ブログ記事11件
【第四篇新唐書日本伝の史料批判―旧唐書との対照】古田武彦著『九州王朝の歴史学多元的世界への出発』の中から、ここでは第四篇新唐書日本伝の史料批判―旧唐書との対照を取り上げようと思う。構成は以下のようになっている。一客観主義(外国史書の記述するところを基本にし、古事記・日本書紀の所述に対して批判的に検討する。)に立って新唐書の史料批判を行う。二旧唐書の「倭国伝」「日本伝」に対する史料批判三考古学的事実との対応「前方後円墳」問題「装飾古墳」の問題
闇は脈々と続いてるこの本に書かれているヘドニア(快楽)と多幸感をコントロールする治療(実験)は、非常に気にかかる。極細ガラス針電極など刺し込まなくても、遠隔ワイヤレスで同等のことを実行している犯罪組織が、存在するからである。(非侵襲性)テクノロジー犯罪被害者は、読んでおいて損はない。被害周知や説明に役立つ。※拷問のような不快な手術や治療シーンの描写が登場するため、苦手な方は注意。
墨田区向島の銘菓長命寺桜餅向島は歴史のある料亭も多く、開発したいスポットである。歴史性、味香。そして、いまでも美しいその姿。今こそ見直されるべき銘菓中の銘菓です。^_^
単なる演繹推論というものは単に仮言的であって現実の認識を与えることはできぬ。現実の歴史性は、必然性として演繹的に推論することを容さざるいわゆる歴史的偶然性を含み、ただかくあるが故にかくあるものと認めなければならぬ意味をもつ。演繹推論の前提も実はかかる現実に媒介せられるのである。従ってこの前提に拠る演繹は一種の循環論に外ならないのであって、すべて歴史的現実の認識は循環論的交互態たることを免れ得ない。130時の構造に即していえば、未来に向かう不断の革新が実践的に行ぜられることが、過去をいよいよ深く
生き方や思想の多様性を認め合うことが、これからの社会で重要だという主張が、いま、世でしきりに唱えられているようだが、もちろん、誰も、「多様性」そのものを目指しているわけではない。あくまで、自分の納得する自分の在り方を見いだそうとしているのみである。各自がそれを探求することが多いほど、結果として、人間の在り方の「多様性」が生じる。その実体は、各自の「歴史性」である。各自の、実存的に生きる真摯さを前提としてのみ、「歴史性」は在り、その結果としての「多様性」のみが、意味をもつのである。だから、実際
アランの言うように、思想はその最良で不滅の部分は美であるのなら、思想はただの分析やアイデアからは生れない、ということだ。思想は魂の本質的なものを証言することに窮極するものである。この意味で真の芸術と等しい。また、そうであるのなら、思想も、美も、「根源的に歴史的」であることが、その本質を成すのである。ともに、「具体的な根」というものに基づくものである。「魂」がそうなのである。魂が「根源」であるということは、「歴史性」に徹することによってしか真の「普遍」は感得されないということである
人間は自立的に生きるためには哲学をもたなければならない。そうしなければ不本意に関わっている他者たちの意向との関係に絡まれたまま生きなければならない(これほど不快なことはない)。ここでいう「生きる」とは意識生活のことである。ところで「哲学をもつ」とはどういうことであろうか。「もつ」の意味に慎重であらねばならない。それは自己の「存在」と「所有」との間に架けられているような意味をもっている。自己の哲学が真正なものである場合、借りてこられたものでない場合、それ(哲学)は自己の根源から汲みとられたもの
2016年04月10日(日)04時39分58秒テーマ:自分に向って合理主義哲学の祖と云われるデカルトは、思想の「普遍」主義者として、もっと教条的な書き方もできたろうと、一般は思うのか。ところが、この真の合理論者は、自己の「歴史」を語ることをもって、自分の思想がどのように自分の精神のなかで生成していったかを、まず世に示す必要があるとかんがえた。「普遍」と「歴史」、この、「人間思想」においての関連をぼくはよく承知しているが、人文的次元においてのみならず、歴史性を媒介せずに本質が普遍性を持つ
倫理が人間の人格尊重に基づくものならば、倫理は、人格への正しい態度に終始すべきである。そしてこの正しい態度は、個人の歴史性の尊重に終始すべきものである。歴史性とは、個人が自己自身となる実質過程である。歴史性とは、自由そのものである。人格への正しい態度とは、具体的な人格にたいして、正しい判断態度を保持することにほかならない。人格にたいする正しい判断、これこそ全倫理の本質事である。この、正しい判断は、いま法律が問題であるのではないから、或る一定の規範によって具体的人格を判断することを自らに禁じ
(1)処女降誕処女降誕の可能性◆聖書には両親から生まれなかった人が存在する。アダム、エバ(新共同訳)アダム:主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり※ヘブライ語で、土は「アダマ」、人は「アダム」※アダマの塵からできたからアダム。アダムは固有名詞と思うが「人」という意味で、固有名詞にもなっている。エバ:人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。※アダムの肋骨を取ってエバができた。男性の肋骨の数は、女性よりも1本少ない。。。なんてね。沖縄
自分の歴史を語っている。貴重な節である。昨日、自発的に6接続されている。このところ、嘗て元気な頃(それでも既に耳疾患に苦しみながら)書いた「限界状況経験の本質」が丹念に読まれているようだ。この論文には、この欄に収録の際、現在の地点から、所々、今の自分の感想を(特にこの節には、心底言いたいことを相当)添えている。いずれにしても感謝である。2015年11月12日(木)23時30分00秒テーマ:限界状況経験の本質(ヤスパース論考)二歴史的規定性としての限界状況『実存開明』