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荒巻淳1926年2月16日~1971年5月12日大分県生まれ、投手、左投げ左打ち大分経専時代の1946年全国専門学校大会に出場エースとして大活躍をし1試合23奪三振を記録するなど、九州地方で頭角を現した。地元の社会人野球の名門「別府星野組」に入り、1949年の都市対抗野球で見事優勝。大会優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞した。1950年創設のパリーグ「毎日オリオンズ」に西本幸雄と共に入団。いきなり、エースとして大車輪の活躍をし、その年48試合に登板、26
別当薫1920年8月23日~1999年4月16日兵庫県西宮市出身右投右打外野手旧制甲陽中学時代はエースで4番。甲子園大会に3回に出場。卒業後慶應義塾大学へ進学。東京六大学通算35試合出場、133打数47安打、打率.353、1本塁打。1942(昭和17)の春季リーグで当時史上最高打率の.500を打ち首位打者に輝いた。1943(昭和18)年10月16日に行われた出陣学徒壮行試合(最後の早慶戦)では慶大の4番・センターとして出場。戦後、慶大を繰り上げ卒業後
榎本喜八1936年12月5日~2012年3月14日東京市中野区出身左投左打、一塁手。野球の歴史な中で避けては通れない一人の打者がいる。榎本喜八。「安打製造機」という言葉が、単なる愛称ではなく、文字通り「安打を産み出すための求道」を体現した孤高の天才だ。榎本喜八の野球人生のはじまりは、戦後の混乱期にある。1936年に農家に生まれ、5歳で母を亡くし、父はシベリアへ抑留。祖母と弟との極貧生活を余儀なくされた。雨漏りのするボロ家で、畳からキノコが生えるような環境
若林忠志(タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ)1908年3月1日~1965年3月5日アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島出身。右投右打、投手。3月5日は戦前から阪神-大阪-毎日でエース、監督として活躍した若林忠志投手の命日です。1908年3月1日ハワイ・オアフ島出身だが、広島出身の父母と一緒にハワイに移住した。両親はハワイで雑貨商、パイナップル工場を経営し成功しそのもとで、当初はアメリカンフットボールをやっていたが、大けがをしたためベースボールに転向した。ハイスクール時代の
昭和32(1957)年2月、東海汽船による東宝スターと大島へ行く会の新聞広告。その名の通り、安西郷子(のちに三橋達也夫人)や白川由美(のちに二谷英明夫人)をはじめ、森啓子、白鳩真弓、伊藤律子ら東宝が誇るスター女優さんとともに2月9日夜10時に竹芝桟橋を出発し、朝方に大島に到着後は現地でキャンプ中の毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の練習を見学できるというツアーらしい。かかる費用は1,300円也!「東宝」の2文字に惑わされると、ついつい『マタンゴ』
山内一弘(山内和弘)1932年5月1日~2009年2月2日愛知県一宮市出身右投右打、外野手■無名から這い上がった若き日々1932年、愛知県一宮市に生まれた。小学校2年生の頃に野球と出会い、起工業学校(現:一宮起工科高校)では当初投手として活躍。当時から130m級の特大本塁打を放つなど、その非凡な打撃センスは片鱗を見せていた。しかし、プロへの道は決して平坦ではなかった。憧れの中日ドラゴンズの入団テストを1949年と1950年の二度にわたり受験するが、投手として
土井垣武1921年7月1日~1999年1月25日鳥取県米子市右投右打、捕手■甲子園での挫折と、経済状況によるプロ入り土井垣武は旧制米子中学校時代、1939年夏の甲子園に主将として出場。快進撃を見せベスト8まで進出しましたが、準々決勝で、嶋精一・真田重蔵という伝説的投手を擁する海草中学と対戦。この敗戦後、土井垣は大学進学を志しますが、家庭の経済状況を鑑み、1940年に大阪タイガース(現・阪神)への入団する。入団当初、タイガースには正捕手の田中義雄が在籍。そのため土
毎日オリオンズホーム用・ビジター用1950年~1957年略年表1950年《ホーム用・ビジター用共通》ホーム用は濃紺の縦縞で右胸にMのマーク、ビジター用はグレー地にMainichiロゴ。ビジター用のみ、前半は毎日新聞社のマーク、後半からはホーム用・ビジター用ともに三色のエンブレムが左袖につく。ホーム用は1957年まで。ビジター用はこの年のみ。1951年《ホーム用・ビジター用共通》左袖に月桂樹をチャンピオンエンブレムをつける。また、ビジター用はOrionsロゴに変更。1956年まで。
1952年(昭和27年)7月16日は平和台事件が起きた日です。平和台事件は戦後プロ野球史の中でも結果的に大きな影響を広げた事件となりました。そして、最も平和台事件で影響を受けたと思われるのがその野球人の名前は湯浅禎夫21世紀の今では忘れられた名選手・野球人と言えるでしょう。湯浅は1902(明治35)年10月2日鳥取県米子市で生まれ米子中学から豪速球投手として名は上がっていた。卒業後は大連実業団で野球をしていたが、明治大学OB大沢逸朗に誘われ明治大学に入学、当時の
呉昌征1916年6月28日~1987年6月7日台湾出身左投左打外野手毎日時代の呉昌征6月7日は呉昌征の命日です。日本統治下時代の台湾から4度甲子園に出場その学校は映画にもなった嘉義農林だ。小学生時代から足が速く、短中距離、走り幅跳びなど陸上競技でも才能を発揮、台湾を訪れたオリンピック代表にもなった南部忠平、織田幹雄から「一緒にオリンピックを目指そう」と誘われたほどだ。嘉義農林では投手、外野手として活躍した。その頃のエピソードで靴が合わず裸足でたまたまプレー
戸倉勝城(とくらかつしろ)1914年1月19日~1997年6月6日香川県出身外野手、右投右打豊浦中学、法政大学を卒業後、大連満倶・林兼商店でプレーイングマネージャーを務め、社会人野球大洋漁業で活躍した。1950年、35歳ながら、社会人野球の大洋漁業から毎日オリオンズに引き抜かれ、プロ入りを果たす。同年3月11日のパ・リーグ開幕戦、西鉄戦で4番打者として出場し、初打席で木下勇から本塁打を放った。これはプロ野球史上初の初打席初本塁打であり、パ・リーグ第1号本塁
ミスターこと長嶋茂雄さんが亡くなった。89歳だった。昭和33年に巨人に入団し、開幕試合では国鉄スワローズの金田正一さんと対戦し、4打数4三振というデビューだった。昭和34年、昭和天皇・皇后が観戦された〝天覧試合〟では、同点の9回に阪神の村山実さんからサヨナラホームランを打つという、誰も筋書きを描けないことをやってのけた。とにかく、スーパースターという言葉以外には、どういう表現も無意味だと思う。どこか超越したところがある人、という以外には言い表しようがない。そういう人だった。とに
別当薫1920年8月23日~1999年4月16日兵庫県西宮市出身右投右打外野手旧制甲陽中学時代はエースで4番。甲子園大会に3回に出場。卒業後慶應義塾大学へ進学。東京六大学通算35試合出場、133打数47安打、打率.353、1本塁打。1942(昭和17)の春季リーグで当時史上最高打率の.500を打ち首位打者に輝いた。1943(昭和18)年10月16日に行われた出陣学徒壮行試合(最後の早慶戦)では慶大の4番・センターとして出場。戦後、慶大を繰り上げ卒業後、19
〝やはり〟というべきなのか、〝すごい〟というべきかよくわからないが、とにかく「大谷フィーバー」が巻き起こっている。それも、〝ものすごい風速〟の巻き起こり方で。一昨日のプレシーズン・マッチの巨人戦で、巨人の戸郷投手から挨拶代わりのホームランをぶっ放した。ただ昨夜の阪神戦では、才木投手に押さえられていたけれど。その才木投手は抜群の出来で、5回を1安打無失点と好投したので、ドジャースのロバーツ監督もべた褒めだったらしい。阪神は、対カブス、ドジャース戦の2日間とも完封だ。私は阪神ファン
荒巻淳(元毎日オリオンズ投手)井上一樹(中日ドラゴンズ・監督)金丸夢斗(中日ドラゴンズ・投手)法元英明(元中日ドラゴンズスカウト)西武の高橋光成投手は今年0勝11敗だったんですね!これはなかなか見られないある意味凄い数字ですわ!!で?来年は22勝0敗の倍返し?そのためには中日戦で登板しないようにしなきゃね!?まぁまぁ‥頑張ってくれや!立浪和義(中日ドラゴンズ・前監督)85高橋宏斗(中日ドラゴンズ・投手)55中田翔(中日ドラゴンズ・内野手)46大谷翔平(ロ
2020年代の事件◎歴史的な日11月22日!もう11月になる。今年も早いものでもう2ヶ月で年末!一年の計は元旦にあり、とは言うが…その元旦に立てた計画はうまく進んでいますか?計画とは立ててもなかなか予定通りにいかないものですが、それもよくあること!思いもよらない横やりが入ったり、予定していたことが無くなったり、そういった不確定要素が…計画達成を難しくする!しかし計画が予定通りいかないのは、そういった不確定要素ではなく、やる気!本人のやる気が大きい。例えば今
榎本喜八さんだ。昭和の大打者の1人。18歳で一軍のレギュラー。並の才能ではないね。まったく打席では動かず。不動の姿勢だったらしい。「動」から「動」より「静」から「動」は難しいよ。不動の姿勢から鋭くスイングするのは難しいって意味です。リアルタイムで見たかった選手ですね。東京タワーは何年前に見ただろうか。スカイツリーより好きだな。子供の頃から存在してるから。親しみかな。一方、通天閣。通天閣の周りの店がド派手だわ
NHKの朝ドラ『ブギウギ』にも登場した、主人公の娘を誘拐するのでなく、殺害を予告してくる脅迫事件は実際にあった事件が下敷きとなっている。当時の朝日新聞記事によると人気歌手の笠置シヅ子に愛児(ゑい子ちゃん=7歳)殺害を予告した犯人が現金受け渡しを要求した時間は午後3時30分ごろ。場所は東急の自由ヶ丘駅(現・自由が丘駅)の前あたり。昭和29年4月9日付の朝日新聞朝刊より誘拐⇒脅迫という手順を追ったわけでもないので、要求通りに現金を受け渡しに現れた笠置シヅ子の事務所職
荒巻淳1926年2月16日、大分県生まれ、左投げ左打ち大分経専時代の1946年全国専門学校大会に出場エースとして大活躍をし1試合23奪三振を記録するなど、九州地方で頭角を現し、地元の社会人野球の名門「別府星野組」に入り、1949年の都市対抗野球で見事優勝。大会優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞しました。1950年創設のパリーグ「毎日オリオンズ」に西本幸雄と共に入団。いきなり、エースとして大車輪の活躍をし、その年48試合に登板、26勝8敗274.2回
昔の選手だな。榎本選手って。31歳で2000本安打達成している天才だ。綺麗なレベルスイング。誰もが「天才」と評していたもんな。すごいわ。若き日の落合さんと山内一弘コーチ。山内さんはインコース打ちの天才だけど。落合さんは「難しい」と理解に苦しんだそうだ。山内さんの教えは「合う人、合わない人」があるみたいだな。高橋慶彦さんは山内さんの教えを「ありがたい」とYouTubeで何度も語っている。山内さんや榎本さんは現代の「フライボール革命」の打撃論をどう思
今日は、昭和世代のプロ野球ファンには懐かしい往年の名選手、山内一弘さんの命日・没後15周年にあたります。山内さんは、1932(昭和7)年に愛知県一宮市で生まれました。起(おこし)工業高校卒業後地元・中日ドラゴンズの入団テストを受けたものの、球団の経営事情により入団を断られた彼は、社会人野球の川島紡績を経て1952(昭和27)年毎日オリオンズに入団。手首の強さを利用した左右に打ち分ける天性のバットコントロールの持ち主であると同時にパワーもあり、3年目からレギュ
「神戸ニニンガ日誌」(第3,084号)○オリックスと阪神のパレードが行われた。阪神・平田コーチは乗車前にビール5杯飲んでいた。バスはオートマ車とミッション車があって、ミッション車では半クラッチで時速5キロを保持する。運転手の足は震え続けた。○24日神戸新聞では、野球優勝パレードの元祖は1954年の中日が最初だとしたが、その4年前に毎日オリオンズが後楽園から渋谷まで「行進」した。59年には南海、61年には巨人が大阪でパレードした。1962年には阪神が甲子園から尼崎→神戸までパレードした。
ひとつ前の当ブログで書いたように、自由競争の時代、選手とスカウトの間に入って一儲けしようとする仲介者を描いた『あなた買います』(1956小林正樹監督)のモデルとなったのは、穴吹義雄さんです。その穴吹義雄さんは2018年7月31日に85歳でお亡くなりになりました。穴吹さんは南海ホークスに入団、選手引退後もコーチ、二軍監督、一軍監督と南海一筋の野球人生でした。僕の記憶の中では、一軍監督時代の温厚そうな姿です。監督というと、クセの強い個性的な人というイメージが多い中、穴吹監督はまったくそういう感じ
ひとつ前の当ブログで、高松一高時代の中西太さんがバッティング練習をすると、内野手は「避難」のため外野を守ったというエピソードを取り上げました。そんな規格外の「怪童」もプロ野球に入るときは「通用するだろうか……」と不安で怖かったといいます。元来、気の弱い人だったようで、そういうところが「監督」をとして成功しなかったり、2つ前の当ブログに書いたように「断りきれなかった」のかもしれません。中西太さんが西鉄ライオンズに入る経緯ですが、元々同じ香川県出身の三原脩さん(高松中→早大→巨人)に憧れていたそ
荒巻淳1926年2月16日~1971年5月12日大分県生まれ、投手、左投げ左打ち大分経専時代の1946年全国専門学校大会に出場エースとして大活躍をし1試合23奪三振を記録するなど、九州地方で頭角を現し、地元の社会人野球の名門「別府星野組」に入り、1949年の都市対抗野球で見事優勝。大会優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞しました。1950年創設のパリーグ「毎日オリオンズ」に西本幸雄と共に入団。いきなり、エースとして大車輪の活躍をし、その年48試合に登
榎本喜八さんだ。昭和の大打者の1人。18歳で一軍のレギュラー。並の才能ではないね。まったく打席では動かず。不動の姿勢だったらしい。「動」から「動」より「静」から「動」は難しいよ。不動の姿勢から鋭くスイングするのは難しいって意味です。リアルタイムで見たかった選手ですね。
それぞれの思惑から始まったリーグ分立から起こった毎日オリオンズに始まり、千葉に移転して終止符を打った球団史。ミサイル打線、永田ラッパ、カネヤンダンス、ミスターロッテ、サンデー兆治、落合の三度の三冠王等々、日本一は一度だけだったが、そのインパクトは燦然と輝く。最も、川崎球場に移転した後は、その老朽化も相俟って観客の少なさから珍プレーの常連と化していて、笑いのネタのようになっていたが、それでも10,19決戦の激闘もあり、当事者の証言も含めて非常に面白く読める。単純にリーグ分裂の記述ミス
ひとつ前の当ブログで、1971年に「4打席連続ホームラン」を放った醍醐猛夫選手について書きました。2019年12月11日に81歳で亡くなった醍醐さんの葬儀には、ソフトバンクの王貞治会長も訪れました。醍醐捕手は早実で3年のとき、1年生だった王貞治投手とバッテリーを組んで甲子園にも出場したことで知られています。同期生には徳武定之選手がいて、徳武三塁手は卒業後、早大に進み主将をつとめ国鉄スワローズに入団しました。醍醐さんの方は、1957年、高卒新人として「毎日オリオンズ」に入団し、その年に100試合