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14日(日)午後、3週連続となる鎌倉に行ってきました。今回の目的は満開の八重桜(または里桜)を見て回ることです✨午後4時43分住所は大町1丁目日蓮宗のお寺、妙本寺です✨扇ガ谷にある海蔵寺とここ妙本寺は、四季折々楽しめるので、時間さえあればお参りしています当日は八重桜がどこも見頃になっていましたその中でも妙本寺の八重桜は見応えがあります✨(八重桜ではなく、里桜になるかもしれません)比企能員一族も安らかな気持ちになっているかな来季も楽しみにしてますつづく
おはようございます、kikoです本覚寺を出たら地図をチェックすぐ近くに妙本寺があるのでそちらに向かいます妙本寺題目寺号標妙本寺妙本寺は北条氏に滅ぼされた比企一族の菩提寺です大河ドラマ鎌倉殿の13人では比企能員役の佐藤二郎さんの怪演が話題でしたね市指定天然記念物イチョウ一株さて、次は報国寺に向かって歩きましょう
24.02.15B#鎌倉「#妙本寺」#梅の花が咲く頃_#鎌倉市大町/#2024梅#比企能員邸跡#比企一族#鎌倉殿の13人https://mitch1.blog.ss-blog.jp/2024-02-17-1
こんにちは鎌倉店です!今日は、鎌倉駅から歩いて7、8分のところにある妙本寺をご紹介します「鎌倉殿の13人」の御家人の1人比企能員の出身である比企一族のお墓があり日蓮宗最古のお寺です開基は比企能員の末子で自身の屋敷を日蓮上人に献上しましたこの辺りは、比企一族が住んでいたことに因み「比企が谷」と呼ばれています手水舎には、干支の龍がいました🐉また、二天門にも、横たわった龍の彫刻とこちらを向いた厳しい表情の対の獅子がいますまるで森の中
比企能員の変で焼失した比企能員邸の跡に建てられた、鎌倉の妙本寺。祖師堂から方丈門まで戻り、脇道の奥へ。↓階段を昇ると、そこには蛇苦止堂が。↓比企能員の変で頼家の嫡男・一幡と共に討たれた(或いは自害した)比企能員の娘・讃岐局(若狭局)が、後々、北条一族の女性に祟りを為したらしく、その祟りを鎮めようと讃岐局を祀ったのだとか。こちらは蛇苦止堂の隣の池。↓こちら、池の隣の蛇苦止之井戸。↓比企能員の変の時、讃岐局(若狭局)が逃げ切れないと観念し、この井戸に家宝を抱えて身を投げた…
鎌倉幕府初期の有力御家人・比企能員邸跡に建つ妙本寺。祖師堂前には、比企一族の墓。↓比企一族の墓に向かって右手の苔生した階段を昇ると、そこには、比企能員の娘で鎌倉幕府二代将軍・源頼家の側室となった讃岐局(若狭局)の墓が。↓(右側)比企能員の変の折、自身が生んだ頼家の嫡男と共に討たれたという。「讃岐局蛇苦止霊之墓」と刻んである。↓讃岐局の墓から見下ろす位置、手水舎の裏手辺りには、「一幡之袖塚」。↓「源頼家嫡男一幡君之墓」と刻んである。↓比企能員の変で焼失した比企氏邸跡から
12月4日(月)、岩殿観音(いわどのかんのん)〔埼玉県東松山市大字岩殿〕の大銀杏の黄葉を見に行って来ました。バス通りにある地下道を潜ると、いきなり境内です。表参道は、別にありますが、交通が便利なので専らこちら裏参道を利用しています。岩殿観音の正式名称は、真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)巌殿山正法寺(いわどのさんしょうぼうじ)です。本尊は、阿弥陀如来〔本堂〕、千手観音〔観音堂〕です。開創は養老2年(718)。鎌倉時代初期に、源頼朝の命で比企能員(ひき
鎌倉・蛭子神社のすぐ南側、妙本寺門前。ここは、鎌倉幕府初期の有力御家人・比企能員(ひきよしかず)の屋敷跡。“比企能員の変”で滅亡した比企氏だが、その時、京へ仏道修行に行っていた末っ子“能本”が生き永らえて、屋敷跡に小さな御堂を建てたのが妙本寺(日蓮宗)の始まりだとか。総門の脇の石碑には、その経緯が刻んである。↓総門を潜って正面やや左の冠木門〜階段を昇ると…↓こちらが本堂。↓更にその先に進むと、二天門。↓二天門の向こう側に、巨大な祖師堂。↓水屋(手水舎)。↓境内図
千佳今回書きはじめたのは10月29日です。長戸28日の日本シリーズ、5回の明暗はあまりにも大きかったな。豚白山本あそこは若月に任せてワンバウンドキャッチだろ。というわけで始めよう。千佳承久合戦、北陸道での戦いをみていました。長戸蒲原がどこか?ということだな。千佳蒲原が新潟市近郊だったら、早い段階で【忠臣の鑑】宮崎定範さんは東に軍を進めていたことになります。長戸ただ、【忠臣の鑑】定範はそこまでの勢力じゃないから疑問が残る、と。豚白だからもっと西の方という説もあれば、通
19(日)、午後から鎌倉に行ってきました午後3時13分永福寺跡から歩いて妙本寺に到着✨歩いたルートは金沢街道沿いから小町大路を南下して、約30分、観光客も殆ど見掛けず、地元民感覚でいられる、お気に入りのルートの1つでした✨当日、紅葉はまだまだでしたが、今週の土日の寒さで進んでいるでしょうかね(今週末は体調不良で外出を控えました。)祖師堂では新婚夫婦が記念撮影されていました。私はいつもと変わらず、比企能員一族のお墓に手を合わせて、次の目的地である材木座へ向かいましたつづく
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りはまだ続きます🏃🏃🏃既に何ヶ所巡った!?流石に朝から称名寺の山登りしてるし、へばって来ました😵鎌倉歴史交流館のある無量寺跡から今度は妙本寺へ移動します〜🏃🏃😂妙本寺の御題目碑妙本寺の総門縁起案内板比企能員館跡の碑総門扁額伽藍と見間違うほどしっくりくる、幼稚園園舎鎌倉殿の13人比企能員の幟旗妙本寺の境内案内図方丈門本堂が見えてきました本堂日蓮宗の寺院の妙本寺は、長興山妙本寺と号します創建は文応元年(1260年)開基は比企能本開山
実朝さん・政子さんのお墓参りを済ませましたので、激混みの鶴岡八幡宮を横目に次は比企さんに会いに行きます。ちなみに鶴岡八幡宮には一切寄りませんでした。理由は実朝さんがめちゃくちゃ嫌がっているからです。そりゃそうですよね。▲鶴岡八幡宮参道(振り返って一枚だけ)▲妙本寺比企さんの墓は妙本寺の中にあります。ちなみに右側に写っている建物は幼稚園なのですが、名前が「比企幼稚園」でした。▲比企一族の墓「比企能員の変」で一家謀殺された比企一族はこの地にまとめて葬られました。
2023.8.31北条政子の守り本尊この日は、埼玉県東松山市まで市役所に用事があり、ドライブがてら🚗長距離運転ライフワークのひとつ坂東三十三観音霊場久しぶりに参拝しました‼️東松山市にある坂東十番霊場岩殿観音電車で行くとめちゃめちゃ遠いですが、とってものどかな里山です◆仁王門◆運慶の作といわれていましたが、平成4年の解体修理の折、棟札が出て運慶作のものは江戸時代に焼失、現在の仁王像は文化年間(1808‐1814)に再建されたものと判明しました。長い
鎌倉にある妙本寺です。長興山妙本寺という日蓮宗の寺。この地は比企谷と呼ばれ、鎌倉幕府有力御家人・比企能員が邸を構えた場所。建仁3年(1203年)、北条時政が比企能員を自邸に呼び出して殺害、比企一族が北条氏によって攻め滅ぼされた比企能員の変が勃発。能員の妻妾と末子で2歳の能本は助命され和田義盛に預けられた後、安房国配流。成長した能本は都に上って順徳天皇に仕え、承久の乱で佐渡配流となった順徳上皇に同行。順徳上皇が佐渡で崩じると鎌倉へ戻り日蓮に帰依しました。文応元年(1260年)、北条
3日(日)、大町の妙本寺にお参りしてきました正直なところ、休憩場所として良く訪れています百日紅(サルスベリ)はまだ健在✨海蔵寺(扇ガ谷4丁目)と同じく、ノウゼンカズラが良く似合う日蓮宗のお寺です妙本寺は春の海棠(カイドウ)も有名なので、海蔵寺と合わせてお参りするといいと思います✨鎌倉殿の13人をきっかけに、今まで時間があればお参りしていましたが、訪れた前日が比企能員の命日だったようです。820年前になるんですねこちらは一幡之君袖塚こちらにもお花がお供えしてありました。今回の休憩
先週に続き、日曜日午後から鎌倉に行ってきました今回の目的は鎌倉の百日紅(サルスベリ)巡りです✨妙本寺の百日紅妙本寺(大町)は本覚寺(小町)の直ぐ近く✨同じ日蓮宗のお寺で、7日(月)は大法要が執り行われたようです。百日紅(一本)は総門を潜った先の方丈門にあります✨二天門入口からの祖師堂右側にはノウゼンカズラ漢字の「凌霄花」は読めないし、書けないし、覚えられない今季は例年よりも早く散ってしまいました。比企能員公一族之墓鎌倉殿の13人で佐藤二朗さん演じる比企能員が抹殺されてから、
6月某日久しぶりの鎌倉。太陽堂で朝ラーメンを堪能した後、鶴ヶ丘八幡宮近くの『山安』さんへ。ここ干物屋さんなんですけど、お値段がお安くて、美味しい干物が手に入るので鎌倉来るとだいたい立ち寄っております。妻が9時30分から開店していると言うので、足を運んでみるとまだ開店前。お店の前にちょうどベンチがあり、座って待つことに。せっかくだから、鎌倉の寺社仏閣などを観に行く?ついでに紫陽花でも観れたらよいねーとベンチで鎌倉散策計画を立て始める。紫陽花と言うと、明月院とかが一番に思
岩殿観音(正法寺)岩殿丘陵の東、標高135mの物見山中腹に建つ堂宇です養老2年、沙門逸海が崖を削り、岩窟に千手観音を納めたのが最初と伝わります表参道から石段を上り仁王門扁額さらに上ります鎌倉殿の十三人源頼朝は観音信仰に篤い人であり、坂東三十三観音霊場の制定にも深く関わっています。比企尼に恩を感じていた頼朝は、その甥である比企能員が深く帰依していた岩殿観音が第十番に選ばれることになりました坂東九番、十一番と三十
時代は下って1592年(文禄元年)、武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地に移して再興し、宗悟寺と改めて菩提寺としたそうです
初代鎌倉殿の源頼朝が他界し頼家が二代目になるも不安に感じた御家人や文官が何とかせねば……と思っていた頃を書きました🍚🥢重忠とちえは向かい合って箸を動かしているいつもならもっと弾む会話も滞りがち重忠が心ここにあらずという様子だった時折箸も止まり伏し目がちだった「重忠さまどうされました」「あ……すまない美味しいぞ…ちえこのアワビもよく手に入ったな」「今日姉上からいただいたのです干し鮑は頼家さまの大好物とのことなのですがあまりにも多いからと」「そうかありがたいなぁ
材木座の光明寺へ行った後美味しそうなカレーの香りが〜昔テレビでよく拝見してました!迫文代さんのカレー屋さんです『Copepe』11:30〜16:00店内は、世界中を巡っていた迫さんが集めたアフリカやパプアニューギニアなどの民芸品が沢山ありましたこのテーブルはアフリカのベットなんですって焼きチーズカレーサラダ付1,000円(税込)とても気さくな方カレーも美味しくて店内も素敵妙本寺へ行く前に鎌倉最古厄除開運の杜八雲神社へ永保年間(1081年〜1083年)に創建明治
鎌倉幕府(6)源実朝将軍となる・畠山重忠の乱(源実朝3代将軍となる)源実朝は建久3年(1192)8月、父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母は北条政子の次男として鎌倉で生まれた。幼名は千幡と建久10年(1199)頼朝が没すると兄の頼家が将軍となるが建仁3年(1203)9月、比企能員の乱後、頼家は将軍職を奪われて伊豆国修善寺に配流となった。(頼家の妻は能員の娘であり、比企一族を重用したので比企氏と頼家の母政子の北条氏と対立した)1203年9月母政子らは朝廷に頼家は亡くなったと虚偽の報告をして
(鎌倉幕府の成立(4)(第2代将軍源頼家)源頼家は寿永元年(1182)8月12日頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれた。父は頼朝、母は北条政子である。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子の比企能員が選ばれ、乳母には比企一族や有力御家人の妻が選ばれた。頼家の側近は頼朝が比企能員、梶原景時など有力御家人を指名した。建久4年(1193)5月から6月にかけて頼朝は多くの御家人を集めて富士の巻狩りを行ったが、この目的は狩を通じて将軍の権威を誇示すること
今日は残業、花粉で目と鼻がダメダメです。さて、本日のテーマは、武蔵/比企小川と武蔵/北多摩小川の丸一型日付印です。いずれも郡名入りの小川郵便局です。印影は郡名入りから郡名無しへ。〔比企郡の小川郵便局の沿革〕比企郡といえば、鎌倉殿の比企能員を思い出しますね。対する北多摩小川の郡名入りはなかなかお目にかかれません。のちに小平に改称されます。〔北多摩郡の小川郵便局の沿革〕丸一型日付印を集めるときのネックの一つが北多摩小川です。エンタが欲しいところですが、単片で我
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、佐藤二朗さんが演じられていましたね✨衣装の中に甲冑を着て最期を遂げるシーンは半分怖くて、半分笑ってしまいました「能員」は比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の妾となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は皆殺しにされた。(Wikipediaさん、ありがとー✨)ドラマの中でも北条氏の謀略により悪役にされ、一族は皆殺しに逃げ延びた一幡さまは義時
一旦起きたのは深夜3時。H君の運転でドライブする夢見た今朝は7時に起きた。リッチー・コールのアルバム「ハリウッド・マッドネス」をレコードで聴いた。朝食は山形産ひとめぼれを炊き、ブラジル産鶏肉、茨城産チンゲン菜、北海道産玉ねぎを炒めて、一膳半。デザートは栃木産とちおとめ苺。アルバム「トニー・ベネット&ビル・エヴァンス」をレコードで聴いた。「王家の愛」第20話をギャオで見た。昼食は松が谷「かわ乃」で本日の日替わり定食の鮪刺身と鰤の粕汁を頼んだ。小鉢、ご飯、香の物が付いて1000円也。満足
鎌倉古寺探訪材木座方面その2妙本寺~元八幡宮~九品寺3年ぶりの鎌倉探訪(散歩)、鎌倉駅~材木座光明寺~和賀江島(わかえじま)までのレポートです。◉その1:鎌倉駅~大巧寺~本覚寺までを歩きました。◉その2:比企谷妙本寺~元八幡(由比若宮)~九品寺までのレポートです。<妙本寺~元八幡マップ>■妙本寺=日蓮宗=鎌倉幕府の有力御家人で頼朝の外戚でもあった比企一族の屋敷跡に比企能員(よしかず)の子・能本(よしもと)が建立したと伝わります。「比企の変」で
11月3日ときがわ町から東松山へ。夕闇が近づいている。急ぎ宗悟寺へ向かう。鎌倉幕府二代将軍源頼家の側室若狭局を開基とする寺である。若狭局は比企能員の娘。「比企能員の変」によって比企氏滅亡後、夫である頼家も伊豆修善寺で殺害された。その頼家の位牌を持ち帰り菩提を弔ったのが寺の始まりとされる。そしてこの宗悟寺の周辺が、比企能員の館跡だったと伝わっている。寺を中興した森川氏の墓所。ああ日が暮れる。比企能員の館跡だったということで、何か痕跡を確かめたいのだがあ
鎌倉で乗ったタクシー。北条義時比企能員反対側は誰だったんだろう。気になる。
午後より、鎌倉大町から和田塚方面を散策。・妙本寺(開山:日蓮)比企能員一族の墓や上村彦之丞海軍大将の墓もある・常栄寺(ぼたもち寺)・八雲神社(御祭神:須佐之男命)・和田塚(和田義盛墓)鎌倉駅近く駐車場から、約2時間のコースでした。