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<はじめに>「最後の合気論」と題し、過去の掲示板に書き継いで来た内容を整理し、このブログで九十数回にわたって発表した。その後、雑誌等で「新しい情報」が公開されたり、新たな資料を発見するなどした時に、<追記>と云うかたちで過去の情報を訂正・更新、新たな考察なども記してきた。この<追記>部分が、いつの間にか可成りの分量に達した為、一度、それらの内容を整理してみようと思い立った。大東流やその実質的創始者である武田惣角についての謎は奥が深く、その謎を解明しようとする行為は、まさに迷宮に足
武田惣角の遺品に、旧会津藩主松平容保より拝領した「羽織紐」と云うものが有ったのだそう。惣角は、生涯これを大切にしていた。この「羽織紐」について、松平容保から、直接、惣角に下賜されたものとする説があるようだ。明治になって「四民平等」のタテマエが実現していたとしても、旧会津藩主が一農民と会わなければならない合理的な理由を捜すのは難しい。当時、旧藩主と一農民との直接面会は「ほぼ有り得ない」と思う。それでは、旧藩主の羽織紐はニセモノだったのか?いや、それは間違いなく「ホンモノ」だったと思う
合気上げvs霊気上げ【後編】前回、大東流の母体流儀(ルーツ)が発見出来ない理由は、ⓐその流儀が継承断絶(=消滅)した流儀で、ⓑ文書記録すら発見出来ないのは、地方のマイナーな流儀であったから・・・と云う見解を示した。もう一つ、大東流の母体流儀(ルーツ)が発見出来ない理由が考えられる。それは、・・・ⓒ別のところを捜しているから、発見出来ない具体的に云うと、大東流のルーツとなる柔術流儀は存在しない。大東流のルーツは居合流儀に付随して伝えられた「柄捌き」であり、柄捌から発展した体術技法具群
合気上げvs霊気上げ【前編】昔観た鹿島神流柔術篇のVHS動画で、「霊気之法」が、大東流の「合気上げ」と同じだったことに驚愕した記憶がある。大東流と鹿島神流になんらかの繋がりがあることは間違いないと思う。(武田惣角も國井善弥も、共に「福島=会津」の出身)ウィキペディアによれば、『月刊空手道』別冊、『極意』のインタビュー記事において、「武田惣角が中条流から大東流に移行する時、鹿島神流の技を少し習っている。」と、平澤誠太郎氏(國井善弥高弟)が証言している。つまり、大東流は鹿島神流から派生し
名古屋大学大学院時代の合気道の先輩木村達雄さんから佐川幸義先生の弟子になったと連絡をもらった日本中の道場を回りながら武道の達人を探し歩いたというほとんどあきらめかけていた時に合気道の源流である大東流合気武術を興した武田惣角という達人の直弟子にあたる人物にめぐりあえたというそれが佐川幸義先生だった「毎日四股を2千回踏むのだ」それは身体を鍛えるのではなくどうも頭を鍛えるものらしい驚いたのはそれをやり始めてから自分の合気道ががらりと変わったこと四股
惣角は稽古や演武の際に「膝行」をしなかった。後に、惣角の弟子の誰かが「殿中武芸」と云う権威付けの為に、「膝行」を導入したのではないか?・・・と云う主張を、以前、ブログで発表した。今回は、その続き。膝行の嘘?明治・大正・昭和(戦前)の庶民向けの本を読むと、漢字には必ず「ふりがな」が付されている。かつて「ふりがな」には、二つの役割があった。(A)漢字の「読み方」を示す。(B)漢字の「意味」を示す(=文語の口語変換)。日本語には「書き言葉(=文語)」と「話し言葉(=口語)」
【156】弟子には巻物を伝授大東流の武田惣角は、講習を終えた者に「巻物」を授与していた(厳密に云うと、オリジナルの巻物の文章を書写することを受講者に許した)。書写した紙を、後に、弟子(講習受講者)本人が巻物に仕立てた、或いは、業者に依頼して巻物に仕立てさせたのか?又は、白紙状態の巻物が市販されていて、そこに弟子が文字を書写していたのか?・・・そこのところがよく分からない。武術伝書は代々、「和綴じ本」か「巻子本(かんすぼん)=いわゆる巻物」のかたちで残されて来た。だいぶ昔、柔術
こんにちは。南洲翁塾です。彼岸も過ぎて涼しくなってきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて前回、幕末の英雄、西郷隆盛のお話をしましたが、この西郷と同族が幕末に遠く会津藩にもいたのを皆様はご存じでしょうか。西郷隆盛は南朝の英雄、菊池武光の子孫にあたり、西郷隆盛が幕府の追手の目をくらますために使う変名は「菊池源吾」という名前でした。我の源、菊池とは、変名とはいえ、西郷隆盛らしい雄大な名前ですね!互い鷹の羽の家紋は、二つの羽がクロスに重なったもので、今でいえば進撃の巨人の調査兵団
大東流の武田惣角は、数人に胴上げされたところから「身体を重くして」、自身を担ぎ上げている人達を一気に圧し潰す技を披露した。これを俗に「空中合気」と呼んでいる。自身の体重を一瞬で重くしたり軽くしたりする術を「体重軽重術」と云うが、勿論、一瞬で体重を数十㎏も増減出来るわけではない。体重軽重術には、主として二種の方法がある。①相手の腕力を単独で発動させる方法②重心移動によるバランス崩しどちらも「自身の体重を重くする技」ではなく、「相手の力を奪って非力にする技」である。①の原理は一
◎絶技(?)「六人綱引き」後編<前回の続き>飛び入り参加の六人の観客男性を相手に綱引きをして、通常、か弱い女性が勝てるワケはないのだが、・・・マティ・リー・プライスはこれをやってのけた。前回、エレクトリック・ガールを描いたイラストには誇張があると指摘した。このイラスト(=前回のブログに添付してある画像を参照のこと)を見ると六人の男性は、皆、腰を落とし後ろに体重を掛けて綱を引いている。これでは男性六人分の重量(約400~500㎏)を引くことになり、女性の腕力で対抗するには到底無理が
先月、鬼の冠で初めて知った武田惣角についてもう少し興味を出してみたので、今度はこれを読んでみた。惣角流浪(集英社文庫)文庫–2001/10/19今野敏(著)歴史小説で、実際にはどうだったのか、、、しかし可能性はゼロではない、という嘉納治五郎との出会い、対戦松村宗棍との出会い、対戦、など、など、夢が膨らむ内容になっていて楽しめた。以前読んだ鬼の冠は晩年近くまでであったが、この小説では、あらくれヤクザ人夫100人との乱闘シーンで終わっている。実際は瀕
少し前に出た合気と愛魂について、同門の敬愛する宮地尚彦さんが書かれた本。当流の入門書にして、奥義書の趣があります。同書は、同じく同門の免許皆伝森坂千秋さんもブログで触れられている。『合気と愛魂:弟子が解説する冠光寺流愛魂の実践(海鳴社)』合気と愛魂:弟子が解説する冠光寺流愛魂の実践Amazon(アマゾン)「技を超え、魂で繋がる――愛魂の真髄」保江夫が築いた冠光寺流愛魂その核心は…ameblo.jp宮地さんと森坂さん、そして同書に登場する佐川英二さんの三人には、私が
7月19日の釧路セミナーの翌日は釧路セミナーに参加してくれていた札幌稽古会メンバー2名と共に車で移動。大東流合気柔術の達人である武田惣角先生と合気道の開祖である植芝盛平先生のゆかりの地である白滝村(遠軽町・白滝地域)へ向かいました。朝早くから出発したのですが、途中休憩をしたり、車での移動途中の道が事故で封鎖されていたので回り道をしたこともあって5時間半ほどかかって最初の目的地である白滝ジオパークへ到着しました。入り口の駐車場の近くには合気道開祖植芝盛平翁顕彰碑がありました。白滝ジオパーク
終わり^_^ました鬼の冠――武田惣角伝(双葉文庫)(双葉文庫つ9-3)文庫–2010/1/7津本陽(著)公園自主稽古の稽古つけてくれる先輩のご推薦。公園自主稽古の常連合気道女子に聞いてみたのだが、合気道と合気柔術とは全く違うらしいのだ。門外漢なものでそうなんだ〜〜〜と思ったのだが、古流のエグい技を使う方と、形、様式、規則ありの違い、ならばムエボランと現代ムエタイもそうだし、古流空手と現代空手の違いもあるから、まあ、そんなものか
◎大東流や合気道の「膝行」は後付けか?武田惣角は演武や稽古で「膝行」をしていなかったと思う。これには二つの根拠がある。①惣角の時代、大東流には正式な形や礼式などが制定されていなかった。稽古の中で形や礼式を省略しているのに、膝行だけキチンと教授するのは不自然。「膝行」が殿中作法であると云うのなら、膝行以外の殿中作法(礼式等)も同時に教授するはず。なのに、それらが教授された形跡はない。つまり、「膝行」は、流儀の格式を上げる為に、後に、惣角の弟子の誰かが勝手に付加した可能性が大。②大東
身体と心のリズムを整え私らしく幸せになる♡『13の月の暦』今日は青い律動の嵐の年宇宙の月(カメは存在を持ちこたえる)[私の歓びと愛ををどのように広げるのか?]7日(創始の週シリオ→ハートチャクラに対応)音10赤い惑星の竜(黄色い人のウェイブスペル)KIN101*13の月の暦についてはこちらから『13の月の暦ってなに?①ホゼ博士の叡智とこの暦を使うことの恩恵』今日は白い倍音の魔法使いの年太陽の月(ジャガーは意図を律動させる)[どうしたら私の目的に達するのか?
身体と心のリズムを整え私らしく幸せになる♡『13の月の暦』今日は青い律動の嵐の年水晶の月(ウサギは協力を捧げる)[生きとし生けるすべてに自分自身をどのように捧げるのか?]28日(熟成の週シリオ→ハートチャクラに対応)音3白い電気の魔法使い(黄色い人のウェイブスペル)KIN94*13の月の暦についてはこちらから『13の月の暦ってなに?①ホゼ博士の叡智とこの暦を使うことの恩恵』今日は白い倍音の魔法使いの年太陽の月(ジャガーは意図を律動させる)[どうしたら私の
身体と心のリズムを整え私らしく幸せになる♡『13の月の暦』今日は青い律動の嵐の年水晶の月(ウサギは協力を捧げる)[生きとし生けるすべてに自分自身をどのように捧げるのか?]25日(熟成の週カリ→丹田のチャクラに対応)音13青い宇宙の猿(青い嵐のウェイブスペル)KIN91*13の月の暦についてはこちらから『13の月の暦ってなに?①ホゼ博士の叡智とこの暦を使うことの恩恵』今日は白い倍音の魔法使いの年太陽の月(ジャガーは意図を律動させる)[どうしたら私の目的に達
<「教授代理」とは何なのか?>今回の対談、「合気柔術の歴史と武術の極意」において「教授代理」についての言及があり、興味深く読んだ。武田惣角が「師範」ではなく、わざわざ「教授代理」と云う言葉を用いたのは、「師範」と「教授代理」が別物だからだろう。「教授代理」の意味を文字通り解釈すれば、「武田惣角の代理で武術を教授する」と云う意味になる。これは、惣角本人が死亡した場合、「代理」を務めることが出来なくなるので、自ずと「教授代理」の資格も無効化する。つまり、「教授代理」とは期限付きの資格とも
どれほど奇妙な説であっても、複数の傍証があれば「一つの説」として成立させることが出来る。ただ、この説のように、現実や常識と著しく乖離した説には、慎重な精査が必要で、本来は安易に唱えるべきものではない。さて、・・・ここからは、「保科近悳は武道を修めていない説」を信じている人達に向けて。「保科近悳は武道をやっていないので惣角に武道(御式内)を教授することは不可能である」と云う説を、当たり前のように信じている人達がいる。この説を信じている人達の中で、「保科は武術を修得していない」ことを証明す
◎貴種流離譚?<前回のつづき>これから、前回告知した「トンデモ仮説」を記すことにするけれども、読み手の方は「ただの与太話」として真剣に受け止めない様お願い致します(あくまでも思考実験、お遊びなので・・・)。その仮説とは、・・・「武田惣角は旧会津藩主の御落胤かも知れない」説。その根拠は以下。①惣角の生まれた時代は幕末動乱期で、時の会津藩主も家名の断絶や身分の剥奪は覚悟していたかも知れないが、自身の血統を確実に後世に残したいとは考えていた(子孫を残せばお家再興も夢ではないから)。それには、
「会津藩御供番・佐藤金右衛門から大東流伝承の真相へ迫る(前編)」を読んだ。著者の野本氏は、「武田惣角は佐藤金右衛門より御式内(御敷居内)と云う武術を教授され、それが後の大東流の基礎となったのではないか?」と推察している。私は、それは違うような気がする。武田惣角が佐藤金右衛門より武術を習っていたとしても、後年、惣角の大東流を見た板橋林三(武田家の隣人)が「若い頃やっていた柔術とは違う」と云う感想を漏らし、惣角もそれを肯定したたと云う話も残っている。佐藤が惣角に武術を教授したのが惣
英名録に記された「しるや人・・・」の和歌の筆跡が保科本人の真筆ではないことを証明出来れば、保科近悳と武田惣角の接点を否定する事が出来、「御式内」の存在にも疑問を投じることが出来るのではないか?その様に考え、英名録の筆跡鑑定を試みたが、サンプルとなる筆跡画像が二つ(楷書体1・草書体1)しか見付からなかった。①楷書体文書の最後には「霊山神社宮司保科近悳」の署名と押印がある。文書の日付は明治31年で英名録記載日と同年である。楷書体文書の印は英名録に捺された印とは明らかに別物だが、数個の印
会津藩上級武士に伝承された「御式内」と呼ばれる殿中武芸が大東流の母体であり、この御式内は保科近悳から武田惣角に継承された、と云う説がある。このことは日本武道館の刊行した『日本の古武道』大東流合気柔術の項にも記されているので、流儀の公式見解と見做して良いだろう。この本によれば「御式内」は、元は「御敷居内」であったと云う説もあり、「おしきうち」と読むそうだ。今まで「御式内」と呼ばれる武芸が実在していたという古記録・古文書の類いは一つも発見されていない。又、御式内についての口承があっ
<前回のつづき>◎武田惣角と軽業興行アボット嬢の怪力術のトリックを見破ったのは講道館の富田常治郎、作家の三宅青軒以外にもいる。軽業興行師の荒山鹿三郎だ。以前、荒山は巡回興行でオーストラリアのシドニーに渡航した際、同地で怪力術の興行していた一座の者から、直接、怪力術を指南されたと云う。(当時は「エレクトリック・ガール=怪力術)」の興行が世界中で盛んだった)「軽業興行」で思い出す武田惣角のエピソードがある。武田惣角は18歳の頃、武者修行で九州に渡った際に軽業興行一行に合流して、
最後の合気論第一部に於いて、「武田惣角は生涯を通じて視力に問題があったのではないか?」と云う推論を記し、具体的根拠を複数提示したのだが、・・・。推論の根拠のひとつに武田惣角の研究家である池月映氏の「惣角双子説」がある。<以下、最後の合気論第一部より抜粋>惣角の下の妹は、戸籍上、惣角より5か月後に生まれているが、実は、惣角と妹が双子であった事を隠す為にそのような届け出をしたのではないか、と研究者の池月映氏は指摘している。妹のマンは盲目であり、その原因が遺伝的もしくは妊娠中に起きた問
「武田惣角最大の謎」と云うと大袈裟になるが、多くの研究者が見落としている視点がある。それは、「経済=収入・支出」である。大東流の教授料が巷間云われる様な高額であったなら、惣角の稼ぎもかなりの高額であったはず。惣角のことを守銭奴・吝嗇であると見る者もいるようだが、講習の助手を務めた者や旅館の仲居さんなどにも気前よくお金を渡していたと云う話も伝わっているので、決して吝嗇(ケチ)ではなかった筈だ。又、自身や家族が裕福で派手な暮らしをしていたと云う話もなく、堅実な暮らしをしていた
武田惣角の英名録には、「しるや人川の流れを打てばとて水に跡ある物ならなくに」と云う歌と共に、「明治三十一年五月十二日」の日付、霊山神社宮司保科近悳の署名・押印が為されている。過去、英名録・保科近悳署名・押印のページは写真で公開されることがあったが、最近では、英名録・保科近悳ページの写真は積極的に公開されることがなくなってきた(様な気がする)。財団法人日本武道館が平成12年に発行した『日本の古武道』と云う本が手元にあるのだが、そこには、「しるや人川の流れを打てばとて水に跡あ
松田隆智著『秘伝日本柔術』の記述を元に、武田惣角、最後の四年間を検証しようと思う。以下は、本の記述を要約したもの。〈昭和15年〉朝日新聞社主催、全日本古武道大会に出場〈昭和16年〉福島県柳津温泉にて倒れ、半身不随となる。(武田時宗、佐川幸義らが、惣角の病床に駆けつける)〈昭和17年〉半身不随が完治しないまま、北海道を巡回指導。一旦、帰宅するが、家族の制止を振り切り、再度、夕張方面に指導に赴く。〈昭和18年〉家族が安否不明となった惣角の心配をしている最中、半身不随の惣角が室蘭警察署内
◎達人の条件=感覚の極度な先鋭化「視力の障害によって霊能が発言する」と云う思い込みはなぜ生じたのか?それには、「感覚の相互補完」作用が関係している。「感覚の相互補完」とは、例えば、視力に障害が出ると、その障害を補完するために聴力・嗅覚・皮膚感覚等、他の感覚が鋭敏化する現象のこと。眼が見えなくなると、常人には感知できないレベルの微少な音や匂いを感知出来る様になったり、空間認識能力が異常に発達したり、皮膚感覚によって空間の奥行きや人の動きを察知出来る様になることもある。常人から見れば、それは