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【問題】天文23年、武田軍が伊那郡に侵攻した際、下条信氏は次のうちどのような行動を取ったか?【選択肢】小県郡へ逃亡した降伏した和睦して仏門に入った徹底抗戦の末討死した【正解】降伏した【解説】信濃国伊那郡の国衆であった下条信氏は、天文23年(1554)に武田信玄が伊那へ侵攻した際に、その麾下に加わった。以後は信濃先方衆として、信玄の作戦に従った。
愛知県や名古屋市の歴史史跡を歩くコミュニティで新城市(しんしろし)野田城址を訪れました。通常は電車集合、解散で城巡りをしていますが、今回は見どころがある城をグルっと散策する貸し切りバスツアーです。武田信玄最後の城攻め新城市野田城址は武田信玄が生涯最後に攻めた城として知られています。三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利した1万5千の武田軍が包囲し、5百の籠城兵で約1ヶ月持ちこたえた城です。最後は武田軍が井戸水を抜いて降伏させました。この話を聞いた時、正直ホントかなあ?とかなり疑問でした。そ
愛知県、名古屋市の城巡りの会・愛知ウォーキング城巡りクラブで新城市の野田城址に行ってきました。今回はバスを使っての城巡りイベントみたいな特別編です。さて、三河野田城は武田信玄率いる武田軍1万5千人の猛攻を城兵5百で約1ヶ月持ちこたえた堅城。最後は武田軍も力攻めを諦め、金堀人足に城の横から穴を開けて、井戸の水を抜き降伏させました。実際に行ってみるとそんな大きな城ではありません。でも攻めづらさが実感できる堅城でもありました。>>三河野田城址の地図三方から侵入不可!
小雨が交じる天気の中、今朝の朝ランでいった北の丸公園の紅葉です。赤くなってはいるものの、昔見たような「一面紅葉」という感じはなく、陽があたっていないこともあってすこし寂しい紅葉でした。今年もあと1か月。。。風林火山にあるとおり、はやきこと、風のごとしです。ついでに孫子・軍争編の原典から全文を掲載しておきます。・・・故兵以詐立ゆえに兵は詐をもって立ち以利動利をもってうごき以分合為變者也ぶんごうをもって変をなすものなり故其疾如風
大河ドラマ『どうする家康』を視聴した後各々のドラマのシーンを今に巡る後書き的なワンコーナーありますよね今回は松重豊さんがナレーターしてますが長篠の戦いの時にこの風景が流れてどうしても行きたくなりました『牛渕橋』から望む長篠城跡こんな中洲のような所に長篠城があったなんて雨の中ずーーーっと佇んでしまいました長篠城はもうありませんあの中洲の上に行くと長篠城史跡保存館があります本丸跡地ですね寂しい先程、中洲の写真を撮った橋が見えます下の赤い橋ですもう一度、牛渕橋か
2016年2月17日=虎哲生後2795日=生後7歳8ヶ月の回顧記事の2です。開通したての新東名愛知県区間を東へ進み、新設された長篠設楽原PAへ。上り線は、武田軍がテーマです。大きな兜でしゅ。緑地帯は、芝生造成中につき立入禁止でした。新東名から東名に入り、一気に富士川SAへ。富士山が見えてます。ちょっと雲かかってますが。柵の上で撮影。富士山と
日本100名城長篠城を9月9日に訪れました。織田・徳川連合軍と武田軍が衝突した長篠の戦の要となった城です。今年の大河でも長篠の戦いの史実はさておき、よりドラマチックに演出されてましたね。長篠城は、城郭が残っているわけではなく掘割などが城址として残っています。長篠城址に櫓らしき建物が見えます。これは’長篠城址・史跡保存館’です。長篠城址の説明板。長篠は武田領に近いことから徳川・武田の領地争いの接点となる重要な地点でした。左が今川義元の頃、中央が武田信玄の頃、右が長
ついに小牧・長久手の戦いだ、徳川の家臣と豊臣勢がぶつかってる、井伊直政は武田の残党と一緒だったから井伊直政は赤備えの鎧だったんだな、武田の残党と一緒なら井伊直政軍は強いな😊、池田恒興と森長可を倒すなんて井伊直政軍は強いな😊、でも結局家康は逃げる事になるんだよな、それに石川数正が関係してくるのかもな😐、もう既に秀吉は裏で石川数正を引き抜く為に動いているだろうな😐
こんばんは。菊水千鳳さんの所に、武田信玄公が来ました!私は、山梨県甲府市の武田神社に行った事があります。ブログを見ていただきまして、ありがとうございます。
長篠の戦い・・天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千に対して、城主・奥平貞昌以下5百の兵と信長軍3万、家康軍8千の援軍との戦い。この戦いで、信長軍は当時最新兵器であった鉄砲3千丁を準備し、後の戦いに大きな影響を与えた(最近の研究では、鉄砲の数ははっきり分からないようです)長篠城址史跡保存館(黄色い◎印の所にある)壕、土塁、本丸跡、自然の濠となっていた不忍の滝設楽原歴史資料館展示品は火縄銃が多い日本最古の火縄銃「信玄砲」(長さ105cm)新城市・宗堅寺所有
2023年7月5日--------------------------------------------武田軍、、、でも判断を誤ることがある。勝ち負けにこだわると、大事なことを見過ごしてしまいますね。2022年7月5日--------------------------------------------「忠義な武士を磔にするような武将は必ず滅びる」長篠の合戦での話。捕虜を磔にし嘘を言えといった武田軍は、織田・徳川連合軍に滅ぼされました。ロシア、、、大丈夫でしょうか。
水野の叔父の処刑は見せしめだ、家康も裏でこそこそやってると同じ目にあうぞという信長からの忠告だ怖い、これで後に息子の信康が切腹させられる事になるのかもな、でも裏切ってるのは息子の信康じゃなくて瀬名さんだけどな、でもたとえ瀬名さんでも家康は窮地に立たされるだろうな、それで家康に息子の信康を殺させるのかもな、でも信康も武田との戦いで何かおかしくなってしまったんだろうな、もしかしたら信康自身も変な行動を起こすのかもしれないな😐
NHKの大河ドラマ「どうする家康」またまた出ました~設楽ヶ原の戦いで武田軍の赤備えの騎馬隊が突進するシーン。私はTVゲームはやりませんが、「ゲームの映像だぁ~」と思ってしまいました。初回にも馬を使ったシーンがあって違和感アリアリでしたので、またやるかぁ~と笑ってしまいました。そりゃあ、「馬が集められん、危険性が高い、乗り手がいない、場所を確保出来ない」など理由はたくさんあるでしょう。非難するつもりは毛頭ありません。今の時代に合わせた作り方なんだと思います。でも心の中では、「実写で見たかっ
どうする家康第21回は長篠を救え!築山殿と千代女の対決が始まる。*何を話すのかな?築山殿=あなたの幸せを奪ったのは誰?千代女=危うく、要らぬ事を喋る所でした…*両者一歩も退かず、引き分けか…長篠城遠江國、信濃國、美濃國に隣接する奥三河長篠は三河國の重要な要所。一度は武田軍に従属した奥平氏、武田信玄亡き後に徳川氏に従属したため武田勝頼に攻められた。*武田軍に包囲され、絶対絶命の大ピンチ長篠城主の奥平信昌奥平家は今川氏に従属。今川義元亡き後は徳川氏に従属するが、武田信玄の西
三方ヶ原の戦いで、武田軍に大敗北した徳川家康は浜松城に逃げ帰り九死に一生を得ます。追撃した武田軍は、浜松城の近くで野営。夜、武田軍に一矢を報いようと徳川軍は大久保忠世らが夜襲。武田軍は、混乱して崖に人馬もろとも転落する。*犀ヶ崖も、三方ヶ原の戦いに含まれドラマ本編で放送されるかも。大河ドラマどうする家康本編で放送される、徳川家康の最大の危機の一つ三方ヶ原の戦いの地を巡り予習しました。*二俣城→信玄街道→三方ヶ原→浜松城→犀ヶ崖戦国最強騎馬軍団を率いる甲斐の虎と呼ばれる武田信玄
ご訪問ありがとうございます明治3年1月27日の太政官布告によって「日の丸」の国旗が制定されましたこれを記念して1月27日を国旗制定記念日となりました日の丸模様は後醍醐天皇の頃に旗印とされていてまた、それ以前の源平時代では家紋や馬印に使われていました川中島の合戦では武田軍、上杉軍の両軍ともこの「日の丸」の旗を掲げて対戦したとされています日の丸の赤い丸は、太陽を象徴していて聖徳太子が日本を「日出ずる国」とした考えに由来していますお読み頂いてありがとうございました
お餅は焼く派?煮る派?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようお餅は…元旦の最初はお雑煮で。あとは焼餅にして食べます🙂それから、今日は「塩の日」でもあるそうで…これは、上杉謙信の贈った塩が武田軍に届いたのがこの日だったそうです。塩…SALT…から…
「忠義な武士を磔にするような武将は必ず滅びる」長篠の合戦での話。捕虜を磔にし嘘を言えといった武田軍は、織田・徳川連合軍に滅ぼされました。ロシア、、、大丈夫でしょうか。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
妻女山のつぎは、武田軍の本陣の海津城へ。こちらは、石垣しか残っていなかったが、近年城門を復元した。地元のボランティアの方の話だと、図面等は残されていないので想像?で作ったらしい。石垣の黒っぽく見える部分は残されていたもので、白っぽいのは、新たに作られたもの。夫と歩く甲冑姿のボランティアの方立派な石垣。濠には鴨黄色いアヤメがたくさん。
影武者1980年4月26日(土)公開あらすじ甲斐武田「風林火山」の軍が、三州街道を粛々とゆく。攻めあぐんだ三河の家康の砦、野田城を落城寸前まで追いこみながら、急に和議を結んで、ふたたび甲斐に帰るところであった。孫子の旗を立てた信玄が悠然と馬を進めている。だが、実はそれは信玄ではなかった。信玄に風貌生きうつしの弟、信廉であった。まことの信玄は、野田城攻めの一夜、勝利を目前にしながら、鉄砲で狙撃され、「われ死すとも、三年は喪を秘し、領国の備えを固め、ゆめゆめ動くな」との遺言を残し世を去った。信
登録ブログの記事を見てちょいと並べてみた、正確ではないけど雰囲気はこんな感じですかね武田軍の圧高いですよね💦
12月22日の●●1573年のこの日、武田軍が徳川・織田軍を破りました。三方ヶ原の戦い1573年12月22日、三方ヶ原で武田軍と徳川軍(織田軍は援軍として)が激突した戦いです。武田軍の作戦にはまり、徳川軍が大敗した戦いとして有名な戦いですね。
・・・・・・・っということで、昨日の続きです。興国寺城の次です。令和になって新築されたビジターセンター。武田軍が守る城を徳川軍が攻撃しています。↓興国寺城に比べて大規模です。武田の特徴である三日月型の馬出が見えますね。↓何重もの堀の数々。それもかなり深いです。↓堀を渡るには、この細い土橋を通るしかありません。↓堀の底に下る道。↓せっかくの堀に杉を植林するものだから、原型が分かりづらいです。↓こういう城跡って結構多いんですね。正面の防衛は何重もの堀でガードしていますが、背面
長野県川中島歴史巡り【武田信玄VS上杉謙信】-歴史と文化・巡礼の旅日記長野市松代を散策し、長野駅方面へと帰還する途中で「川中島古戦場史跡公園」にやってきました。こちらはご存知、戦国大名の武田信玄VS上杉謙信の頂上決戦が行われた場所です。もともと「八幡原古戦場史跡公園」という名でしたが、2017年より現在の名称に変わりました。川中島古戦場史跡公園アクセスはJR長野駅からアルピコ交通バス「古戦場経由松代」行き、「川中島古戦場」…www.jukensyakai.net
武田軍も鉄砲を使っていた?「鉛の研究」で見えた長篠合戦の新事実武田勝頼率いる武田軍が織田軍に大敗した長篠の合戦。旧式の騎馬軍団が先進的な鉄炮隊に敗れ去ったという従来の構図が最新の研究により、崩れ去ろうとしている。shuchi.php.co.jp伝え覚えていた内容と違う、、、戦略の差が勝敗を決めたのでしょう
設楽原歴史資料館の南西側に墓地があり、その一角にこの周辺が歴史的な戦場になった場所であることをこの大塚、小塚の存在でさらに強く印象づけることが出来ます。武田軍を弔った方を大塚、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれているらしいです。またこの大塚・小塚に関係する信玄原の火おんどりという行事も行われているようです。こちらが大塚です。そしてこちらが小塚です。道標には善光寺の名前もありました。
次元寺から、小淵沢に行きました。八ヶ岳高原ラインを通り、道の駅こぶちさわを通過して目的地の信玄の棒道に到着。武田軍が北信濃侵攻の時に通りました。甲府方面馬の嘶きと馬蹄の響きが…風林火山の旗が靡き…武田の大軍勢が…長野方面北信濃川中島に向け進軍…今回は、この場所に車で直に来たけど八ヶ岳南麓には幾つか乗馬クラブがあり、棒道を散策コースにしているので、馬に会える事もあるようです。いつかは馬に乗って、武田軍に想いを馳せながら棒道を通ってみたいです。JR小海線甲斐小泉駅から、ウォー
歴史番組や城特集が多すぎてついていくのもやっとの今日この頃です。最近よくテレビで見かける鳥居強右衛門さんです。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)さんをご存知でしょうか?このスネ夫とドラえもんを足したような名前の方は過去に実在した人物で歴史にも大きく影響を与えました(*^^)v有名な長篠の戦いはあの信長が初めて鉄砲を使って、当時最強と言われた騎馬隊の武田軍に勝利した戦いで有名です。その裏側にこの鳥居強右衛門の活躍がありました。長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、苦戦していました。
若田ヶ原の古戦場跡名所旧跡案内板(*^_^*)若田が原の合戦永禄6年(1564)弘治元(1555)年、川中島の合戦で上杉謙信との雌雄を決した武田信玄は上杉方の武将で西上州一体に力を及ぼし、長野信濃守業政の居城、箕輪城を攻めようとしていた。永禄4(1561)年、業政が病で亡くなり、後を継いだのが、業政の次男、業盛。彼も中々の豪傑でしたが、なにせ17歳の若者、人生経験浅くまして戦の経験も浅い、これを知った信玄は,時は来たりと上州めがけて兵を屈りだし