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■3月16日の産経電子版スクラップ20240316【産経抄】また米駐日大使の内政干渉.pdfdrive.google.com20240316【朝晴れエッセー】みかん.pdfdrive.google.com20240316【大谷夫妻ショータイム】.pdfdrive.google.com20240316【拉致問題の現場から05】独自制裁「解除」と「強化」併記・西岡力.pdfdrive.google.com20240316【風を読む・沢辺隆雄】教師も学びたくなる歴史授
今日も斎藤武夫先生の、歴史授業から明治の国づくりについて考えていきますアヘン戦争とペリーの来航。そこから藩を越え、国を思う志士たちにより、徳川幕府では、日本はもたないと、15年の混乱を得て、明治新政府がつくられた。…ということで、日本は、天皇を中心とした国になりましたが。ここで世界の中の日本の立場を確認していきます。世界では、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、アメリカの白人列強の国だけが、世界の独立国です。自分たちの国のことは自分たちで決められ
スマホが壊れてスクショが出来ず仕事とやることに追われしばらくブログを書けませんでしたがまた頑張りたいと思います私たちの先人たちは、外国からの圧力にも負けず、明治日本の国づくりを目標とし、そのための政策を必死に考えました。これから学ぶ時代の日本は、大きな戦争に巻き込まれていくわけですが。その戦争に負けたことで、誤った平和教育と、誤った歴史教育によって、私たちの祖国、日本の歴史は大きくねじ曲げられてしまいました。「日本史」なんていう変な枠をつくって、
今日も齋藤武夫先生の授業がわかりやすいので、そちらから話を進めます♪西洋の強い国に支配されないために、日本を守る!!そのためには、国内で争っている場合ではない!それは薩摩・長州藩、朝廷側も、幕府側もみんな同じ思いであった。徳川慶喜は、大政奉還たいせいほうかんを行い、みずから政権を朝廷にお返しするけれど、明治天皇のもとで、新しい政府をつくるとなった時に、慶喜も幕府のリーダー達もこれまでの政治を運営してきた智恵や経験、役人の組織など、幕府が積んできたもの
前回、日本国内では…幕府は尊皇で開国派。薩摩は長州藩と結び、尊皇大攘夷ということで、開国する方向。天皇を中心にまとまり、開国するという意志は両方同じだけれど…新しい国づくりにはどちらが政治を行うのかというところで別々のことを考えていた、というお話でした。そこで坂本龍馬は、勝海舟先生の言葉を思い出します。『日本人どうしでケンカをしている場合ではない』坂本龍馬は、薩長同盟で幕府を弱らせてから、薩長は幕府と戦わずに新しい日本をつくるアイデアを練ります。それ
前回の続きです吉田松陰の弟子の影響を受けた坂本龍馬は、外国人の言いなりの幕府を倒さなければ!と、幕府のリーダーである勝海舟かつかいしゅうを斬りに行きましたが…そんな龍馬に対し、勝海舟は、アメリカへ行って見てきたことなどいろいろな話をしました。アメリカでは国の政治は、選挙で選ばれた人物が行うので、身分や家柄がよいというだけでリーダーになれる国とは勢いがちがう。今のように、国内で戦い合っているようでは、日本が危ない。どっちが勝っても、日本全体で見たら、
今日も齋藤武夫先生の日本が好きになる歴史授業から、お話をします♪坂本龍馬は有名です。仲の悪い薩摩と長州の間を結び、幕府を倒すため、幕末に活躍した人物…けれども外国人のことなども合わせて見ると、いろいろなぞもあります。幕末のヒーローだ!と言う人もいれば、イギリスの武器商人の手下じゃないか!とマイナスのイメージを持つ人も…私には真相は、わかりませんが、日本をよくしようと情熱を持って頑張った日本人の一人ではないかと思います。これから何回かに分けて、坂
今日も齋藤武夫先生の歴史授業から学びます♪生麦事件の後、イギリスから、めちゃくちゃ高い賠償金の支払いを求められ、言われるがままに支払いをした幕府。それに対してイギリス人を斬った武士の引き渡しと、賠償金ばいしょうきんの支払いを求められた薩摩藩は、これを断った。こうして始まった薩摩藩VS大英帝国の戦い。薩摩藩は、城下町を焼かれ蒸気船も失い、工場も壊れ痛手を被こうむるも、イギリス軍艦の艦長と副艦長の乗る船の攻撃に成功して、イギリス艦隊を追い出すことに成功。
1862年、薩摩藩の最高指導者である島津久光の軍勢400名余りが、江戸から帰る途中、4人のイギリス人が馬に乗ったまま、久光のかごに近づいた。馬をおりて、何度も道をゆずるように、警告したにもかかわらず、イギリス人たちは言うことを聞かずに久光のかごに近づいた。だからお供の者たちは、お殿様をお守りするためイギリス人に斬りかかった。これは日本の法律では、許されること。けれどもイギリス人にしてみたら、単なる殺人事件でしかない一人は死亡。二人は重症。女性一人
前回まで、長州藩のお話をしましたので、齋藤武夫先生の歴史授業をもとにしながら今日から薩摩藩のお話をしていきます。幕末の政局は、幕府・薩摩・長州の3つのパワーで動いてきました。薩摩藩は幕府と結び、公武合体と幕政改革の道を歩んでいました。開国反対の朝廷の意見を無視して、幕府がアメリカと条約を結んだ!と怒った反対派の人たちを、老中の井伊直弼が処罰。うらみをかった井伊直弼は、桜田門外の変で殺される。そんなガタガタの幕府の権威孝明天皇の妹の和宮と、徳川将軍の家茂が
上海へ研修旅行に行き、イギリスに支配される中国を見た高杉晋作。このままでは日本も占領されてしまう!ということで、吉田松陰の弟子たちと共に必死に外国と戦おうと頑張りますが…1864年7月、四ヶ国連合艦隊が下関を攻撃し、それと長州藩は戦いますが、なんせ鎧兜よろいかぶとに弓ゆみと槍やり、鉄砲もあったけれど、火縄銃です長州軍はこてんぱに敗けてしまいました高杉晋作は、藩の家老だとうそをついて伊藤博文を通訳としてイギリスとの講和会議にのぞみました(^o^;)
今日から、齋藤武夫先生の歴史授業より高杉晋作についてのお話に入りたいと思います。高杉晋作(たかすぎしんさく)1839年に、長州藩の萩はぎに生まれる。そして15歳の時、黒船が来航。19歳の時に、吉田松陰よしだしょういんの松下村塾に入門。※松下村塾についてはこちらを見て下さい。『吉田松陰が牢屋で行ったこと』ペリーの船に乗って、アメリカへ渡ろうとして失敗した吉田松陰は、江戸の牢屋ろうやに入れられ、その後、長州藩の野山獄のやまごくという牢屋に入ります。萩市観光協会…ame
吉田松陰のお話の後、国外の情勢についてお話をしてきました。そこを頭に入れておいて、今日からまた、日本国内のお話を進めます。齋藤武夫先生の歴史授業の本から、もう一度、国内の動きを整理をすると…天皇の許しを得ないまま、アメリカと通商条約を結んだ幕府に対し、※条約後、日本の金が大量に流出!!それに反対して幕府を倒そうとする者たちを処罰するという安政の大獄が起こり、尊皇攘夷そんのうじょういの嵐がいっそう大きく広がっていきます。ふつうの人が持つ、この時代のイ
前回のお話のウィーン条約では…ヨーロッパの各国が、それぞれ、私はドイツ人、私はフランス人…など、一民族ごとに集まって、それぞれの文化や言葉、伝統を守って、一つの国にまとまろう!という風になっていく。そこで困ったのがユダヤ人です。ユダヤ人というのは、戦争の絶えないヨーロッパの中で、土地をうばわれ、奴隷にされたり、差別されたり、大量虐殺ぎゃくさつに合い、そこから逃れるために、いろいろな国へ移住していた民族。国を滅ぼされてしまい、自分たちの土地というもの
次回は高杉晋作のお話…と言っていたのですが(^^;その話に入る前に、これから日本が…というより長州と薩摩が戦うことになる国、大英帝国だいえいていこく(イギリス)について、今日は倉山満先生の講義からお話をしたいと思います♪そしてその次の回で、そのような世界の中でものすごい力をつけてきた財閥についてのお話して日本史に戻ります。アヘン戦争について前にお話をしたので、イギリスが、どれだけ恐ろしい国であったか、というのは何となく伝わっているかと思いますが…『
前回までのお話に続き、今日は吉田松陰について、最後に手紙をご紹介したいと思います。日本にとって、不利な条約を外国と結ぶことに反対し、日本を西洋と対等に付き合える強国にする!という強い意志を持って吉田松陰が行動を起こしましたが、再び牢屋に入れられて処刑されてしまいます。このようなことが起こる前に、高杉晋作たかすぎしんさくは、吉田松陰に男子の死ぬべき所はどこかという質問をしました。ところが松陰はその時、質問に答えていなかった。死刑になるという時、晋作に返
今日も吉田松陰について、前回に続き、齊藤武夫先生の日本が好きになる歴史の授業を参考にお話をしていきます松陰が牢屋を出て、松下村塾で教えていた頃…アメリカにとっては有利、日本にとっては不利な通商条約の話がハリスとの間で進められていました。吉田松陰は、開国派?攘夷派?どちらの意見だったのでしょうか?幕府側に攘夷を求める朝廷に対して、松陰は意見書を出します。鎖国を守るという考えは、一時的には無事に見えるが一時しのぎのやり方で、とうてい日本の今後を考える大
ペリーの船に乗って、アメリカへ渡ろうとして失敗した吉田松陰は、江戸の牢屋ろうやに入れられ、その後、長州藩の野山獄のやまごくという牢屋に入ります。萩市観光協会公式サイトよりお借りところが、松陰が入ると、この牢屋におもしろい変化が起こりました!生きる希望を失って、亡霊のようになっていた罪人たち。松陰はそんな彼らに道徳や学問、そして今、日本が迎えている危機と、日本人ならどうするべきかなどを教えました。そして彼ら自身にも、習字や俳句など得意なことの先生をや
江戸時代の終わり、アメリカのペリーが黒船でやって来て、日本は開国をせまられて、開国をした。そして日米和親条約の細則を決めてから、両替相場でだまされてとんでもないことに日本が通貨として使っていた小判を国外へ持ち出し、メキシコ銀貨に変えると、メキシコ銀貨が何倍にも増えていく。こんなことをされて、日本の金は、どんどんうばわれてしまったそのために、日本国内の経済は混乱し、どんどん貧しくさせられていったそして不平等条約により、治外法権ちがいほうけんが認められ
江戸時代は、今の一万円札のように庶民でもお金として持っていた小判。ところが、日本がアメリカと和親条約を結んだ後、タウンゼント・ハリスの日米和親条約の細則によって、両替相場を固定され…ほんの数年で一気に小判が国外へ流出してしまい、国内は大混乱だったこうして幕府への不満が高まっていったというお話をしました。一方、日本からジャンジャン金を流出させて、大儲もうけをしたアメリカ。この条約の細則を決めたハリスの親分だったのが、アメリカ合衆国(北部)のリンカー
前回のお話までで、日米和親条約は、日本とアメリカは仲良くやっていきましょう!と、とくに問題はなさそう??な条約で…その後の、不平等条約と言われる日米修好通商条約がまずかったそんなお話をしました。NHKforschoolよりお借りけれども実は、日米和親条約でも大問題が起きていたというのが今回のお話。この条約が結ばれた後、日本のお金と外国のお金、どういう比率で交換するのか??ということが決められました。なんと、これによって、日本の金が、一気に外
前回に続き、齋藤武夫先生の日本が好きになる歴史授業からお話をします白人列強の大変な世界に飲み込まれて行く日本。ここで世界の構図を確認していきます白人世界から見た日本は、野蛮国で、差別されても仕方ない。イヤなら戦争だ!そこで日本は、う~ん…と苦悩を抱える。しかし、条約は結んでしまったこの時の世界の構図を齋藤武夫先生は、学校の生徒にノート書き写してもらい、しっかり頭に入れる。イギリス・ロシア・フランス・オランダ・アメリカなどが世界を支配していて、彼ら
今日も齋藤武夫先生の日本が好きになる歴史授業からお話をします♪阿部正弘は、なんとか日米和親条約だけでねばったものの…やはり、それだけではおさまらなかったアメリカの一番の目的は、通商(貿易)。アメリカの領事館が下田にできて、江戸城に、早く交渉しろ!と強い要求をしてくる老中という役職は、堀田正睦(ほったまさよし)に変わり、彼が対応していくことに。そこで堀田正睦は、孝明天皇に、外交問題のご相談をする。孝明天皇通商条約を結びますが、天皇のお許
今で言うと総理大臣のような役の老中首座である阿部正弘あべまさひろは、二度目のペリー来航で日米和親条約(1854年)を結ぶ決断をした。その内容は…下田と函館、二つの港を開港して水や食料、薪まきなどを捕鯨船ほげいせんに供給する。それから漁民は助ける。下田にアメリカの領事館を置いてよい。という条約を結んだら…とたんにオランダ・イギリスロシア・フランスも『おれのとこも結べ!』とやって来た結局、一つの国と結んだら、全部の国と結ばなければならないしかし阿部正
前回の続きで、CGSの目からウロコの歴史や、日本が好きになる歴史授業からお話を書いていますこう言って江戸近海から去って行ったペリーは、実は怖くて他の海岸には近づけなかった。江戸は世界で最も大きな人口をかかえた都市。アメリカの大砲を花火とまちがえた民衆は、よろこんで大勢で海岸に集まってきていたので、「すごい人数の兵隊だ」と、ペリーたちもかんちがい。怖くて他の場所には上陸できなかった。だから『一年後に出直してくれ』と言われた時に、おとなしく引き下がったと
前回の続きです。黒船来航で、江戸の町付近でドカン、ドカンと空砲を打ちまくるアメリカの船。そこで対応したのが今の総理大臣のような立場であった、この人。江戸を大砲の攻撃から守るために、彼は法をやぶって、アメリカ大統領フィルモアの国書を受け取ることを決断。そのアメリカの国書にはこのようなことが書かれていた。一番目は、日本とアメリカは、仲良くしましょう。二番目は、貿易をやりましょう。三番目は、捕鯨漁船ほげいぎょせんに石炭と水、食糧を供給してくれ。四番
学校で習った歴史では、生活の苦しい農民から無理やり税を集めて独裁政権をしている江戸幕府は、自分の地位を守るために鎖国をしていたけれど…黒船がやってきて、文明の遅れていた日本は、立派な船に、大砲もつんでいて、とてもおどろいた。これはとても逆らえないということで開国した。これでアメリカと仲良く貿易ができて、新しい文化も取り入れることができるようになり、良かったね、めでたし、めでたし…というようなイメージだったと思いますが、みなさんはどうでしょう?でも…
前回、アジアやアフリカを植民地支配していく西洋列強のイギリスに、中国の清という国がボコボコにやられてしまったというお話をしました。この時代からは、日本は世界で生き残っていくことができるのか?負ければ地獄じごくの大変な時代となります。こうした恐ろしい状況に立たされた先人たちは、必死な思いだった。ただ、戦争反対!と言っていれば平和がおとずれるようなそんな状況では全くない。もし、先人たちが平和を守るために必死で戦ってくれていなかったら?今はただ、強い者が
今日は、小名木先生の講義から、齋藤武夫先生の授業も取り入れながら、前回の続きをお話します前回、イギリスは、国家ですらも海賊かいぞくを雇やとい、世界を植民地化しながら、力をつけていった。そこで財を得た者が、金融屋(銀行家)となり、植民地で稼いだお金を今度は企業などに貸し出して、それが産業の発展につながっていった。そのおかげで、物を大量につくることができるようになったのはいいけれど、借りたお金は、利息をつけて返さないといけない。もっともっと物を売って、
前回のお話は、モンゴル帝国の後に、オスマン朝トルコが大きくなり、地中海で貿易ができなくなった、スペイン、ポルトガルがアフリカや大西洋の方へ(香辛料など資源を求めて)出ていった。その裏にあるのが金融屋彼らがどんどん海賊かいぞくにお金を貸して、そのお金は利息をとって返してもらう。そうして大きな力を得ていった、という話をしました。引き続き、CGSの目からウロコの歴史から、お話をさせていただきます。最初はスペインとポルトガルが、そのようなことをしていたけ