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1わたしは光GENGIが大好きだった中学生の頃、テニス部の仲間たちと体育館で踊るのが日課だった「ガラス十代」の曲をカセットデッキで流し推しのパートを完コピして踊るのだ靴下でローラースケートみたいに足裏を真っ黒にしてシューシューすべるシューズは滑りにくいから靴下よわたしは佐藤アツヒロが大好きだった********************懐かしくなったのでまたも懲りずにわたしは昔のわたしにチャネってみる20代の頃のわたしもあいかわらず怖がりで泣き虫だったそ
5隠れてエ◯バの証人のところへ通うようになったわたしだが進学が決まったので今まで通っていた方のところへは行かなくなった進学先の近所にもエ◯バの証人の家はあるもちろん紹介されそこに行くようにレールは敷かれていたものすごい組織網に小娘のわたしも気がついたこうやって信仰心を守っていってるんだなとわたしが遠く離れたところでエ◯バに出入りしていると気がついた母は怒り狂って泣きながらわたしを責めたてたわたしの顔を見るたび、母が怒りをあらわにしているのでわたしは心臓が痛くなりひどい
4中学生の虹色キャンディー🌈はテニスに出会いこんがりと焼けた小麦肌になっていた昭和の部活動と言えば朝から晩までやっていて、休みはお盆と正月くらいやりたくて入った部活はものすごく楽しかったテニスに明け暮れ、「エースを狙え」の岡ひろみやお蝶婦人に憧れていたので汗もキラキラ光ってるようだった先輩も友達も後輩もみんないい人で優しくて毎日がめちゃくちゃ充実していたこの頃のわたしはのびのびイキイキしていたと思う高校生になった時、仲良しの友達がある人を紹介してくれるといってある民
3わたしはとても真面目で勉強が大好きな子だった1年生の時、「授業中は先生の目を見て姿勢を崩さずにいること」と教わったので決して微動だにしないでいた落ちた消しゴムも先生が黒板の方を向いたら先生に見つからないようにササッと拾うし、あくびもそうだ100点をとってほめてもらえることが嬉しくて嬉しくて先生が大好きだったわたしたちが小学生の頃は雪が降ったら授業もしないで1日中雪で遊んだり学期の終わりのころにはみんなでお散歩に行ったりした最高に楽しくて気持ちよかった幼稚園の時は
2わたしは物心つく前からいつもニコニコしている子どもだった誰に会ってもニコニコ知らない人々にもニコニコ笑いかけて笑い返してくれることが最高の喜びであった幼稚園にはバスで通っていてわたしはいつも一番前の席に座る一番前なら後ろをクルッと向けばみんながわたしを見てくれるからだわたしは毎朝、気持ちよ〜く「花の子ルンルン」を熱唱していた子どものころからいつも思っていたことがあるみんなニコニコしてたらいいのに幸せな気持ちになれるのになわたしはよく寝る子だった毎日14時間く
2022年6月より、しばらくの間サロンをお休みさせていただくことになりました。お休みのいきさつはコチラに↓↓↓chikaのブログYukiのブログぜひ再開してくださいねー♪のお気持ちありがとうございます♡とても嬉しいです(*´꒳`*)♡🏡サロングリーンゲイブルズお家でのお茶会はほっこりした幸せのイメージがあります赤毛のアン👒がダイアナを招いた小さいけれど特別な時間…そんなほっこりした幸せな時間を天使に見守られながらご一緒できたら嬉しいですサロン*グリーンゲイブルズで
関西と関東では善哉(ぜんさい)とお汁粉の概念が全然違うのだそうですね。私の住む関西では粒あんで作ったものを善哉。こしあんを水でといたものがお汁粉。関東では粒あんかこしあんかではなく、汁気が多いか少ないかで善哉(汁が少ない)、お汁粉(汁が多い)と呼ばれるのだそうですね。画像お借りしています。他の地方でも様々あるそうです。これからの時期でいうとお正月のお雑煮も地域によっておすまし、白味噌、などなどベースも具材も様々で面白いです。私の母は関東で生まれ育ち関西で結婚して
アラカン真っ只中もりべちさこです。3人の子供は巣立ち旦那さんと2人暮らし。隣に義母が住んでいます。還暦を過ぎ保育士パートしています。いつも妹と面会に行くのだが先日、たまたま一人で母の施設に行った何故なのか、理由ははっきりわからないのだけれど母と過ごす15分間が、とても愛しく大切な時間に感じた母が認知症を患って10年が過ぎた。これまで本当に様々な出来事があった訳だけど、「きっとわたしは、生涯、母と心を通わすことの無いまま別れてしまうことになるんだろう」と
さとやんですうぅ寒い〜!さすが寒さ極まる「大寒」だけのことはあるこんな寒い日は湯気が恋しい人が恋しいカラダもココロもあったまるもんが食べたい「おかあちゃん何食べたい?」わかっているけど一応聞く「おいしいお好み焼きや」鉄板にジュウ〜っと溢れるソースの香ばしい匂い鉄板からのぼる湯気の向うに母の顔が見える「もうちょっとソースかけてえな〜マヨネーズはそんでええわ!」ワチャワチャしながらお好み焼きを端っこから小さく切ってそのままコテでハフハフしながら口に運ぶ1年前より
兎年🐇新たな年の初めを迎えみなさまには健やかにお過ごしのこととお慶び申し上げます今年は卯年イースターエッグを運んでくる🥚「復活」の象徴🐇中国の六十干支で今年は「癸卯(みずのとう)」十干の最後にあたる癸(みずのと)は生命の終わりを意味するとともに次の新たな生命が成長し始めている状態を意味しこれまでの努力が花開き実り始めるとされるそう今年こそ新型コロナウイルスとの戦いに終止符が打たれウサギのようにぴょ~~ん🐇と飛躍する年回り…にす
〜母と私〜「絹子の一生」絹子は許され無い愛から産まれた。(和歌山県紀州のある村)今はどんな地名になっているのだろうか?海・密柑山・竹林・川・自然豊かな村そんな所で産まれた絹子は生まれて間も無く蜜柑箱に入れられて海に捨てられたのです。この話は本当に在った出来事です。母(絹子)の一生を、そして母(絹子)との思い出
こんばんは(^^)/みかです。最近、実家へ行くと母が20歳と17歳の娘たちを見て「いい子たちだね。お前の育て方がよかったのね」と褒めてくれます。私が今の娘たちの年齢だった頃母はよく「子育てに失敗した」と言っていました。その言葉を聞くと自分が失敗作のような気がしてちょっと悲しかったのですが振り返ってみると実家は自営業だったのであまり子どもと過ごす時間がありませんでした。きっと母は時間や手間をかけて子育てをしたかったのだろうなと思います。私は離婚したりしまし
“あなたも気づいていないあなたに出会える“🌿よもぎ蒸し“感情までデトックス本来のあなたらしさをとり戻す“💓癒しのリンパケア✨ありのままの自分に還る和み処✨『hikari』です〈1日2組までの完全予約制〉〈女性専用サロン〉はじめましての方プロフィールはこちらここをタップしてね↓↓↓介護士セラピスト♡光富りかさんのプロフィールページはじめまして私(50代)・夫・母・チワワの女の子の3人と1匹暮らし独立している愉快な一人娘(
こんにちは👋😃午前中、自宅の掃除をしてました。写真は、昨日26日上野アメ横に在ります、二木(にき)の菓子で購入したルマンドです。ミニサイズになっても、サクサク食感は変わらず母も私も長年好きなお菓子です("⌒∇⌒")♪そして昨日のアクセス合計は172件ありました明後日3/1、午前中💉コロナワクチン予防接種3回目を受ける予定です。ワクチン副反応あると、2~3日仕事休んだりするため。。今日も午後から、買い物などで出かけます。少しずつ、小刻み更新になりそうです。お時間あり
自叙伝のブログを始めて2010年自叙伝をアップして皆さんに御訪問して頂き「ありがとうございます」(2018年3月18日~再度のブログをアップしています)ガラ携帯の時からですからね其れを今でも年月は、変わっても心は、今も同じです自叙伝を綴り初め、幾度も御要望に与り皆様に読んで頂き嬉しく思います産まれる前は、母の守護天使となり母(絹子)を護り母は生まれた直ぐに、海に流された時には私を護る神々が護る様に神々しい朝日に天に恵まれながら優しい光に助けて頂き私
今日も暑い。明日から引っ越しの荷物運びだしを始めるので、今日は明日用のお食事をどっさりこしらえようと思っています。そんな忙しい中、私は昨日、静岡県に行きました。母のいる、特別養護老人ホームへ。もう5年になる。私はその間、罪悪感が消えたことなんて無く、母を想うたびに、自分が母をそうしてしまったと思っている。母に投げかけた酷い言葉や、母にさみしい思いをさせてしまったこと、もっと話を聞い
実家にいた頃は嫌なこと辛いことばっかりだったけど家族全員で笑った記憶がある。自立できるまで衣食住を提供してもらった恩がある。罪悪感から逃れたくてこの先も会わなくていい口実がほしくてあの人は毒親なんじゃないか毒親だったら拒絶してる今を正当化できるから一生懸命毒親に関する情報を読んで安心したり不安になったりしてたけど問題は毒親なのかそうじゃないのか、ではなくて会いたくない距離をおきたい離れたいそう思うできごとがあったという事実で十分なんじゃないかと。わたしは何度かドキド
𝕝𝕟𝕤𝕥𝕒𝕘𝕣𝕒𝕞廻るお寿司でふたり忘年会🍣✨..ホームに居る母にお届け物をしながら近くのス〇ローにてLunch🍣感染防止で面会制限⚡️外出不可⚡️二年連続年末体調を崩して入院し体力を落としていたので今年は、ひ孫の写真を送ったりしながら電話やメールで話をして早めにメンタルケアを試みました。なんとか入院免れε-(´∀`;)ホッ𓂃𓂂🍃ビンゴ大会でミニクッションをゲットしたらしい✨いいもの当てた✨「いつも抱っこしてるとあったかくなって安心感溜まるよ」「アラそう、ハイハイ」💙意味わかンなくていい
「母とわたしの病室」昭和四十三年、母(絹子)43歳病院で検査した結果、母(絹子)の体を侵していた病は急性リンパ性白血病であると診断された。その病名を医師から告げられた父(清規)は、母(絹子)と私には告知せずに自身と長男(恵造)の胸の内に留めると決意したのでした。父(清規)は私に母(絹子)の看病を託し、母と娘の短い時間を静かに見届けることにしたのです。母(絹子)の体調について父(清規)からは過労などから来る貧血であると聞かされていたので、私は疑うことなく…もしくはそれ以上は考えたくなか
コロナで休校が決まったときに母から大丈夫?とLINEがきてから4月、わたしの誕生日スルー5月、娘の誕生日スルーで6月、会わなくなって2年が過ぎました。夫からこのままでいいの?って聞かれたのでやっと自分の気持ちを聞いてもらうことができました。自分は必要ない人間だと思って生きてきたこと。同じ思いを子ども達にさせたくないこと。わかりあえないと思うことがあったこと。夫が会うとか会わないとかは、別に自分で決めたらいいと思う。けど、いつまでも生きてるわけじゃないから、いいのかなとは思