近は神社仏閣ブームそれは私的には悪くないと思ってますとても良いことだと手を合わせる事は自分を見つめることにもなるからただ、マナーだけは守って欲しいゴミを捨てない参拝する時は帽子などを脱ぐ見るだけではなくせっかくご縁があってきたのだから手を合わせてほしいなんて参拝してたら思う時があります子供達にも言い聞かせてます気持ちのいい参拝をして
2019年8月8日(木)に、近鉄特急に乗る前に、鶴橋駅の近くにある、比売許曽神社に行きました。比売許曽神社の鳥居です。拝殿です。境内社の大国主大神です。百度石の石碑です。比売許曽神社で、自撮りをしました。神社略記の説明板です。比売許曽神社の東側の鳥居です。胞衣塚です。胞衣塚の説明板です。日露戦役記念碑です。その後、鶴橋駅から近鉄特急で大和八木駅まで乗りました。続きはこちら
すっかり忘れて神社巡りや登山の投稿ばかりしてました。2月6日は3カ月ぶりの受診日でした。結果は肝臓の数値は高めですがISは検出できないレベルで、安定している事に感謝です。帰りに比売許曽神社で御朱印いただきました。
「記紀」から天之日矛、都怒阿羅斯等のお話を紹介してきましたが、二つのお話は同じ話と言ってもいいと思います。古事記では、赤玉から化した美麗しき嬢子が、難波に留まり、比賣碁曾の社坐す阿加流比賣神となりました。一方日本書紀では、白き石から化した美麗き童女が難波に詣りて、比売語曾社の神と為る。且は豊国の国前郡に至りて、復比売語曾社の神と為りぬ。とありました。私は、ここから天日矛と都怒阿羅斯等は御同神。古事記の阿加流比賣神と日本書紀の美麗き童女は御同神。と考えます。豊国
先日の阿加流比賣というブログを書きました。その際、多遲麻毛理。のところで終らしたのですが、天之日矛の件は大変重要な事が隠されているようなので、全文を追記しました。追記したお話は、以下の通りです。次に多遲摩比多訶。次に淸日子。この淸日子、當摩の咩斐を娶して、生める子、酢鹿の諸男。次に妹菅竈由良度美。故、上に云へる多遲摩比多訶、その姓、由良度美を娶して、生める子、葛城の高額比賣命。こは息長帯比賣命の御祖なり。故、その天之日矛の持ち渡り來し物は、玉津寶と云ひて、珠二貫。また波振る領巾
「古事記」天之日矛また昔、新羅の國主の子ありき。名は天之日矛と謂ひき。この人參渡り來つ。參渡り來つる所以は、新羅國に一つの沼あり。名は阿具沼と謂ひき。この沼の邊に、一賤しき女晝寝しき。ここに日虹の如く耀きて、その陰上に指ししを、また一賤しき夫、その状を異しと思ひて、恒にその女人の行を伺ひき。故、この女人、その晝寝せし時より妊身みて、赤玉を生みき。ここにその伺へる賤しき夫、その玉を乞ひ取りて、恒に裹みて腰に著けき。この人田を山谷の間に營りき。故、耕人等の飲食を一
「海を渡った白山信仰」前田速夫著に天日矛の話に似たお話が「三国遺事」から紹介されています。私は、このお話は、私が帰依する市杵島姫命と饒速日大神のお話ではないかと思っていますので、今日は、この本から「三国遺事」に載るお話の要約のようですが、紹介します。新羅の第八代阿達羅王四年、東海(日本海)のほとりに、延烏郎(ヨノラン)と細烏女(ロオニョ)という夫婦が住んでいた。ある日、延烏郎が海で藻を採っていると、いきなり一つの岩が動いて、波を乗せて日本へ運んでしまった。日本では延烏郎をただ