ブログ記事19件
武田観柳斎の名刀越前住常陸守兼植からの〜観柳斎‼️♂んっ⁉️へっ⁉️お気付きの方カモン挙手🙋🙋♀️今回刀から頂戴してないじゃない⁉️って声が1つ2つ聞こえましたYO🤣NICE空耳👂YESタカス👍どーにもこーにも刀からだとイメージわかなくて( ̄▽ ̄;)もういっそ観柳斎でEんじゃね⁉️と相成りましたとさっ観柳斎は兄&姉大好きそして全身全霊でオッパイを探しますヤロウドモ困惑しかないっすそして身体能力は類を見ず1番高いかもしれません箪笥の上も天井付
昨日の「青天を衝け」面白かったですねー。慶喜さんを支える一橋家臣団のキャラの濃さよwその中でも、英一たちをスカウトしようとする平岡円四郎の後ろで、英一たちの身の程知らずの「逆面接」提案に鬼のような顔をツーパターン見せて睨んでた川村恵十郎には笑ってしまいました。でも、二人が家臣になってからのお酒を運んで来た温かい目線にはホワホワしちゃいましたよね!ワタシの昔の記事で、武田観柳斎絡みで恵十郎さんを紹介している内容があるので、リブログとともに、コピーを貼っておきます。けっこう面白い記事だと今
大目付永井主水正に随従して広島に赴いた近藤勇ら新選組一行ですが、その目的は長州藩内に入って幕府に対する疑念を取り除こうとすることだったといいます。永井主水正の家来近藤内蔵助と名乗った近藤勇は、広沢真臣に対して以下のように訴えました。天幕御疑惑のかど、きっと御氷解これ有り候様、相拝見の上、尽力したき事にて、何とぞ御手前様方御帰国の節、御同道下されたく~『広沢真臣手記』慶応元年十二月十一日長州藩の幕府に対する疑惑をきっと晴せるよう、要人と会談して力を尽くしたいので、どうか帰国する際に
#愛のレキシアター#ざびぎにんぐおぶらぶ愛のレキシアター「ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ」公式@rekitheaterスポット動画公開!https://t.co/Ka2QQ7yCUJ#愛のレキシアター2019年03月19日12:082回目の観劇。1回目が楽しすぎて、帰りの電車に揺られながら、軽率に今日のチケットをゲットしたのである。笑(親に「ゆずにハマったときの勢いを思い出す」と言われたwww)(良かった、期間限定のカンパニーでwww)1回目のときに「桜が咲いてたら綺麗だろ
数日前に夜にこんなテレビ番組を観ました!「筋肉は裏切らない!」というコンセプトですってこんな感じから始まります今日の夜からご興味ある方はどうぞ佐之よ!俺達の番組だと思わないか?筋肉は裏切らない!間違いねぇなしかし、何故これが愕然何だ?そうなんですよ(-ω-;)普通に観てれば筋肉体操です武田と聞くと誰を思い出しますか?武田?ウチの隊にいるぜうぜぇけどなこいつですね~腕はあるが、男好きで土方さんに嫌われてた奴です(笑)まぁ、上手く生きれなくて最期は暗殺さ
新選組は各地に独自の番所を設けていたのではないか。そう考えてみると、これまでの定説の中にも違った景色が見えてきます。慶応三年六月二十二日、この奴茶屋事件の主役である武田観柳斎が、鴨川銭取橋において暗殺されます。観柳斎の死に関しては、『世襲志』に六月二十二日、油小路竹田街道にて、元新選組武田某肩先より大袈裟に切害に及び相果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし。他に三人身寄りわからず貰い出の人これ有り。これも一所に切害に出会い候処、そのみぎり逃げ抜け去り、何分枚方に在りて切腹致し
蹴上村の奴茶屋の亭主が、金戒光明寺の会津藩本陣や辻番所ではなく、新選組に助けを求めたのは何故か。その理由として考えられる事は、おそらく一つしかないと思われます。それは新選組が一番近くにいたから。「え?何それ?」と思われたでしょうか。たしかに新選組の屯所は西本願寺。往復すれば2時間近くかかってしまうという事は前回述べたばかりです。そこで思いついたのが番所の存在です。蹴上村は三条通り(東海道)粟田峠の入り口に当たります。粟田峠とは、近江から山科郷を経て都大路へと入る京都
まずはお詫びから。以前、山科の奴茶屋について取り上げた記事『備えあれば憂いもあり』(9月3日)の中で、奴茶屋が曼殊院の御領地にあり、古高俊太郎が曼殊院の家来であると書いてしまいましたが、これは全くの大ボケでして、奴茶屋があったのは山科毘沙門堂の御領地であり、古高俊太郎も毘沙門堂門跡の家来です。曼殊院の家来だったのは赤報隊の山本太宰でした。一体何を思い違いしたんだか。訂正させていただきます。申し訳ありませんでした。奴茶屋跡(現・ラクト山科)さて、話を戻しましょう。西村兼文が『
慶応元年八月八日のこと。洛東蹴上村の奴茶屋に薩摩藩の橋口四郎、隈本壮助の二人がやって来て主人を恫喝し、金を要求します。困り果てた奴茶屋の主人は新選組に通報し、武田観柳斎率いる一隊が出動しました。たちまち戦闘になり、橋口四郎は斬られて即死。隈本壮助は重症を負って西本願寺の屯所に連行され、尋問を受けたのちに釈放されて二本松の薩摩藩邸に引き取られたとされます。(蹴上のつもりで撮ったんですが、実際はもっと先。画面奥の青看板の周辺が、かつての蹴上村になるようです。画面右はウェスティン都ホテ
ちょっと気になる事があったので、ずいぶん久しぶりに武田観柳斎のウィキペディアを見てみました。なんか全面的に書き換えられてる???書き込んだ方には申し訳ないけど、ちょっとこれ、どうなんだろうという内容です。以前の方がまともだったように思います。事実関係もだけど、ちょっと文章が・・・。生まれは磨国、水戸藩などの説がある。・・・って、そんな説ありましたっけ?・・・・・・・磨国って(笑)水戸藩が磨国ってこと?磨国の旗(笑)しかも、そのあとに支
引き続きの幕末です150年前の本日は慶応3年6月27日。この日、武田さんの同志とみられる僧侶・善応さんが殺害されました六月廿七日夜、醒ヶ井通り松原下ル町にて、城州久世群久我村百姓宗右衛門倅、法名善応と申す僧二十八才、切害に及び相果て候。右、仕業人これまた新選組のよしにて、右善応と申す義、武田と応意の者のよしにて、何かと悪事の筋これあるに付き、武田切害また新選組より相尋ねおり候ところ、はからずも松原通りにて出合い、切殺し候よし。(世態志)28才って
何故か昨日のアクセス数が、自己ベストを更新していました本当に有難い事であり、また同時に、気が引き締まる思いでございます。読んで下さる皆さまに、心よりの感謝と、そして今後のご継読を宜しくお願い申し上げますm(__)mさて、今夜の記事は幕末です150年前の本日は、慶応3年6月22日。この日、武田観柳斎さんが竹田街道にて新選組に惨殺されました六月廿二日、油小路竹田街道に而元新選組武田某、肩先より大けさに切害におよび相果候。右仕業人者新選組仲間とのよし。
六月二十二日、油小路竹田街道にて元新選組武田某、肩先より大袈裟に切害におよび相果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし。(『世襲志』)慶応三年六月二十二日、新選組五番組長にして文学師範でもあった武田観柳斎は、竹田街道の銭取橋において殺害されました。竹田街道銭取橋は、現在は勧進橋と呼ばれていて、京都市の南部、市街地を北から南へほぼ真っ直ぐに流れていた鴨川が南西方向にカーブを切り始めたあたりにあり、南区と伏見区を繋いでいます。このあたりは、今でも京都の町外れ
昨夜の続きでございます私的には和三郎さんの「新選組金談一件」の中で一番気になった部分です新選組隊長近藤勇殿副長土方歳三殿室賀美作守様御用人之次男之由参謀伊藤樫太郎殿組頭助勤共三木三郎殿武田観柳殿井上源三郎殿外五人一番隊より八番隊迄有之一組十人之由目付調役篠原泰之進殿外六人勘定役岸島
薄桜鬼真改華ノ章伊庭八郎(Cv宮野真守)第一章でも土方さんならsave1血を与える同じじゃありません第二章もう少しここにいたいですsave2血を与える伊庭さんを信じる第三章save3血を与える傷つけられても構いません第四章伊庭さんとなら血を与える一緒に戦いたいですよね?【goodend】save2より我慢させる新選組を追いかけましょうそうですね我慢させる武田さんの話を聞く【badend】エンドロール無しsave2より我慢させる武田さん
幕友さんから頂いたシールが可愛い龍馬さんを始め幕末に名を残した武士たち。刀の名前や家紋だけでもマニアック↓またまた松平容保ってマニアック過ぎます↓それより超マニアックなのが~新撰組隊員の中のメガネくんは武田観柳斎かな、知らんけど(笑)その隣の髭親父は井上源三郎かな・・・と勝手に思い込むのも楽しい~以前、頂いたクリアファイルも宝物長州人ズラリこれまたヽ〔゚Д゚〕丿スゴイ!更にすごいのが裏に略歴が明記されてます。また萩に行く時には連れて行きまーすあ、色んなものが写り込んで
昨夜、出先からの帰宅途中。ビニール傘をさしてオープンカーを運転している方を発見助手席に、背の高い荷物を置いていたようなので屋根をつけられなかったのかなぁ。(この場合、つける、であってます?)にしても、オープンカーでビニール傘って…爆笑したあとに、危険じゃないの?と思ったのですけどさて、今年の3月。京都壬生・光縁寺で行われた「山南忌」。本ブログ内で、敬助さんの切腹を書くにあたりどうしても彼が切腹した部屋に行かなければ!との想いから、参加を決意。
幕末です150年前の本日は、慶応元年閏5月12日。この日洛中における幕府警備強化のため、見廻り地域が定められました。守護職東在限西寺町南四条通北下鴨辺迄所司代東寺町西堀川南下立売北鞍馬口加賀中納言東山限西寺町鴨川を限南七条通北四条通御定番東寺町西御土居南蛸薬師北下立売蒔田相模守東寺町西御土居南五条通北蛸薬師松平出雲守東堀川西御土居南下立売
150年前の今頃、のお話です。この頃に江戸に下っていた武田観柳斎さんですが、本所在住の旧友を訪ねていたらしい「丁卯雑拾録」によりますと、「元治元甲子歳六月五日於京都祇園町旅籠屋諸浪士召捕之節、会津藩附属壬生浪士新撰組福田広(元雲州母里、松平主計頭藩中)士藩大秋鼎ヲ召捕、同人所持之傍観記事と云小冊を分捕し、同年九月中旬出府之節持参、国友何某ニ譲り置し」とあります。つまり、池田屋事件の時に新選組の〝福田広”が、“大秋鼎”という者を捕縛して“傍観記事”という冊子を分捕った。で、それ
今日は、爽やかな秋晴れの一日でした近くの小学校では、ここのところ毎日運動会の練習をしています。微笑ましい限りですが、太鼓で「アナと雪の女王」を奏でるのは…なかなか難しいと思うさて、150年前の本日は元治元年9月17日。この日、橋本道助さんが、橋本才蔵さんと石坂又次郎さんを伴って、勇さんに会いに江戸を訪れますでも勇さんは生憎と不在でしたま、翌日には無事お会いできて酒盛りしながら歓談するのでありますが、この頃、勇さんは忙しく飛び回っておりました新八っちゃんの「浪士文
今朝起きて窓を開けようとしたら、うっすらと曇っていました。今シーズン初の結露。外気は冷たかった!!また、毎朝窓の内側をふき取る、朝のひと手間が増える季節になるのかな。そうかと思えば、昼間は車に乗るのにまだエアコンをつけたほどの暑さ皆様、体調には充分ご注意下さいませさて、会津旅行記の途中ではありますが、幕末です150年前の本日は、元治元年9月16日。この日、新選組副長土方歳三-通称歳様のお名前で勝海舟さん宛てのお手紙が書かれておりますと、微妙な書き
本日、広島からTちゃん上京京都旅の三日目には、お世話になりましたんでもって、再会しに行ってきましたでも、その事はまた後日に書きますね今夜は幕末ですっ150年前の本日は、元治元年9月10日。この前日の夕刻に江戸に着いた勇さんご一行。本日はさっそく会津藩邸にご挨拶に赴いております新八っちゃんによりますと、なんとこの時藩邸内で、西郷吉之介(隆盛)さんに会ったというのですでもね、実はこの時は西郷どんは江戸には来てないのでもでも西郷どんが、やはり将軍上洛の要請の
昨夜は惣兵衛さんのお話で終わってしまいましたすみませんで、その惣兵衛さんが、弟の勇さんのところへ、来ています「でも、まぁ何だな。おめぇがここまで立派になるとはなぁ」惣兵衛が、勇の肩を叩く。「本日も松平肥後守様にお目通りのうえ、直々にお褒めのお言葉を賜ったとのことでございますぞ」勇の隣に座っている武田が、惣兵衛に向かって返答している。勇も、まんざらではなさそうだ。「あれ?局長は黒谷さんの会津本陣へ行かれたのですよね?」ちょうど武田と向かい合うように座っていた総司が、隣の