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誕生日の翌朝の早朝…なぜか下のムスメと山梨県甲府市にいた。たまに湧き上がる武田信玄公の足跡めぐり。初めてやってきた甲斐善光寺。いつも素通りしていてすみません。この甲斐善光寺は1558年に武田信玄によって創建されたお寺。長野の善光寺が焼け落ちてしまうのでは?ということでここにも善光寺を作ったとか。この甲斐善光寺で甲州征伐の際に武田主家を裏切った小山田信茂らが処刑されたと伝わっています。雨が強くなってきたので…ここらへんで退散!もうちょっと今度はゆっくりこの辺りも回りたい。
8月16日に根羽村を訪ねた時に突如として生まれた今後の人生に影響する出逢いとは・・・(前々回の記事)『良知(心の羅針盤)に従うことの大切さ』おはようございます!今日のテーマはこちら「良知(心の羅針盤)」です。良知とは陽明学に出てくる言葉ですが良心の元の言葉とも言われています。…ameblo.jpそれは、藤久酒店の店主石原明治(いしはら・あけじ)さんです。このあたり一帯の歴史を隅から隅まで知り尽くしてい
山梨県立博物館の特別展日本に隠れなき弓取を見学した後は、甲斐源氏武田家の終焉の地へ行きました。景徳院天正10年3月、武田家滅亡後は織田信長が統治。同年6月、織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により横死。旧武田家家臣が蜂起、滝川一益は後北条氏に敗れ撤退。旧武田領の甲斐・信濃は空白地帯になり、徳川・後北条・上杉が争う天正壬午の乱が勃発。徳川が勝ち覇権を握る。家康は、いち早く旧武田家臣を配下に組込む。誰よりも武田信玄を崇め戦法を学んだ。同年7月、勝頼主従の菩提を弔うため徳川家康により
新府城から、涙の森を経て、躑躅が崎の館を通りすごし…。勝頼一行は大善寺(甲州市勝沼)にその日の夜着到した。落ちる者多く、もはや二百人足らずになっていたとも。大善寺!「ここはよ、国宝ぞ!檜皮葺の屋根は圧巻、そして内陣の仏像群は…」興奮して説明せんとする私を遮って、「分かった、分かったてっことよ、さ、いこいこ!」と相方(ったくもう!)如何でしょう、この檜皮葺。過去の天気良き日のをご覧あれ。話を勝頼一行にもどす。この大善寺には武田家一族の理慶尼が居た。理慶尼は、覚悟を決
※大鋒寺真田信之公霊屋標柱(長野市指定文化財)真田信之公の墓大鋒寺2️⃣戦国武将、大名の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(天正元年1573年〜天正13年)豊臣政権(秀吉関白宣下天正13年〜
※真田信之公銅像と案内板…信之公松代藩主就任400周年記念事業で造られました上田城に信之公像がないので嬉しいのは、嬉しいですが…!?「おっちゃん」やん!、もうちょっと幸村公のように「イケメン」銅像にしてあげればいいのに…と思いました実際、信之公は、小柄だった父昌幸に似ず180cmを超える「大男」のイケメンだったようです本多忠勝の娘、稲(小松)姫は、信之を駿府で見たとき「目が♥️マーク」になっていたそうです信之公は、松代発展に尽力し、「名君」として、民衆の尊崇の対象となりまし
明智秀満(67)「信長公記」『群集栄花を誇り、常は簾中深く、仮にも人にまみゆる事なく、いつきかしづき寵愛せられし上﨟達、幾程もなく引き替へて、勝頼の御前、同そば上﨟高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、信玄末子のむすめ、信虎、京上﨟のむすめ、此の外、一門親類の上﨟の付き付等、弐百余人の其の中に、馬乗り廿騎には過ぐべからず。歴々の上﨟、子供、踏みもならわぬ山道を、かちはだしにて、足は紅に染みて、落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。』かつては御簾の中で優雅に暮らして
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡しばらく甲斐武田家ゆかりの記事が続きます。戦国大名の甲斐武田家はここ「景徳院」で滅びますが、現在でも信玄公の血統は続いてます。武田勝頼公、北条夫人、信勝公自害地とお墓があります。参道を登って行きます。本殿近くまで車で行く事も出来ます。本堂近くの駐車場天正時代の山門が見えてきます。立派な三門です。北条夫人や信勝公の辞世の句があります。勝頼公と北条夫人の自害の地が囲って大切に保存されてます。勝頼公北条夫人信勝公の自害場所は少し離れてます。
おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠に有り難うございます。ブログ管理人の高坂美慧です。先日の山梨の旅より、甲州市大和町田野にある景徳院について書いていきます。武田勝頼公北条夫人武田信勝公および50名以上とされた家臣の最期の地で武田勝頼公の菩提寺です。また、武田史研究会副会長の平山優先生のご先祖の地です。平山先生は小さな頃に「この地で武田勝頼公が最期を迎えた」と聞かされた時から、「かわいそうに…」と胸を痛めたことが武田氏に関心を寄せるス
読んで頂いている皆さま、いつも更新が遅くなりまして申し訳ありません今回は大河ドラマ『真田丸』を観た時から行ってみたいと思っていた場所です♪現在『日川』と名付けられているこの川の上流には発電所がある為、かつての姿を見る事は出来ません天正10年(1582年)3月3日、武田軍は織田徳川連合軍の侵攻を受け新府城を放棄します小山田信茂の岩殿城に逃れようとしますが、武田軍から離反する事を決めた信茂に追い払われる事になりますやむなく進路を天目山棲雲寺に変更するも、3月11日滝川一益軍と合戦に
まずは背景から…長篠の戦いに敗戦、多くの重臣を失った武田勝頼。次の戦に備えて甲府では勝てぬと新府城を普請するも国中から労役を募るので、余計に武田領内は疲弊。------------------------------------------------------------------見かねた木曾義昌の裏切りにより、出兵した武田勝頼を待ち受けていたのは多方面からの織田・徳川軍の進軍。信長・信忠父子は伊那から進軍を開始。金森長近は飛騨から、徳川家康は駿河から。そして北条氏
景徳院にある、武田勝頼・信勝・北条夫人の墓参りです。武田勝頼とは戦国期の武将。晴信(信玄)の四男で、母は諏訪頼重の娘。幼名四郎。1562年(永禄5)元服して諏訪氏の名跡を継ぎ勝頼と称す。信州伊那郡代として高遠城を守る。67年に長兄の義信が信玄により反逆罪で刑死させられたのち、信玄の嗣子に定まる。73年(天正1)信玄が病没すると家督を継ぐが、遺言により喪を3年間秘し、信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いた。父の遺業であった西上作戦を続行し、74年の初戦では遠江の高天神城を陥落させた。しかし7
KKR甲府ニュー芙蓉さんをチェックアウトした私達は近くの武田神社様に初参拝しました。有名な渓谷である昇仙峡も車で30分くらいなのでどちらへ行くか迷いましたが、初めての甲府訪問ということでまずは武田神社様へとご挨拶に伺いました。武田神社様は躑躅ケ崎館跡にありご祭神様は武田信玄公です。信玄公御父君の信虎公が建築して、永正16(1519)年にそれまで甲府の中心だった石和館から移りました。天正9(1581)年勝頼公が新府(韮崎)に移るまで62年の間、甲斐武田氏
隣国、相模の北条氏から甲斐の武田氏の元へ嫁ぎ、その身を武田家の滅亡と供にした北条夫人、北条氏供養・法名「桂林院」、武田氏供養・法名「陽林院」の肖像です。今回のモデルは目元が涼しい黒島結菜さんになってもらいました。結菜さんは、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で時代劇初挑戦、高杉晋作の妻・雅を演じました。武田信玄の家督を継いだ勝頼は1575年に長篠の戦いで織田、徳川連合軍に大敗します。1577年1月、その後の策として織田、徳川と対抗するため北条氏と同盟を強化することと成り、時の領主北条氏政の
こんばんは/おはようございます日本列島が全体的に雪模様とおききしました。海外も北半球は本格的な冬あなたの街の雪景色はいかがでしょうか。いきなり豪雪状態のところもあるようですね。こちらはまだ花も咲いてるし本格的な除……除雪をするほどでは…ありません…『花よりだんご…』…っていう世句/“せいく”をきいたことがありますが線路沿いに咲く花をスケッチしていたのですが除
芍薬塚から、塩山に行きました。甲斐源氏武田家を語るには、外せない場所です。何故なら、ここには甲斐源氏武田家の家宝として楯無が奉納されているから。国宝に指定されている小桜韋威鎧兜大袖付。菅田天神社承和9年(842年)、甲斐国司の藤原伊太勢雄が勅命により創建。菅原道真を祭っていることから、菅田天の由来。甲斐源氏の鎮守、甲斐武田氏の篤い保護を受けます。鳥居随身門新羅宮狛犬楯無とは何か。始祖新羅三郎義光(源義光)以来、甲斐武田家代々の家宝として相伝。楯無と号する鎧。織
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」麟岳和尚の活躍と最期の紹介です。武田の親族である麟岳和尚麟岳和尚は詳細は不明ですが、武田家の親族であり勝頼にとっても頼れる家臣団の1人でした。麟岳和尚が武田家一族であることは「甲乱記」や「武田三代軍記」等に記されています。麟岳和尚は、織田との激戦が始まる前に武田勝頼が戦線離脱を諭すものの、それを断り、最期までともに戦い戦場の露と消えます。各史料を以下要
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」勝頼と最期まで戦った将士を紹介します。勝頼に最期まで付き従った勇士たち勝頼主従は最後の1人まで武田の意地を見せて戦いました。わずかな兵力ながらも、「武田の兵47人を以て、5000の織田の兵を、四度突き崩し、討ち捨てた敵は都合380余人、手負いは500人におよばす。」という働きをしました。以下は、各史料に見える勇士たちの面々です。※記事は色文字を使って
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、古戦場めぐりの旅、武田勝頼、信勝父子の首を洗ったとされる、首洗い池の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、再開です。上記とリンクしていますのでよろしくお願いします。古戦場名ゆかりの武将住所首洗い池武田勝頼、武田信勝山梨県甲州市大和町田野誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」武田勝頼の活躍と最期の紹介です。その他、子・信勝をはじめ、家臣達の活躍と最期も余すところなく記します。気合い入ってます•(๑•̀ㅂ•́)و長いですけど、ぜひ最後まで読んで下さいね。武田勝頼対織田信長、いよいよ、クライマックスです大いに暴れまくり、戦場に散って行った勝頼主従たち勝頼主従は、織田の大軍を前に、縦横無尽に切りまくります。勝頼を中心に信勝と
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」土屋惣蔵の活躍と最期の紹介です。勝頼・信勝父子とともに奮闘した武田家の忠臣土屋惣蔵昌恒(まさつね)は勝頼に最も信頼されていた家臣だったようです。勝頼・信勝父子とともに3トップを組み、弓にて戦い、矢が尽きた後、刀で戦い、あるいは、刀を抜こうとした隙に、討たれたようです。土屋惣蔵の活躍の様子が各史料に詳しいので、以下要約抜粋します。土屋惣蔵の活躍は色分
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、武田信勝の墓の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。人物名墓のある施設住所武田信勝景徳院山梨県甲州市大和町田野389誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」信勝の活躍と最期の紹介です。武田の若き美丈夫・信勝の活躍擐甲の礼を行い晴れて武田家の頭領となった信勝は、十文字の槍を使い縦横無尽に敵を蹴散らします。その勇猛さと美しい容姿が相まって、敵味方ともその姿に感嘆するものも多かったようです。その様子は下記史料に記されていますので、要約抜粋します。※記事は色文字を使っています。スマホで表示されない場合、一度前の記
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将な寺社街道めぐり楯無の鎧の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。史跡名ゆかりの武将住所楯無の鎧武田信勝、武田勝頼、新羅三郎義光、徳川家康山梨県甲州市塩山上於曾1054誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示され
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将な寺社街道めぐり、旗竪松の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅、再開です。リンクしていますので、よろしくお願いします。史跡名ゆかりの武将住所旗竪松武田勝頼、武田信勝山梨県甲州市大和町田野389誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、3月11日の武田軍VS織田軍の激戦の様子を紹介します。最後まで残った武田の忠臣、織田軍との戦闘開始ついに織田軍と武田勝頼軍との合戦がはじまります。前回のブログに記したように、武田勝頼軍の兵力は勝頼主従合わせて、「甲陽軍鑑」では43人、「三河後風土記」では44人、「武田三代軍記」では47人とわずかなものでした。到底勝ち目のない戦ですが、残ったのは勝
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」、3月11日の武田勝頼の動向その1を紹介します。武田勝頼、ついに織田の軍勢に遭遇す田野の地から天目山へ向け出立した武田勝頼一行でしたが、行く手の先で農民の一揆、天目山の山伏と小山田の兵の来襲があり、先へは進めず、ついに進路を絶たれてしまいます。勝頼一行は田野の地へと再び引き返し、陣を固め、臨戦態勢に入ります。3月11日、ついに田野の地に織田の軍勢が
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、武田勝頼最後の陣所の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。城名(別名)住所関連する人物武田勝頼最後の陣所(現景徳院)山梨県甲州市大和町田野389武田勝頼主従誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示され
武田家…。勝頼公は家族には恵まれていたんだろうなぁ、と思う時があります。もう少し時があれば、あるいは…。
「レイリ」最終6巻が本日発売ということで、早速、朝、本屋で買って即読了しました。待望の6巻でしたが、ついに読み終わってしまったという寂しさも残りました。5巻までの感想記事↓「レイリ」1~4巻感想「レイリ」5巻感想+6巻以降の史実と気になる展開最終巻でも史実を確りとなぞりつつ、しかしその裏にはレイリの意外な大活躍があった、といった内容で読み応え満点でした。そして良い意味で予想を裏切られる清々しくて希望が持てる感動のラストシーン。零里(レイリ)、一里、二里、三里・・・最終巻