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亡くなった人との別れはそれで終わりではない。立ち直るのに月日を要するかも知れないけれど、でも別れはけっして不幸な出来事ではない。それは時間差で旅に出るようなもの。先に旅立つ人がいて、私たちはあとからゆっくり向かうだけ。繋がりはけっして途絶えない。永遠に繋がっている。。⋰☆✡✬★〜⋰。といったような内容のアメリカのカウンセラーの方の言葉を知り、少し気持ちが前向きになれた気がする。言葉は全能だとは思って
じつは先月の29日(月)の朝、離れて暮らす弟から電話があり、「昨夜お袋(母)が脳梗塞で倒れた。この1週間が山場だそうだ。延命治療はしないけどいいかな?」ということでしたので僕は、「分かった、それでいいよ。何もできなくて申し訳ない」と、伝える事が精一杯の返事でした。弟夫婦が20年ほど前から母と母の妹(叔母)の2人を僕の代わりに見てくれておりましたが、2021年10月に母の妹(僕は幼い頃から姉ちゃんと呼んでいました)が他界し、その後も弟夫婦は母の事もずっと見てくれていました。その母
フレディお誕生日おめでとう🎊生まれてきてくれてありがとう❤️今年はまだ気持ちの整理がつかずフレディの誕生日をお祝いできないのではと思っていました‥実は8月31日に突然、母が天国に旅立ちました日曜日の朝、ケアマネージャーさんから母の容態が悪いと連絡があり駆けつけたところもう意識はなく手を握って話しかけていると私が来るのを待っててくれたように眠るように息を引き取りました97歳大往生です1週間前から少しずつ食欲が落ちてきて心配していましたがまさか、こんなに早く逝
ご覧いただきありがとうございますご報告です8月27日母が73歳で永眠いたしましたいつも温かく見守ってくださる皆さまに心より感謝申し上げますしばらくの間ブログはお休みさせていただきますまた落ち着きましたら日々のことを綴らせていただきますこれからもよろしくお願いいたします
お久しぶりです。気づけばブログを、1年以上も放置していました母の様子は変わりなく、特にブログで報告するような事もなかったので放置しちゃってましたが、年が明けてすぐ、母は急に旅立ってしまいました。今更更新しても誰も見ないだろうし、このままにしちゃおうとも思いましたが、応援メッセージをくれた方や、更新してないのにフォローしてくれてる方がいらっしゃったので、報告させて頂きました。話が出来なくても、目が合わなくても、母がいるのといないのでは、全く違う…母は意識が無くても、私の心の支えでした。長生
ご報告皆さま、お久しぶりです。アイビーの娘です。母の旅立ちについてのご報告の際は、たくさんの温かいお言葉をありがとうございました。皆さまのお言葉を読んで、また涙が止まらなくなってしまいました…。だいぶ時間が経ってしまいましたが、母について私が語る用のアカウントを開設しましたので、もしお目汚しOKの方は、是非読みに来てくださると嬉しいです!母のアカウントを引き継ぐことも考えましたが、母のアカウントはそのまま残しておきたかったですし、勝手にいじると怒られそう(笑)なので、別のアカウント
埼玉に戻られるんですか?そう聞かれますが私、母の介護をするために帰札した訳じゃないですよーでも時間の制約が無くなったのでもっと好きなことを出来るかな?介護の仕事のモチベーション下がるかな?好きなことをするなら収入を増やさなくちゃとかでもまりコジの負担にならないような生活しなきゃとか結局、制約があった体力とまりコジとの生活と収入としたい事のバランスを考えてひとまず本日お仕事復帰です上に桃太郎とすももがいます。虎次郎に落とされませんように
★★★長女たつこ、次女ようこ、三女あきこ、四女えいこ、+父。余命宣告された母を見送るまでの20日間を描いたノンフィクション。著者は四女の尾崎英子さん。いやはや、このお母さんが強者だ。ステージ4の乳がんで、まともな標準治療を受けていない。なるべくしてというかMRIを受ければ脳転移が見つかってしまう。悲壮な話になりそうなものだがトラブルメーカーで、あっけらかんとした性格のお母さんだけあって、どこ吹く風のような空気感が流れている。家族の形も在り方も千差万別。来世でまた逢い
札幌家族サポートファミケアプリズム翠吉田綾子ですプリズム翠のHPはこちらケアラーズカフェin白石区2回目開催します命の最期を見送るということそれは、悲しみの中に、静かな感謝と、深い愛情が息づいている時間でした。私は、大切な二つの命を看取りました。一つは母、そしてもう一つは、長年家族の一員として寄り添ってくれたあの子どちらも、私の人生の中で特別な存在でした。母の旅立ち母は、パーキンソン病との戦いの末に、静かに旅立ちました。母の手
5月4日に母が亡くなりました7日に家族だけで静かに母の旅立ちを見送りました母は眠る様に逝ったのでとても綺麗な穏やかな顔を見れて感謝の涙が、、、母が亡くなる前に私にくれたものが大きく重い物でしたので、今更、、、さみしいです
ご無沙汰していました。少しだけ落ちついたので書きます。先月4月半ば過ぎお昼すぎ母が永眠しました。おかしな話だけど自分の母親がなくなるなんて信じられなかった。寂しいにゃん🐈おばあちゃんもういないの?お話しできにゃいの?おばあちゃんの見守り隊🐈みぃこしゃん母のぎっぐり腰から実家に荷物そのままで住民票もそのままで、わたくしの所へ来て同居してから21年たっていました。約5年前に重度の食道炎で2ヶ月間入院〜要介護4になり本格的介護から約5年間お世話になった介護用電動ベッド
『母の旅立ち』そして『蒔果(makica)』へと……『まとめ①~⑯』備忘録のように①~⑯を綴ってまいりました。綴ることで(アウトプットすることで)心の中も整理できたように思います。今日はこのページでまとめてみました。……………………『母の旅立ち』そして『蒔果(makica)』へと……『まとめ①~⑯』『①【『母の旅立ち』そして『蒔果(maki
いざ🧑🏻母の旅立ち尾崎英子CEメディアハウス#架空書店250425③母の旅立ちAmazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る#書籍新刊情報#本#予約受付中#予約#読書#近刊#250430on#母の旅立ち#尾崎英子#CEメディアハウス#読書好きな人と繋がりたい#読書好きさんと繋がりたい気分よく生きるための私的解釈Amazon(アマゾン)【架空書店本店】https://kakuushoten.com/
『母の旅立ち』そして『蒔果(makica)』へと……⑮『神の黎明の奇跡』『ANEWCHAPTER』昨年2024/9月頃から(私のブログの)……『名称を変えなさい』……というメッセージがきておりました。『MAKICA∞*∞OPENCONTACT』は『続ける』のだけれども……『名称を変えなさい』……と。それは図書館で例えますと……『OPENCONTACT』……
『母の旅立ち』そして『蒔果(makica)』へと……⑭『神のマトリックス』『INTOLOVE="0"の奇跡』『場面が大きく変わった』2025/1/13(月)『母の旅立ち』のときに私は『場面が変わった』と感じました。『時空間』が『大きくシフト』したのを覚えております。もしかしましたら私と同じように『時空間の変化』を感じら
本日母を見送ってきました父と弟家族と私達夫婦の全7人で斎場にてお別れ会を執り行い母を見送りました甥っ子(兄のほう)がジョークばかり言ってみんなを笑わせるので明るく見送ることができました火葬場にて待ち時間にみんなで食事をしたのですがそのときも甥っ子が面白いことばかり言うのでスタッフの方が「和やかで良いですね!」と言っていましたが…たぶん賑やかな人達だな~って思われていたんじゃないかと。。父だけがちょっぴりしんみりし
3月29日㈯午前4時過ぎ入院先の病院にて母が心不全で空へと旅立ちました。。4月2日㈬お別れ会にて母とお別れをします27日に面会をしたとき母の痩せて小さくなった姿を見たときもう長くはないかも…と思いましたがそれでも医師からは何も言われていなかったのでまだまだ面会にて会えると思っていました本当に突然のことで父から電話があっても信じられず涙も出ませんでした今ブログを綴りながら涙が止まらなくなっていま
日付3月5日(水)温度最低気温0℃-最高気温7℃天気曇りのち雪の予報(東京)先週、天国へ旅立った母の通夜、告別式を一昨日終えました。少し落ち着いたら、無性に母の味が食べたくなり、『ナスの酢の物』を作りましたやっぱり美味しい愛媛では、ナスの事をナスビと呼びます^^《材料》・ナスビ1〜2本・茗荷1個・あげ巻き(かまぼこ)1/2本・Aきびさとう小さじ2・A米酢大さじ
もう母の旅立ちから今年で3年になるのかぁ早いなぁ
ママママママ大好きなママ何度も何度もママと呼んでみてるよ!ありがとうママ強くて弱くて泣き虫大きな大きな愛の人大好きなママいっぱい喧嘩したね心配ばかりかけてたねいつもいつも幾つになっても大きな愛で包み込んでくれたママ強がりで素直じゃなくて寂しがり屋チャーミングで頑張りや母になるために私たち姉弟のお母さんになるために生まれてきたようなママ私はママの気持ちも顧みずやりたい放題どれだけ迷惑かけて心配させたことでしょう「私の育てかたが悪かったんだね。」っ
ご無沙汰しています。仕事が忙しくて更新できていなかったのですが、そんな中で、少し前に日本で施設にお世話になっていた母が旅立ちました。一応(?)読書感想のブログですし、こちらの皆様には馴染みのない存在なのですが、私が振り返りたいので、書き留めておきます。享年90歳。30代から高血圧、糖尿病を患っていて、過去に2度ほど脳梗塞を患いました。1度目は60代の時。ちょうど私が帰国時で、1か月ほど入院していました。いいタイミング(?)で、私が看病することが出来ました
季節のフォトグラファーのマサさんから今年のコスモスの写真が届きました。マサさんは母のために季節ごとに写真とメッセージを送ってくれて母もそれをいつも楽しみにしていました。母の部屋はマサさんの撮った花の写真でいっぱいでした。その写真は今、まとめて元実家にあります。1枚だけ、母の旅立ちの時に持っていってもらいました。ピンと伸びた茎に力強さを感じるコスモス。今年も咲いてくれてありがとう。
ここ数日は、夕方になると暑さも落ち着いてきます。昨日今日と庭の草むしりを30分~1時間しましたが、一時の暑さではないので良い疲労感です。株は、昨日利確できなかった銘柄が下がってしまい結局持ち越し持ち株は昨日とトントンくらい。もう8月も終わってしまいますね。母が7月に旅立ちました。5月中旬までは普通に元気だったのでまだ信じられません。「お腹がすかない、お腹がはる。」というので病院に行ったら既に癌末期でした。10日間入院後、退院して1か月で逝ってしまいました。
1人でスウェーデンに行ってた母が今日帰国したそうです。妹が家族と住むスウェーデンに、1人で1ヶ月弱の滞在予定で行っておりましたが、そこまで長い事家を明けたことが無かった母は、家が気になってしょうがなく、さらにお習字教室や自分の書道展出展で忙しい母は、ゆっくり外国で休暇、というのも落ち着かず、1週間旅程早めて帰って来ました。受け入れていた妹の方も、時々、いや、頻繁に出る元タイガーマザーの辛辣発言に、ちょっと疲れてきてたようなので、1週間早めたのはよかったのかも。笑でも北欧の夏を妹の家族と満喫
8月4日午前10時いねこさんは空へ旅立ちます88年7ヶ月の人生でした月命日は31日ですから父と一緒です父10/31・母7/31たくさんの暖かい優しいお気持ちありがとうございました最後のお出かけいねことこむぎより愛をこめて
わたしが死んだら花火を上げる!が口癖だった母自分でどうやって上げるのよ〜と笑って聞いてたけどまさかの有言実行!今日は大宮の花火大会でしたね昨日は福島母のほらね!が聞こえてきそうですやるじゃん!どうか安らかに穏やかな顔でした皆さまありがとうございました『はなカイロ』心と体の癒しサロンはなカイロ現在、五十肩治療中のためお休みしています2024年9月22日リスタートはなカイロのコンセプトは2つ一つ目は体の癒しケア(もみほ…ameblo.jp
養母の旅立ちについて、長くブログに記してきました。今後、また思い起こして書くこともあると思いますが、ひとまず、今回で最後の回とします。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母との最後の会話…尽きせぬ言葉の花束を探して最終回…生母のことを悼んだブログの最終回は、「最後の会話」の話であった。生母の病室で、その頃、執筆していた雑誌掲載短編について、電話での編集者とのやり取りがあり、「良い出来だって誉めてくれた」と
高校生の頃、進路問題で、母と激烈なバトルになったのは、記した通りだ。「教員なんかダメだ。作家になんかなれっこない。医者にするつもりで育てたんだから、絶対にダメだ」一年以上にわたる大バトルであったが、僕は譲らず、結局母が折れて、僕の文学部受験は認められた。以降、紆余曲折はあったものの、母校への就職、新人賞の受賞と、母は失神するくらいに喜んでくれた。喜びはしつつも、新人賞の受賞の折には、「でも、私は、あなたが10冊、本を出すまでは認めない」と、なかなかの本領発揮で、僕のことをたし
養母の旅立ちについて、「尽きせぬ言葉の花旅を探して」と題して、長く記してきたが、その殆どが、病院のことや、葬儀関連の話ではなく、幼い頃の思い出や、共に暮らしてきた日々の思い出となってしまった。生母のときのブログは、そのほとんどが闘病と、命がけで踊った最後の公演の様子であったから、対照的ではある。最後の数回は、養母の最後の日々のことを記しておこうと思う。亡くなる一年半程前、養母は大腿骨を骨折した。大腿骨骨折の治療自体は無事終えたものの、以来、養母は少しずつ衰えていった。衰
名前の思い出のもう一つは、半ば笑い話だ。新潮社からデビューが決まった際に、養母が大喜びしてくれたことは、前にも記したが、デビューに際して、ペンネームを考えることになった。担当編集者には、「『神田』は残したい」と伝えてあった。僕の希望もそうだったし、養母も「『神田』は残してよ」と言っていた。担当編集者と僕とで、それぞれ「神田〇〇」「神田◎◎」と、考えて持ち寄ることになったのだが、なかなか良いものが見つからない。しまいには、編集者から「『神田』がかっこ悪いんですよね」と言われる