ブログ記事17件
こんばんは、Mitsukoです。私はこんな人です→①、②、③毎日寒いですね、いかがお過ごしですか?私は母がずっと危篤状態で心配で働きに行けません。ちょうど弟家族が来ている時に苦しがったのでそのままERのある大病院に連れて行ったら沢山の病気が発覚して、そのままICUに入院です。自分を大切にしない人です。「病院行く?」と聞いても「行かない」という人でした。多分出られなくなるのを知ってたんでしょうね。もう助からないと分かっていても生きてて欲
母方の祖母のときは夜だった電話に出た母の狼狽ぶりをなんとなく覚えている幼稚園児だった私は母と共に電車で母の実家に向かった祖母は脳溢血で倒れてそのまま自宅で息を引き取った今思うと幸せな亡くなり方だった母の場合は朝だったこんな早くに病院から電話なんて良くない知らせに決まっている会社に連絡朝早い時刻で繋がらない留守電に残す7時くらいにケアマネから電話があり事情を話し息子とともに病院へ向かうハハキトクそう思っていたしかし実際は朝に亡くな
知床の観光船沈没の事故が連日報道されており胸が痛い亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りしますある乗客の男性が沈む直前に奥様に「ありがとう」と携帯で伝えたというニュースを見て母が亡くなった時の事を思い出した家族旅行中に癌で闘病中の母の主治医から「ご本人様は延命治療を拒否されてますがご家族の皆様も同意されますか?」と確認の電話があったすぐに新幹線で戻っても間に合わないかもと・・・とりあえず、すぐに母の携帯に電話した何度目かにやっと繋がった涙をこらえ
昨日、突然、弟から久しぶりに施設に入っている母に会えたと母の写メと共に連絡が来て、会いたいなぁ〜と思っていたら仕事に出かける途中母危篤と、どうしても仕事休めず、仕事場に着いた頃弟も間に合わなかったと。12月25日同じ施設に入っていた母と仲良しの叔母が他界。弟が、仲がいいから連れて行かれないといいんだけどなんて冗談言っていたら🤭これから弟は、母をむかえにいくと「お家に連れて帰ってくるからゆっくり出てらっしゃい」と仕事が終わったら母に会いに向かいます。
2017年の年の瀬。母の病院から、母が微熱が続いている連絡。今までも何度もあって、1週間くらいで治っていたので、今回もそうかな?と思っていました。そして、その通り、年が明けて、2018年。お正月には熱が下がって落ち着いた、との連絡。元旦から4日まで私は仕事休みだったので、母に会いに行こうかな?と、かなり思ったのだけど、1月18日頃に父の病院にも行くのでその時でいいかな?と思い、やめてしまいました。(後から思えば、この時行っておけばよかった…。と、後悔です。全く予知してなかったの
9月は母の命日があったことをすっかり忘れていました。数日前、従姉妹から、今日は、おばちゃまの命日だね・・とメッセージがあって、ハッとさせられました。母が亡くなったのは、15年前のことで、今でも、その時のことは、強烈に覚えているものの、命日そのものは、正直、一体、何日だったのか、はっきり覚えてもいなかった非情な娘です。母が亡くなった年の夏、多分、7月だったと思いますが、例年どおり、私は、娘を連れて、日本に夏休みの一時帰国をしていて、私たちがフランスに帰国した後、これ
馬鹿だから回収した母の携帯でメールのやり取り1人2役鬼電の人だったのにねメール苦手で暗号並だったなぁ使えなくなるまでサブで持つあと1週間か2週間もう1週間すぎたものね心臓強いからなかなか逝け無いかもしれないが水が飲めないから熱が出てるみたい点滴は、延命だから止めるだから分かっていた事なのに諦めがつかない
さっきの続き夫や友達からダメ出しまみれに頭が痛い、薬飲んで横になっても疼く祖母が危篤でも、甥姪は来ない(近所に住んでる)結婚祝いは、欲しい母(祖母ね)からのお祝いは、死んでても欲しい祖母が死んでも(喪中)でも結婚は、する神経病んでるやろ?姉一家吐き気もしてきた明日会うのに明日は、ある意味決戦の日母宅の片付け、姉は来ないエアコンだけ持って行った喪主は、するいい格好は、やりたがり主治医にいい顔しても実務は、うちなので連絡は、うちに来る支払いも、薬も届けた事はない本当
私の母が、亡くなったのは、私が海外生活を始めて、10年くらい経った頃でした。母は、拡張型心筋症という心臓病を患っており、年々、少しずつ弱っていきました。毎年一度は、娘を連れて日本に行っていたので、娘もマミー(フランス語でおばあさんのことは、マミーと言います)が大好きでとても懐いており、母は、何よりも娘の一挙手一投足が楽しく、嬉しいようで、私の一番の親孝行は孫の存在だったように思います。母は、私にも弟にも小さい頃から、英語をしっかり教えてくれていました。お
3月4日の午前6時半過ぎ。何時ものように仕事に行く前のシャワーを浴びていました。これを『虫の知らせ』というんでしょうか直ぐにスマホを確認をしなければならない感覚になったんですよ。早速、スマホを確認してみたら...14分前に“病院から不在着信”が入っていたではないですか“まさか”と思いながら、即、病院に連絡しました。案の定、『母危篤』という話でした。電話を切った後、直ぐに姉に電話をして、正直、隣の叔父に話するべきか悩んですがね。最初の電話が鳴っ
義母の危篤から臨終義母の危篤状態から臨終まできちんと立ち会ったのは実の息子2人で・・・私は成すすべもなくうろたえてただそのつらい時間が過ぎるのだけを感じて過ごしていました。では、義母の夫である義父はどうしていたのか?といえば・・・早々に義母の病室から姿を消し病院の屋上庭園のような場所で煙草を吹かして時間を潰していました。「まいったなぁ・・・なあアンタ、ちょっとこの電話番号に電話かけてくれるか?」私が子供達を連れて屋上庭園の脇の廊下
大殺界真っ盛り+天体逆行の影響もろめちゃ被っているマキちゃんです。さて、盆(四連勤)前の貴重なお休みに息子の為に走り回ってきました。山越えしてきた気分です。なんと息子も大殺界中の『停止』の年で、いい加減な金勘定のツケがガツンとやってきたわけです。いやはや、中学時代のパソコン壊されちゃった事件のようにずっと親に黙ったままの事を思い出します。あの時はウイルス感染させられて、パソコンを初期化しなければならず、大変でした😭今回もすぐ話してくれれば解決も被害も最小限に食い止められたのにダラ
年末、年始と本当にのんびりのんびりと平和に過ごせていたのだけれど心の中で何となく不安な想いがあった。それは先日あった地震の時にこれだったのかな?と思って居たのだけどそれでは終わらなかった。昨夜、比較的遅い時間に父が亡くなった時色々世話になった叔母から電話が来た。内容は、、、母がもう今日、明日、、かどうかの状態だと私の弟から連絡が入り今日、様子
夏休みの熱海にスーツ姿で現れたのは、もちろん、研修講師の仕事、一流企業の研修所、天然温泉もあり、食事も旨い、仕事を無事終えて、帰りの新幹線、熱海18:42発のひかりに間に合った…これに乗れたら21:40には茨木に着ける、それでも、ひかりなので時間は掛かる、今回は貯めたポイントでグリーン席!思い出すのは2年前、この研修所で仕事中、オヤジからの電話が鳴り止まない、休憩時間に電話をすると、「母危篤、すぐ帰れ!」と、言われても研修講師が途中で帰るわけ
酸素マスクを着けているけれど、既に酸素を取り込めない状態なため脈拍も120以上になっている。口からの痰吸引も出来なく、胃瘻からの吸引…栄養が取れてないので、胃瘻に溜まっている以前に入れた流動食が消化できずに腐って痰と共に出ているそうな。腸内閉鎖?(胃まで届いてない)泊り込みと思ったのですが、パイプ椅子では私の体がもちません。取り敢えず上の弟が朝まで泊り込む事になり、早朝から妹と私とで交代をする事になりました。血圧も上が60前後なので一晩もつか?分からないけれど孫達にも合わせてあげ
2016年10月4日(火)母52歳の誕生日。これから1週間ぐらいして、またしても心臓が止まったと連絡が入り、急いで山形へ向かった。自分が山形に着いたときは意識が戻っていて安心した。生で母にハゲ頭を見せるのが初めてだったので、意外に似合うなとのお褒めの言葉をいただいた。前回よりもやはり辛そうで医師には、今夜が山だろうから病院に付き添うよう告げられた。母は痛み、苦しみで寝るのが怖いという理由からなかなか寝付こうとしなかった。自分は治療や移動の疲れもありがっつり眠ってしまったが。自分が
6月17日金曜日旧暦五月十三日晴れ雲多し荷気薫風にのぼり、細汗衣に凝つて集まる兄より連絡母危篤11時半より16時まで御徒町勤務「鯖の塩焼き定食」「納豆」「めかぶ」リボトリール1mg18時より22時まで上野勤務『源氏物語』若紫デパス1%『山家集』まがふべき月なき頃の卯の花は夜さへさらす布かとぞ見る平成28年皇紀2676年