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新シリーズ「親鸞と他の哲人たちの比較検討」、まだ準備中です。その第一回を待たずして、他の新シリーズを始めたいと思います。タイトル通りなのですが、ぼくは現在仏法、浄土真宗に絡めた自作の歌を6曲ほど作っています。作詞・作曲をし、それからまだまだ下手ですが歌も習っているので、自分で歌っています。発表の場は主にぼくの所属する、浄土真宗のグループである「アミダサンガ18」での合宿で行われるレクリエーション(音(おん)フェス、と呼ばれます)の場です。
タナトフォビアの皆さんは、どういう願いが叶えられればいちばんの喜びでしょうか?やはり「死を克服する、解決する」ことが主眼になりますでしょうか。ぼくもそうでした。死ぬことを何とかすることが、人生最大の問題でした・・と、いうとけっこうな嘘になります。死を恐れているとき、怖くてたまらない時は確かに、死の解決策さえ見つかればどれほどの喜びだっただろう、と思っていました。しかし、ぼくでさえも死を忘れているときの方がずっと長いのです。うつろで虚しい時間は
さんざん、悪の話をしてきましたが悪を真に受けすぎて、自分を責めてしまいがちになることがあります。それは真面目な証拠で、必ずしもおかしなことではありません。タナトフォビアの方は根が真面目な方がとても多いので、そういう状態に陥る可能性も十分あるでしょう。しかし、「自分を責める」というのは仏法、真宗においては正しい方向性とは言えません。じゃあどういうこと?と思われると思います。それなら、こういう見方はどうでしょう。「悪を犯している自分
さて、以前から十悪・五逆という仏教でいう重い罪についてお話してきました。しかし、これら以上に深く重い罪というのが存在します。さて、何だと思われますか?ちょっと考えてみてください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・それは、、、「真実を受け入れようとしないこと」です。具体的には、「アミダさまがわたし(あるいはあなた)独りを救うということを
しばらくぶりに親鸞会での経験談です。今回は会内で有名な、横の線・縦の線問題です。T字を横にした図で、横の線をずっとたどっていって、その先にゴール(信心決定)である、縦の線があるのだよ、の図。この横の線については、多くの人がたくさんの問題提起をしてきました。わたしの仏法の師も、これは「非常に問題有りだ」と言われています。その一般的に言われている指摘は、「救いは『現在』あるもののはずなのに、時間をかけて線をたどっていってその先に信心決定がある、と
以前に、身口意(しんくい)の三業で、人は罪を作っていると言いました。身=体で行う(行動)口=口で言う(言動)意=心で思う(心持ち)具体的には、十悪や五逆という言葉を出して、こういったものが仏教的な罪だよ、と申しました。しかし、よくよく考えてみると・・・行動や言動で行う罪って、何が基になっていると思われますか?「心」でまず、こういうことをしよう、という意思が表れますよね。その心を基に、人間は行動や言動に移す、のだと考えられませんか?
タナトフォビアの皆さんは、「死」が怖いと思っておられるのですよね。少なくとも、そういう方がほとんどだと認識しています。このブログの始めの方で、「死ぬのが怖い理由」という記事を書きました。『死ぬのが怖い理由』皆さんは、なぜ死ぬのが怖いのですか?と、唐突に訊かれても答えるのは難しいでしょうか?死ぬのが怖い理由・・・答えは様々でしょうから、自分なりに思いついたそ…ameblo.jp『死ぬのが怖い理由②』もう一度、死ぬのが怖い理由を挙げてみましょう。①愛する
前回の問題として、「お聖教は独自の色を付けて解釈してはならない」との旨を大きく取り上げました。しかし、ここでよくよく考えてみるとそもそもどうして解釈の違いが個々人で生じてきてしまうのか、という問題点が浮かんできます。だいたい、世の中いろんな仏教学者、真宗学者がおられますが「オリジナルの色を付けて」文献を解釈しようという人は、ほとんど居ないと思います。自分の「主観を混ぜて」「独自の色を付けて」解釈するのは、それは、研究とは言い難いです。そ
親鸞という人のことは、今まで何度も出してきたので皆さんももう馴染みがあるかと思います。今日は、ある仏教の恩師の言葉に触発されて、ブログを書こうと思い立ちました。それは、「お聖教(しょうぎょう)」を独自解釈してはならない、というものでした。自分のオリジナリティを出して、浄土真宗でいう「聖教(キリスト教で言う聖書のような、聖典のこと)」を読んではいけない、読み解いてはいけない、というものでした。この意見、すごくもっともだと思います。基本的
タナトフォビアの皆さん、救われるためにはまず自己を徹底的に見つめていくことから始まる、と言えます。自己の内面を、です。そして自己の深奥を見つめていった結果、出会うのは「絶望」です。しかし、絶望を経てこそ、真のお救いがある、ということが言えるのです。ここで、自己の内面を見つめることを、普通は「自覚」と言ったりしますが、ぼくはこの言い方に違和感を強く感じます。なぜなら、この本来の真宗的行為は「自分の力で」自己を見つめゆくことではないからです。
阿弥陀仏・阿弥陀のことをぼくは「アミダさま」と呼んでいます。アミダ、とカタカナで書くのはぼくの周りでも珍しく、あまり深い意味は無いのですがなんとなく親しみが湧くのでそう記しています。では、「さま」と付けるのはなぜなのか。これも、最高に尊い存在だからそう呼んでいるのですが、これも、親しみが湧くのであえて「ひらがな」で書いています。それでは、「さま」と書く以上、阿弥陀(仏)は、人格なのか?これは、実はちょっと難しい問題です。結論から
この、シリーズそろそろほんとうに始めようと思っています。ひとつ、申しておくことは、ぼくは「他の哲人たち」の思想の奥深くには触れてきていない、ということです。ハイデガーの『存在と時間』、サルトルの『存在と無』といった、超難解な本は読んでいない(読もうとしても読めない)のです。最低限、これらの入門書とかはできる限り読んでおくようにしますが、しょせん、その程度です。あとは、ネット、特にAIチャットにすごく頼ることになります。そこをどうぞよろし
英語で、「信じる」は、なんと言いますか。そう、ほとんど中学生以上の方ならお解りかと思いますが"believe(ビリーヴ)"ですね。しかし、believeには実は他に重要な意味があります。・・・・・・・・・そう、表題に書いた通り、「思う」です。あちらでは、ニュアンスこそ違う、そう、やや重い感じになるようですけど、普通に"Ithink"の代わりに"Ibelieve"というみたいですよ。これは、英語だけの現象ではありません。
さて、親鸞会に「どっぷりではなく」浸かる生活は進んでいきました。高森会長は、「絶対的存在」でした。少しでも会長を貶めるようなことを言おうものなら、たいへんなことになります。もちろん、会長の発言をちょっとでも歪めるようなことを言っても許されません。「傍法罪」だと言われて、無間地獄に堕ちる、と脅されていたと思います。しかし、教えの中でぼくは非常な違和感を覚えることもしばしばありました。それは、「善の勧め」です。親鸞聖人のことを日本史で習い
タナトフォビアの方々が集うという、タナトフォビアカフェ第1回に行ってきました。主催者はバリバリのタナトフォビアの浦出(うらで)美緒さんという方。以前からXでF-Fの関係であり、浦出さんが初めての本を上梓された際、初めてコンタクトを取ってお知り合いになりました。(そのご著書はこのブログでもご紹介しました:気になるお方は記事を遡って見てみてください)医科歯科大学卒で東大の院卒という、飛び上がるほどの経歴をお持ちです。おまけに美人さんで、髪色はピンクとい
宗教、基本的に好きではないのです。ぼくは大学院時代、「宗教学・比較思想学専攻」というところに居たのですが、この名前も実は嫌に感じていました。「宗教学」には何の関心も無かったからです。いや、もう少し丁寧に言うと、宗教学には、いろいろ細分化された分野があります。宗教哲学・宗教現象学・宗教心理学・宗教社会学・宗教民俗学、、などです。このうち、ぼくの関心の深いのは宗教哲学と宗教現象学と一部の宗教心理学だけであって、他は眼中に無い感じでした。宗
こーれを、しっかり書くのを忘れていました。わたしが一般の方とどう違っているのかは、数回前に述べさせていただきましたが、さらに、死を何とかして乗り超えたわたしの現在の「心境」を書かせてもらいます。まず、何度か言ったと思いますが死ぬことが「完全に」怖くなくなったというわけではありません。それは、煩悩による怖さ、また、本能による怖さ、が残っているからです。煩悩による怖さとは、感情的なもの、感覚的なものと言ったら少し解りやすいかもしれません。いろいろなもの
仏法において、生きとし生ける衆生は、生まれ変わり死に変わりすると言われています。それは、無始の過去から、永遠に近い未来へとずっと続いていくとされています。(極楽浄土に生まれない限り)タナトフォビアの皆さんは、死んだら無と思い込んでいる方、多いですよね?しかし、少なくとも仏教観においてはそうではないのです!これは少しだけ、希望になりませんか?死んだら無。これは以前のぼくが思ってたことでもありますが、ひどく戦慄して生きた心地がしないほど恐ろしいですよね。
以前にも言ったと思いますが浄土真宗の教えにおいて「善行」をすることは一切、必要ありません。他の宗教・宗派はだいたい同じようなことを言います、「善をして功徳を積みなさい」と。真宗では、救われるためには善は「まったくしてはならない」のです。そこまで言うか、と思われるかもしれません。しかし、そうなのです。と、いうか凡夫には善などできません見せかけの善(雑毒(ぞうどく)の善)しかできないのです。しかし、これも以前申したように、雑毒の善は、社会生活を円
新たなシリーズ「親鸞と他の哲人の比較検討」を始めるにあたって、またこのシリーズにかかわらず、浄土真宗の信心において重要な概念というかキーワードがあります。別にこの言葉がどうしても解らないからといって信心獲得ができないというわけでは全くありません。元は、西洋哲学の概念なので、浄土真宗とは直接は関係ありません。ですが、知っておくととてもすんなり身体に沁みこむといいますか、信仰の一助にはなる言葉です。一見すると難しい言葉に響くかもしれませんが、繰り返しますが浄
こんにちは。今日は、阿弥陀仏に救われたと言っているこのセレニテが、つまるところ一般の信心を持っていない方とどう違うのかを、お話したいと思います。結論から言うと、わたしは死後、極楽(浄土)に行くことが決まっています。そして、その極楽で、仏とならせていただくことも決まっています。これだけは、ブレないところです。よくそんなこと言えるな、と思われるかもしれませんが、これはこうなのです。その他の、たとえば、・因果の道理についての不審・前世が
みなさんこんにちは。本日は新たなシリーズを開始しよう、という試みをお伝えしに来ました。それは、「他の哲人たちと親鸞の比較検討」というものです。純粋なタナトフォビアの方々には、少し遠く感じられる内容かもしれません。しかし、なぜ他の宗教者・哲学者・心理学者・神学者、でなくてあえて「親鸞」なのか。ここはタナトフォビアの方も気になられることかと非常に思います。そのためにも、このシリーズもご覧になられるとうれしく思います。親鸞と比較してみる予定の哲人た
諸事情にて2か月以上空けてしまいました、すみません。わたしの最も尊敬する師、光雲先生をご紹介いたします。彼女のおかげで、わたしは絶望の死の恐怖の人生から救われることができました。先生無くして、今のわたしを語ることはできません。正に、「善知識(ぜんじしき:仏教の恩師)」ですね。それでは、まずは彼女のサイトです。koun18.com–「いつ死んでも大丈夫な人生」について、久保光雲がお伝えします。koun18.comここを熟読するだけで
実際、千里も道のりがあるわけではありません。述べてきたように、ほんとうのほんとうは救われるのは「ただいま」であるはずですから。しかし、現実的には、なかなか救われない方々もおられます。でも、この死の解決への道が誰もが初めは「疑い」から始まる、ということは言えます。世の中ほんとうにたくさんの宗教がありますが、「疑い」から入る宗教というのは、ぼくも他に聞いたことがありません。どこぞの宗教も「信じる者は救われる」と、いうではありませんか。ただ、求道のうちで
わたくし、とんでもない誤報をこのブログで伝えてしまいました。亡くなったのは●ではなく、犬でした。黒丸にしたのは、覚えている方は思い出してください。さすがに一度死んだことにした人のことをもう一度書けません。よく解らない文章ですね、いろいろと推察をお願いいたします。さて、愛犬が亡くなりました。ぼくにとっては遠くに住んでいた犬だったので、実感はほとんどありません。でも、たまーに帰省して、会えた時はすんごくかわいくてとってもかわいがってあげまし
結局、善は何一つできないわたしたち。ということは今まで再三述べてきました。そもそも、善はできないのだから、善をして死から助かる、ということはあり得ない、ということも申し上げてきました。じゃあ、悪に向かって悪をし放題でもいいのか、というとそれも違います。あくまで人間社会における、善や悪といったものは存在します。悪をし放題では、社会がつぶれてしまいます。こういった善悪を、相対善や相対悪と呼ぶことにしましょう。人間社会(娑婆)での善悪は、あく
タナトフォビアの皆さん、念仏を称(とな)えてみましょう。念仏とは、主には「南無阿弥陀仏」のことを指します。読み方はいろいろあり、お好みのものをどうぞ。・なむあみだぶつ・なもあみだぶつ・なんまんだぶつ・なんまんだぶ・なんまんだ・なまんだ←お忙しい方におススメ・なまんだぶつ・なまんだぶ…なんでもいいんです、中にはサンスクリット語で・ナーモ・アミターバと、あえて称える方もおられます。ここで、あらかたの反
さて、親鸞会に入会したはいいものの(?)ぼくはいろんな点において会内で違和感を覚えるのでした。独特の不自然さ。たとえば、新入生勧誘(巷では新歓、と書くのが普通ですが親鸞会内では新「勧」という字を使いました)のときの導入的ご法話(といっても、新入生にはご法話とは言いません。東洋哲学を学ぶ会、などのダミーサークル名を使って勉強講座として知的好奇心を煽るような形で成されていました)で、講師の方(院生と名乗った専任講師)が大して面白くもないギャグめいたことを時折
煩悩と本能。発音が似ていますね。アクセントは違いますが。仏法的に考えると、この2つはどうも連関しているようです。わたしは、「ある意味で」死の恐さを乗り越えた、と言っています。それはあくまで「ある意味で」なのです。たとえば、不注意で道路で車とギリギリすれ違ったとします。そんな時、わたしはヒヤリとします。ああ、怖かった、と感じます。このように、「本能では」死をやはり、恐れています。もし、本能による死の恐れが無かったらどうなるで
阿弥陀仏?それもいろんな仏のうちの一つでしょ?それがなんで真理と呼べるの?と思われる方々、多いと思います。また、ホトケかなんか知らないけれど、それだけが真理などと、よくも言えたもんだ。と、のっけから仏、仏法を否定する人も(ここまで読んできても)居るかもしれません。また、多いのは相対論的に「ああ、あなたは仏や阿弥陀仏といった存在を真理と思うのね」と思う人も、もちろんおられることでしょう。そういう方なら今回の記事は必見です。答えは割