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2024.4.1.ずっと行きたかった「長篠城跡」へ長篠城と言えば!武田軍が包囲し、徳川軍と激しい攻城戦を繰り広げた舞台です現在残っている城の遺構は、ほんの少しだけど、歴史的に有名で、価値のある長篠城は想像も感情移入もしやすいね土塁と堀が素晴らしい線路が城域を、ぶち抜いてる土塁跡一番角っこの所(野牛曲輪)時間の関係も有って隅々までは見て回れなかったけど大満足そして、やっぱり鳥居強右衛門長篠城の英雄です有名な話ですが簡単に『武田
数年前『おんな城主直虎』と言う大河ドラマで人気となった井伊谷その、井伊直虎と言う人物が居た唯一の証拠となる文を所蔵していたのが蜂前神社です大河ドラマでの場面でもあった「徳政令」についての文書です井伊直虎「花押」が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」(いいなおとらせきぐちうじつねれんしょじょう)」(浜松市指定文化財)は現在浜松市博物館にて保管されています。当時、花押は身分のある男性が用いるものであったことから、直虎が男性として振
徳川家康の出世の城、浜松城そして、GETした御城印それから所縁も少し紹介です浜松城と言えば前身の『曳馬城(引間城)』から浜松城を築城する前に在ったのが引間城。そこを拡張して浜松城を築城したのです現在は、「元城町東照宮』が鎮座しています。この辺りには、家康の住居が在ったそうで、今は御城印所と飲食店が在ります引間城の御城印は、2種類(家康公&お田鶴の方)家康公の方を購入(玄黙口)浜松城の城門が在った所。三方原の戦
2024.4.1.~4.2.今月のお出かけは~と考えていたら!ちょっと思いがけず泊りで行ける事にと言うのも、春休みの息子が泊まりで遊びに行く日と重なり、どうせなら自分も泊りでって事に妻は一人でのんびり羽休めいろいろ行きたい候補地はあるけど、もし!雨降っても問題なく巡る事が出来る遠州へ新幹線を乗り継いで到着したのは「浜松」結局!めちゃ天気の日でした先ずは、やっぱり🏯浜松城へ浜松駅からは、レンタカーで巡ります徳川家康公の像浜松城の🏯天守は、模擬天守だけど
2024.3.5.ずっと!行きそびれていた細川藤孝のお墓参りへやっと、行ってきました南禅寺の塔頭の天授庵。細川藤孝が再興し、菩提寺としました(細川家の墓)細川藤孝の墓(廟)へ廟の中に五輪塔があり、妻と一緒の夫婦墓となっている様です。有名な武将なので、説明書きは割愛します隣には、細川忠利の遺髪墓も(忠興の息子で、藤孝の孫になります。)
建仁寺から徒歩6分立食い蕎麦suba(すば)へお店分かりずらく一回通り過ぎましたsubaInstagram京春菊天にしました!温泉♨️なるとが可愛い蕎麦の出汁が黒くない!衝撃です。とっても美味しいお出汁せっかく京都に来たのに昨日から立食いしか食べてない美味しいパン屋巡りもしたかったな〜そう言えば、昨日(3/20)発行のFLYINGPOSTMANPRESS最終号をもらいに行かねばー💨💨1999年創刊号で藤井フミヤが表紙を飾ってから25年。休刊最終号もフミヤが表紙
2024.3.5.先日、やっと徳川四天王の一人、酒井忠次のお墓参りに行ってきました忠次のお墓へは、一切案内が無いのでしばらく墓地を彷徨いどうにか辿り着くことが出来ました徳川家康の父親「松平広忠」の時代から徳川家の家臣として仕えていた人物で、のちの「徳川家康」となる幼い頃の「竹千代」が、今川家の人質になる際にも同行しました。酒井家初代。三州井田の城主酒井忠善の嫡男。三河国で生まれ10歳で家督を継ぐ。16歳のときに松平広忠(徳川家康の父)に仕えてその妹碓井姫を妻とする。天文18年(154
はいさいぐすーよーちゅうがなびらっ(皆さんこんにちは、いかがお過ごしでしょうか)先日の投稿で「楊姓門中」のことや琉球歴史について触れたのですがその内容をちょくちょくInstagramに投稿していたところ・・・ここ最近になって同じうちなーんちゅ(沖縄の人)からメッセージをいただき、直接お会いしたりと交流がかなり増えてきました最初は「ワタクシと同じようなマニアもいるんだなぁ」と思うくらいでしたが琉球歴史を投稿すればするほどいろいろなアクションをいただくことが増えこ
2024.2.6.引田城跡の後は~初登城。十河氏の居城だった「十河城跡」へ『南北朝時代からの約230年、十河氏の居城。城は東西を谷に挟まれた舌状の台地上に所在し、南に大手を設け、他の三方は湿田に囲まれ、五重の土塁と深く切立った堀があり、攻め入る隙がなかったと言われている。(現在、西側にある池は後のもの)称念寺のある約60メートル四方が主郭で、西と北側に腰郭の平坦地が付属している。北側に空堀(堀切)を造り、土橋で北の郭とつないでいる。十河氏は神櫛玉の末裔で、植田氏の一族と伝えら
2024.2.6.なかなか時間の都合が合わず先日、やっと先送りしていた引田城跡へ現在の登城ルートは二つ大手道とされる道は、ちょっと危ないらしい今回は、港側の登城口から引田城跡は、中世より播磨灘の要地であった引田港の北側を囲むように岬状に突き出した城山(標高82m)の山頂に築かれた、戦国時代末期から江戸時代初期の城跡です。天正年間の土佐国長宗我部氏による讃岐国侵攻の際には、重要な軍事拠点となったことが知られており、天正15(1587)年には生駒親正が入城します。生
2024.1.5.備中高松城水攻め、陣巡り小早川隆景の鷹ノ巣城跡の帰り、もう一つ気になっていた羽柴秀長の陣所「鼓山」へ秀吉の本陣「石井山」の少し後方で左翼を守る位置に在ります。アタック登山道は、全然整備されていないし、案内も無いので、何となくで進みます途中、石積みが有ったかのような一角があり沢山の石が散乱しています。それから、鉄塔までココまでは問題なく来れます木々が生い茂り、景色は悪いそして、ここから山道もなくなり、感で直登足元は草が生い茂り
2024.1.5.羽柴秀吉の、中国攻めの時、毛利は「備中七城」と呼ばれる七つの城の防衛線を張りましたその中でも、中心の城となったのが、清水宗治が守る備中高松城毛利軍が援軍として来た時は、既に水攻めが行われ城は水の中でした。ずっと気になりながらも、身近過ぎて後回しにしていた鷹ノ巣城跡へやっと、時間をつくって行ってきました(いつも、よく見る景色)主力を率いた小早川隆景軍(約20000)高松城から離れた江田山に陣を置きました江田山は、日差山と尾根が繋がり大軍を配置できますその先に、
2024.1.4.正月、最終日は、8年ほど前に訪れた茶臼山城にも再訪しました実は、以前訪れた時、うっかり本丸跡に行くのを忘れてしまったというミスを犯しましたそれから、何度も近くは通ってても寄る暇がなかったのでした前回と同じく鎮守丸へ(現在は🅿一部駐車場となっています。)ここは、毛利元就の四男、毛利(穂井田)元清が築城しましたそして、前回忘れた!本丸跡へ本丸は小さな曲輪です。現在はそこに鉄塔がたっています。本丸の削平部は見どころ無く!一番の見どころが西側の切岸に残る石積み
2024.1.3.お正月続いては『備中寺山城』へ毛利VS三村の「備中兵乱」の時、毛利軍は三村方の支城を落としていきます。そして、ここ寺山城も攻撃!城主は松山城へ撤退しますその後、三村元親が籠る居城、松山城攻めの前線基地とされました。「近年、整備管理され見やすくなりましたただ、今回は少し草が茂っていて、馬場まで行けず東の丸と本丸、西の丸だけの投稿ですとても良い山城なのに、意外と県内でもマイナーなんですよね」『アクセスは、車で山頂付近の駐車スペースまで行けますが必ず309号
2024.1.3.今年の正月も、県内の城を再訪です今回は、備中地域へお次は、備中佐井田城へ備中三大山城の一つとなっています(備中松山城。猿掛城。佐井田城。)他の2城は分かるけど、何故、佐井田城なのかな他に良い城あるのにな!!標高332mの山上に位置する。北東に向かって伸びる尾根上に連郭式の曲輪が連なる。一ノ壇から五ノ壇までの5つの曲輪が一直線上に配され、尾根続きの一ノ壇の西端は二重の堀切で遮断している。最高所となる二ノ壇が主郭となり、約350㎡の広さを持つ。また、最も東に位置す
皆さん今晩ワン🐕🐶みーさんです😁今日1日だけお休み頂きました😁時たま従兄弟のおばさんにも会って来まして、お米🌾🍚をもらいに行って来ました😁帰りに箕郷城に寄って帰って来ました🏠💦🚗³₃たまには空気の入れ替えも悪くは無いな💦家に帰ってからは夕飯🍚を頂いてゆっくりお休みしてます(*^^*)明日から忙しくなるけど精一杯に頑張って来ます💪💪😁
2024.1.4.備中兵乱の前線基地として利用され、後に毛利元清の居城となる。また天正10年の羽柴秀吉の備中高松城攻めが(水攻め)があった時は、毛利輝元の本陣となった山城”2024”今年の正月は、備中方面のお城へ再訪しました昨年の12月中旬に、猿掛城の御城印が出たので、久しぶりに登城してきましたかれこれ20年ぶりくらいか!?猿掛城は、尾根を利用した蓮格式山城で、階段式に曲輪があるので分かりやすいです現在の大手道から登城開始(当時は真備町側が大手だったようです)麓に在る石
2023.12.5.先日、お披露目された吉川広家の銅像を見に行ってきました当日は、因島~竹原~廿日市と走り、日没まで僅かに時間があったので岩国へ9月に岩国に訪れたばかりで、この時(前回、投稿した時点で岩国周辺の見たい所は見終わったと書きました。)で、暫く岩国へ来ることは無いと思っていたのに!早速、行っちゃいました(笑)岩国城の麓に登場した吉川広家なかなか勇ましい姿です武将の像は、やっぱり甲冑姿が良いですね日没ギリギリに間に合い(実際
2023.12.5.毛利元就の四男『毛利元清の墓』(穂井田元清)へ先日(周防大島の時)も時間の都合で寄れなかったし!長年行きそびれてる「元清」のお墓参りへ廿日市市に在る「洞雲寺」へ。「元清は、毛利元就の側室の子になりますが、毛利軍を率いて活躍した勇将です兄の元春や隆景の影に隠れがちなのが惜しい」本堂の裏手に元清のお墓がある元清の詳細は、長くなるので割愛します猿掛城や茶臼山城に在城した矢掛には、元清の供養塔や息子のお墓もあり、また
2023.12.5.鎮海山城跡の向かいに在る『長生寺』へ何やら、他にも有名な方のお墓もあるみたいとりあえず、河野通直公のお墓へ(河野通直公の墓)先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか
2023.12.5.以前から気になっていた「鎮海山城跡」へ近くの道の駅に車を止めて登城路①先ずは、山復にある「村上元吉の墓」へ側には、戦死した家臣のお墓も(村上元吉の墓)村上武吉の嫡男で、父と同じく水軍を率いて活躍しました。弟に影親がいます城跡へ城の詳しい縄張りは不明。石積み跡?虎口跡?落ち葉を掃うと、所々に礎石が確認できた本丸跡?能島村上水軍の総大将、村上武吉、元吉父子が天正13年9
栃木県鹿沼市オールハンドエステルーチェのまゆです(*^o^*)あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いいたします^^日帰り旅🚃泉岳寺へ行ってきました‼️年末年始にかけて忠臣蔵の映画を観てから行ったので心熱くなるものがありました🥲徳川菩提寺の一つ増上寺へ立派なお寺😳東京タワー🗼が間近でした!出世の石段登りに愛宕神社へ!なかなかの急階段でした😅その後も上野〜浅草へと散策🚶♀️💨沢山歩いて歴史をみて回れた初詣に気分上々の新年スタートに👍💫おすすめメ
2023.12.5.以前から気になっていた片刈山城跡へ因島水軍城(資料館)の隣の山です資料館には、何度か訪れているのだけど、片刈山城跡は、ずっとスルーしていました今回の目的が終わると、暫く因島へは来ないかもしれないので、立ち寄ることにしました登城口は2か所あるようです!?自分は資料館側から登城開始資料館の裏手からは入り口があります少し尾根筋を行き直登です山頂部に到着城域は、木々に覆われ、地面はシダ植物が覆い!確認が難しいです登城
駐車場が在るので車で行けますが、麓から行くとこの千本鳥居を登っていきます津和野の城下側に上り口があります安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止され
夕方に津和野へ到着急ぎ!津和野城の攻城開始と言っても、リフトでサクッと行けるので便利です久しぶりのリフト楽し~山頂に到着。尾根筋を少し行くと、堀切~先ずは出丸へ最近、石垣など奇麗に整備されたのかな?とても見やすい今は遮るものが無いので、景色は抜群い良い当時は、もちろん塀や櫓がありました。出丸からの景色そして、主郭へ移動(東門)(腰曲輪)下が
萩と言えばテッパンの松陰神社へ境内に在る松下村塾へ
萩の街中に在る「春日神社」へ変わった感じの石灯篭が素敵でした奈良市の春日大社の御分霊を千百七十余年前の大同二年、萩椿郷在住の国守某が萩の地にお移し申し、始め沖原に、後土原、江向に移し奉りました。毛利輝元公が萩を居城とせられるに及び防長二州の祈願所と定め、慶長十三年三月、社殿を堀内の現在地に建立され、江向の地より御遷座の上、萩総鎮守として崇敬し、社領を寄進せられました。
2023.11.7毛利輝元のお墓参りへ。やっと写真を撮り直しての投稿です萩藩を創設した毛利輝元の墓所。もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔形の墓が残っています。毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す
萩城内に在る「志都岐山神社」へ萩城跡、指月公園内にある神社。かつての県社で、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の五柱を祭神として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。
2023.11.7.今年の秋は、萩から津和野へ萩城へ御城印を回収に有名なので、長く説明は要りませんね関ケ原の合戦の後、所領を減らされた毛利氏が居城としたのが萩城です(毛利輝元の像)とりあえず!簡単に萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。本丸には高さ14.4mの五層の天守がありましたが、明治7年(1874)に天守、矢倉などの建