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「人間は永遠の生命を持つ魂の存在である」とGLAの祖師、高橋信次先生は説かれた。信次先生は48歳という若さでご自分のかねてよりの予言どおり、いわゆる”あの世”へと旅立って行かれた。(GLAでは”あの世”の事を”実在界”と呼び、”この世”の事を”現象界”と呼ぶ)信次先生が実在界へと旅立たれた後、娘の高橋佳子先生(当時19歳)が後を引き継ぎ、”魂の学”を世に広めるべく様々な活動を精力的に始められた。佳子先生はその活動の一環として19歳のころから多くの著書を出版されて、今ではその数90
日本人にとって死というものは、おそらく言葉や近親者の死というものにおいて理解をしているだろう。しかし、そういうものに特定せず人の死というものを見つめたことがある人はごくわずかだと感じる。ましていわんや、自らの死というものを直視する日本人がどれほどいるだろうか。おそらく、自らの死を意識できた人は、癌を患い余命を宣告された人々のような状況でなければ、自らの死を直視し受け入れることは、まずないといってよいだろう。ただし、今日の日本で自殺が年3万人を超えるという時代
2026.6.26おはよう御座います💐池田清彦さんの「老いと死の流儀」扶桑社新書950円+税を読み終えました📚2026年読書記録116冊目。以下本書から一部引用します🐰〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「老いる」ことによって思うようにできなくなることがある一方で、老いた今だからこそできることもある、ということです。「老いる」ことを否定的に考える人は、なんとかそれに抗おうといろんな努力をしたりしますが、「老いる」のは自然の摂理なのですから、止めることは不可能です。老いはそもそも「仕方のないこと」なの
東京都美術館で開催中の「アンドリュー・ワイエス展」でこれは、と思う作品、《ハイ・スツール》の主観レビューをお届けします。画面を見ると、中央左に高いスツール、壁には吊られた白いパレット、床には立てかけられた額縁のような板が置かれています。人物は存在しませんが、光の入り方や物の配置によって、「今しがた誰かがいた」ような感覚が漂っています。この不在感が、作品全体に静かな喪失感を与えています。ワイエスは1980年代、老いや死を意識する時期に入っていましたし、長年のモデルや親しい人々の老い・死
アナタは・・・殺す…と言うコトをどこで学びましたか?ボクは東京生まれの東京育ちですが…小学生の頃にボクらが育ててた鶏を用務員のおじさんが『絞めて捌く』をやらかしてボクらはトラウマになりましたさすが品川区の学校とは言え…昭和の時代らしいとは言え…当たり前な出来事とは思えなかったのは確かで「なんてコトを…」でしたなんとなくは『死』は理解してたが『死』を知ると同時に『殺す』を叩きこまれたって感じでした動物を育てる…と言うコトは続きがあると知りましたボ
こんにちは!昨日の記事、たくさんの方に読んでいただきまして、本当にありがとうございます!また、同時に、TALES連載中の物語も、拙い表現力にも関わらず、たくさんの方によんでいただきまして、本当に感謝しております。先週の土曜に、15歳になる愛犬が亡くなり、日曜日にお葬式を終えました。ということで、今日は、死の受け入れ方について書いてみようと思います。死について。死は、私には、とても身近なものです。私は、いかに死ぬか、を、なんとなくシュミレーションしています。愛犬を飼
母からの知らせで父が入院したと聞かされた自分では歩けないほどになってしまい入院することになったらしい1週間前には外食もして元気だったからまさかこんなことが起きるとは誰も考えていなくて…数ヶ月前から痴呆の症状も出始めていたらしく検査をしないといけないなと思っていた矢先にこのような状態になってしまい母もどうしたら良いか不安だろう追い打ちをかけるよに医者に言われた一言がさらに動揺させているそれは父の治療方針をどうするか『延命治療をするか否か』と聞かれたら
(物語)もう1度扉が向こうから押されました。人間の限界を超えた最後の努力もむなしく、扉は左右に音も無く開きました。『それ』が入って来ました、そしてそれが『死』でした。アンドレイ公爵は死にました。ところが死んだ途端に、アンドレイ公爵は自分が眠っている事を思い出しました、そして死んだまさにその瞬間に、力を振り絞って目を覚ましました。『そうだ、あれは死だった、俺は死んだーー途端に目を覚ました。そうだ、『死』は目覚めなのだ。』と、ふいに彼の心の中に閃きました。そしてこれまで知り得ぬもの
東京都美術館で開催中の「アンドリュー・ワイエス展」でこれは、と思う作品、アンドリュー・ワイエス(1976)《松ぼっくり男爵》福島県立美術館蔵の主観レビューをお届けします。画面中央に古い鉄兜が置かれ、その中に大量の松ぼっくりが入っています。周囲には赤茶けた松葉が積もり、冬へ向かう空気感が漂っています。松ぼっくりは一般に、種子を守るもの、繁殖・循環、生命の継承を連想させるモチーフです。しかも本作では、鉄兜の中に入っています。鉄兜は本来「戦争」や「死」に関係するものですが、その内部に生
東京都美術館で開催中の、「アンドリュー・ワイエス展」でこれは、と思う作品、アンドリュー・ワイエス(1964)《ブルーベリーのバケツ》ユニマットグループの主観レビューをお届けします。本作は、画面右側の白い棚の上に置かれた金属製のバケツ、その中のブルーベリー、そして左側の窓だけで構成されています。構図は簡素ですが、その分、物の質感や空気感が強調されています。ブルーベリーの入ったバケツは、窓から入る光に照らされているため、室内でも明るく、「生」のエネルギーが溢れています。これは、ブルーベ
■ある事をやめた人から死んでいく詳細は動画でどうぞ。オカルトやホラーではないのですが、怖い動画かもしれません。恐らく実話ではなく、創作か、フェイクが入っています。動画はAI生成ですね。*■もういいスイッチ「『もういい』と生きることをやめるスイッチを入れてしまう。」この動画では70代から、となっていますが、これって若い人でもそのスイッチを入れてしまう人が居るんじゃないかと思いました。その兆候はきっとその随分前から発しています。周囲が
死とは何かをこれから話しますが、うまく伝わらないかもしれませんそれでもお話しさせていただきます死とは古いものを脱ぎ捨てて、新しいものへと変化することです死は無くなることではありません死とは変わること、です変わるものは全部で三つありますまず一つ目に変わるのは身体です死によって身体が無くなることはみなさんよくご存知だと思いますでも新しい身体が代わりに出来ることは知らないと思いますこの身体は今の地上で生きていた時に使っていた物質の身体と違う、非物質の霊というエ
⟡.·*.··············································⟡.·*.✨🍀本日の一転語🍀✨【死別の時】死はとても悲しいものだ。そして、切ないものだ。生ある限り、生物は生き続けたいものだ。人間とて同じ。生き続けんとして、いつしか、病か老衰につかまり、死の使者に連れ去られる。死は、夫婦の仲を引き裂き、親子を会えなくしてしまう。愛別離苦の苦しみを、頭では理解していても、やはり、ハラハラ、ハラハラと、涙は、とめどなく
私は何回か自殺未遂をしている。その時は本気で死にたかった。生きているのが苦しくて、未来も見えなくて、死ぬことしか解決策がないように思えた。でも結局、私は死ねなかった。今もこうして生きている。正直、毎日辛い。朝起きた瞬間から気分が重い日もあるし、将来のことを考えると不安で仕方がない日もある。何のために生きているのか分からなくなることもある。無職で社会との関わりも少なく、一日中家で過ごしていると、自分だけが取り残されているような気持ちになる。死にたい気持ちが消えたわけではない。今でも時々、
残された時間って後どれくらいあるんだろうもしかしたら生きていられる時間はもうあまり残されていないのかもしれないいつ終わりが来ても運命は受け入れなくちゃいけないから…でもね…今日に後悔さえしなければ例え明日が来なくてもいいんだよ毎日っていつか必ず終わりが来るまでのその繰り返しだから
東京都美術館で開催中の「アンドリュー・ワイエス展」でこれは、と思う作品、アンドリュー・ワイエス(1944)《クリスマスの朝》マイロン・クニン・コレクションの主観レビューをお届けします。丘陵地帯に一人の人物が横たわっています。人物は顔をこちらに見せず、白い布で頭を覆っているようにも見えるため、生者なのか夢見る人なのか、あるいは死や眠りの象徴なのか判然としません。ワイエス特有の「説明しすぎない」構図によって、観る者は物語を想像することになります。本作は、知人の女性が亡くなったことを知り
東京都美術館で開催中の「アンドリュー・ワイエス展」でこれは、と思う作品、アンドリュー・ワイエス(1942)《冬の野》ホイットニー美術館蔵の主観レビューをお届けします。まず目を引くのは、前景に横たわる一羽の黒いカラスです。乾いた冬草の中に倒れ込むように描かれ、その周囲には広々とした野原が続きます。カラスの体の曲線と、丘の曲線が呼応しており、死体が風景の一部へ吸収されているように見えます。つまり、カラスは「異物」ではなく、冬の大地そのものに回収されています。個体としての生命が終わり、
2012年の開高健ノンフィクション賞受賞作品です。ドラマ化・映画化もされた作品ですが、観ていないので前知識なしで読みました。異境の地で亡くなった人は一体どうなるのか―。国境を越えて遺体を故国へ送り届ける仕事が存在する。どんな姿でもいいから一目だけでも最後に会いたいと願う遺族に寄り添い、一刻も早く綺麗な遺体を送り届けたいと奔走する“国際霊柩送還士”。彼らを追い、愛する人を亡くすことの悲しみや、死のあり方を真正面から見つめる異色の感動作。第10回開高健ノンフィクション賞受賞作。
死ぬってどういうことなんだろう?「死ぬ」という言葉を聞くと、多くの人は「怖い」「縁起でもない」と感じるかもしれません。でも、命あるものは、生まれた瞬間から死に向かって生きています。人間も、動物も、植物も。すべての命に共通するゴール,それが「死」です。それなのに、私たちは「死」について深く考える機会をほとんど持ちません。むしろ、漠然と恐れて避けてしまうことの方が多いのではないでしょうか。
また死に向って不可逆的に進行する「老化」とは、エントロピー排出機能が低下し、細胞の代謝、特に修復機能が劣化することである。しかし、自身の老化は自身の死と異なり、その劣化を漠然と、あるいは明確に、ある人は不安と危機感を持って体感、体験することができる。かつ、その進行状態と、その先に待ち構える死を冷徹に哲学することもできる期間でもある。
「死」とは、体内秩序を維持するための、「エントロピー」を体外に排出し続ける活動が完全に停止することである。その結果、すべての体内細胞の代謝がストップし、すべての細胞の分解と腐敗が一斉に始まり、腐臭が発生し始めることである。このように人は死を生物学的に解析し定義づけることはできるが、残念ながら、自分自身の死を決して体感し、体験することはできない。ゆえに、その定義を自分自身に当てはめて認証することはできない。
※2022年3月6日に書いた記事の複製記事です。もしも今あなたが亡くなったら、「あなたの棺桶のふたを閉めてくれるのは誰になるのか」を考えたことはありますか?無いのでしたら、想像してみましょう。あなたの棺桶のふたを閉めて「一言も語ることのできなくなったあなた」の人生を語るのは一体誰なのか。その人は、どんな風にあなたの人生を語ってくれるでしょうか。あなたの生前を褒めてくれるかもしれませんし、
たぶん2016年ころのブログです*吉本ばななさんの『キッチン』(1991・福武文庫)をおそらく20数年ぶりに再読しました。前に読んだのはたぶんじーじが30代後半の頃、いい小説なのに、なぜかその時以来で、2回目ではないかと思います。この本もいつもおじゃましている精神科デイケアのメンバーさんにすすめられて再読となりました。驚いたのは、読みかえしても全く記憶が残っていないこと(吉本さん、ごめんなさい)。記憶力の悪さでは絶対の自信がある(?)じーじですが、ここ
「鏡に顔を映し老いと真剣に向き合う」静かですが重みのある一節ですね。鏡の中に見える変化をただ嘆くのではなく、自分の歩んできた時間そのものと向き合う姿勢が感じられます。老いは失うものとして語られがちですが、同時に積み重ねてきた経験や記憶の証でもあります。(ChatGPT)★しっかり向きあった後でないと宇井に自主的に対処はできない。醜さを受け入れる必要がある。顔の皴は決して情緒的に文学的に美化できるものではない。
誰もみんな死んじゃいたいなんて思ったことはあるとおもう。何もかもめんどくさくていなくなれたらどれだけ楽なんだろう考えてたでも今、生きているただ死ねる勇気がなかっただけ飲めばしねるよ飲み込む勇気がなかった飛べばしねるよ飛ぶ勇気がなかった今は微塵も感じさせないように当たり前に生きてる無駄に生きてるどうしても生きてなきゃならない人どうしても死にたくない人不公平が世の中で真面目にがんばったって、馬鹿をみて犯罪を犯したものが成功してのうのうと楽をしていきている不公平な
「生まれてから死ぬまで、ずっと幸せだった」そう言って、義母が亡くなりました。先日、ある患者さまがそう話してくださいました。そして、続けてこうおっしゃったのです。「私も、義母のように生きたい」と。その方はこれまで、「ちゃんとしないと」「無理、無理。私にはできない」という言葉が口ぐせでした。失敗することを恐れ、新しいことには挑戦せず、小さな枠の中で生きてこられた方です。けれど、義母の死を通して、その方は「どう死ぬか」ではなく、「どう生き
隣家が更地になった月初めに業者さんが挨拶に来て重機の爪音が響き振動が胸に堪えたそして更地になった解体が始まったころ朝刊にこんな俳句が紹介されていた『百人に死は百通り薔薇の香水』対馬康子(1953年~)まだ更地薔薇の香水を手向けようブログで「死」を書くことはタブーみたいだでも、そうなんだろうか・・・?迷ったが、書いておくことにする※、写真は隣家と何の関係もありません。念の為俳句は、6月5日金曜日朝刊の〈秀
2026年6月娘の目覚まし時計が止まった娘が入れ替えた電池3本人の体も電池切れになる。私もあとは死に向かっていくだけ。でも、若い時と同じように生を課せられる。なんてなんて過酷なんだろ。
★★★1953年生まれの阿川佐和子さんと、1955年生まれの伊藤比呂美さん。人生の先輩である二人の軽妙なやり取りを楽しく読ませて貰った。ポップな装幀が目を引き、シンプルイズベストな題名もいい。「初老のわれらのカラダ事情」「親の老いと死、見届けた」「非常識家族の葬送」「おわかれ博覧会」「仕事じまい、しません」5章から成る本作はどこを開いても身近な題材で、実にためになる。年齢を重ね、さまざまな不便や不都合はあれど、それらを受け止めてワハハと笑ってやり過ごす彼女たちにこちら