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梅雨入りしましたね今月は意外にも忙しくなり本日も交流演武大会などがありました自選難度競技選手や世界チャンピオンにも輝いたアスリート動作や技の質、小さなこだわりは勿論のこと表演だけじゃなく表演前の様子にも学ぶところが多く和やか交流イベントであっても非常な学びの場となりましたこれは、どのレベルでも見ることで何かをを感じとって自分の糧となる僅かなヒントを受け取れるかどうか…「3人行えば必ず我が師あり」どこでも勉強、日々精進だナと疲れたけれど、良い1日でしたでまたも
正直、週末の疲れがやっと抜けまして久しぶりの打点つき(採点競技)で大会実行運営の関係者様審判員の先生方、スタッフの皆様方本当にありがとうございましたまあ、個人的には反省は勿論いろいろありましたけれど……一番良かったナと思ったのは(身内の翔龍メンバーからではありますが)不肖ワタクシの…「演武の時は場が明るくなった」とこういうのが、目指しているところでもありすべてにおいて、嬉しい感想で言葉ですまだまだ全然「景」や「情」を表すには至りませんが
「少林寺2」“小林小子”(1883/中国=香港)監督:チャン・シン・イェン脚本:何樹華梁治強リー・リンチェイフー・チェンチャンユエ・ハイティン・ナンチー・シュンホァ大ヒットした「少林寺」は公開当時に映画館で観た。その後今回のオンエアにあわせて放送されたものを改めて観たけれど、やっぱり文句なく面白かった。映画初出演で主演を務めたリー・リンチェイも実際に武術大会で名をはせただけあって、その華麗なカンフーアクションを堪能するだけでも一見の価値はある
あなたの剣はいい数年前に言われた言葉だ。とはいっても実際に何と言われたのかは知らない。全く分からない中国語で言われたから。言ってくれたのはもと中国チャンピオンに輝いたことのあるU老師。ワタシの所属する協会の生徒が偶然来日している老師と知り合いその縁で数年だけ不定期で来日された際教えてくれてた老師だ。彼女が太極拳で教えてくれたのは陳式老架陳式扇。他にも武当剣や名称のよく分からない套路をいくつか。短期間でよくこんなに教えてくれたも
全日本武術太極拳選手権大会女子伝統器械で武当丹剣に出場しました。高校一年生で初全日本大会でした。正面から動画を撮っていただきました。
全日本武術太極拳選手権大会2日目。COOL武術太極拳クラブから女子伝統器械で武当丹剣で出場。動画いただきました!高校一年生
ど~もねワタシだけ浮いてるんだよあるきっかけで陳式扇や陳式老架一路武当剣などなどを教えてくださった元チャンピオン中国人老師。もうお会いすることはなくなったけれど教えてもらった套路を忘れないようにとそのときに指導を受けたメンバーが月に一度集まって復習をしているのだ(とは言っても実質Kセンセがみんなに教えてるんだけどね)。メンバーは全員ワタシが所属してる太極拳協会の会員だ(協会の一部の人達なの)もう何年も経つんだけどその間
色々あって今月から今深センに1ヶ月滞在して王先生よりほぼ毎日2、3人(対練相手となっていただいている師兄が1、2人と自分)で集中指導をしていただいている。本日で10日目。太極拳が一段落しそうなので少し書く時間が出来た感じだ。まず息子が日本だと来年4月に小学校へ進学するので、色々と考えた結果、それに合わせて帰国することにした。決めたのが5月、6月くらい。来年の2月くらいまで深センに通って王先生より出来る限り学ぶつもりでいた。ところが幸か不幸か?(※)広州で現地採用として働いていた会社がなん
先週土曜は深セン・香港が大雨だったので自分を含めて4人しか来なかった(普段は平均して15人程が学んでいる)。タクシーを降りて練習場所に着くまでの5分程の間にかなり降られて靴の中まで水に濡れた。それでも人数が少ない分、先生からかなり細かい指導を受けることができて良かった。最近の練習は麒麟鞭、春秋大刀と武当剣、三節混がメインになっていて、最後は先生について武当太極拳の変化を学ぶといった流れになっている。武当剣は動作が多く、身法の難易度が高いうえに流れるように行う。テクニックにばかり気を取
宋唯一の「武当剣譜」李景林の従弟である蒋馨山の系統では、蒋が宋唯一に長く習っていなかったにもかかわらず宋の武当剣譜をよく研究し、詳しい解説を文章として残す弟子や孫弟子が出てきている。この文章に書かれていることは、自然派に伝わる飛龍剣が、宋唯一のそれと同様のものであることをより強く感じさせる内容であったので、一部私見を加えながら意訳した。宋唯一は著書「武当剣譜」の中で以下のように記している。「意外にも、剣法と槍法は似ている。左手で守り、右手を槍の如く使って剣を突き出したり戻したりする
はじめに前回李景林が伝えた武当剣について書いたが、今後数回は宋唯一が「武当剣譜」内に記した武当剣について書こうと思う。まず、最初に現在自分が学習を進めている三豊自然派の剣、ならびに宋唯一が学んだ武当丹派について、その後いろいろと王先生よりお話を伺う機会があり理解が進んだので忘備録として書き進める。今までも書いた文章は変えてきたが、武当剣については今後かなり加筆・修正を行うつもりでいる。国内で宋の剣譜を研究している文章のほとんどが、李景林の武当剣を元にして行われている。李が晩年山東国術館で必修
体系中国武術の多くの門派は南北を問わず、套路での1人練習を中心においているものが多く、対練(対人練習)は後から学ぶか、その都度パターン化した掛け合いを行うが、李景林の伝えた武当剣は、まず先に基本となる「対剣十三勢」を学び、続けて「武当対剣」「活歩対剣」「散剣法」と対練を中心に学んでいく方法をとっていた。山東国術館では、楊式太極拳、八極拳、武当対剣、六合槍が必修科目とされていた。※楊奎山(李が軍人であった頃からの大弟子)の弟子、呉志泉の発表した「八千里路雲和月-李景林、楊奎山師徒伝奇ー」から。
今日の河内長野ジュニアは一人ですけど、武当剣をしました。少しずつ滑らかに動けるようになってきました。
劉理航は俗名定国、1902年5月25日、武昌北沙(現在の湖北省武漢市武昌区)に生まれる。幼い頃に外家拳を習い、後に武当派を学んだ。系統的に武当龍門派の太極拳と、武当玄功拳などの技法を纏め上げた。外家拳を学んでいる時、闡非和尚という仏門の徒との親交深かった。劉は自身の拳法に柔が足りないことを闡によって指摘され、また闡より全真龍門派、武当純陽門の王至道を紹介された。それより武当派の拳法、剣法を学ぶことになった。後に龍門派の教練として過ごし、02年10月、101歳になる歳に武当山の麓、漢口で羽化した
王先生に教わるようになって半年が過ぎた。2ヶ月過ぎたくらいから既に自分でも驚くほど思考が鮮明になってきていて、王先生がいつも言われる「神意変化」がどういうことなのか、感覚的に分かり始めてきていた。意識の変化、動作、身法の変化を考えるようになって、練習しているときに自由に技の組み合わせや増減を行いながら、傅家拳の陰陽八卦を変えていくという作業を行った。歩法も構えに対する要求も全て自然派の要求にしたがって変えた。傅家の形は残しつつ、自然に。王先生のところで習っているものと、元々あるもの、
武術を伝えていくうえで大事な心構えとは何か。「誰かと同じ道を歩むな、自分の道を進みなさい」その王先生の一言で、今まで修めてきた武術は大きく変わろうとしている。自然派は他の門派のように、学習者を門のくくりの上に縛ろうとしない。無限の変化を求めていて、そして自由だ。傅振嵩の学んだ武術の研究そこから離れることの無い範囲でできることの枠を広げていこうと考えていたが、そんなことはどうでもいいのかもしれない。傅家拳を良い形で残したいがために、悪いところも見えてきたり、色々と「伝える
王先生に言われた。「お前の拳ははっきり内家拳だとは言えない。重大な欠陥がある」正確には一部を除いて動作を行う際、そのほとんどが要求からかけ離れている、ということだ。最初は落ち込んだ。10年近い練習はなんだったのか?と。しかし、続けて、「手直しにはある程度時間がかかるが、習ってきたものが無駄になったわけではない。まずはクセを抜かなくてはならない」とも言われた。その根本的な部分とは「命門」を突き出すというものだった。背骨を弓に見立て、波打つような背中の
傅剣秋が中国で語られる際、必ずと言っていいほど話題に上がるのは、武当山での話と同門の弟弟子、薛顛との立会いである。薛顛は少年時代に何年か私塾に通って学んだが、後に学問を捨て、李存義門下で形意拳を学ぶことになった。薛は李存義が晩年にとった得意弟子であったといわれ、李はよく人前で薛のことを賞賛しており自身の武館を彼に継がせても良いと考えていたほどである。薛自身はプライドが高く自信家なところがあり、自分は無敵だと思い上がっていた。ある日、師兄である傅剣秋と山東省の宿屋にいる時に武術について
武当山での交流29年の杭州大会が終了したのち、武当山からは人が参加していなかったこともあって、李景林が一筆したためて武当山を訪問することが提案された。その際手紙を届ける役に選ばれたのが傅剣秋だった。武当山の紫霄宮で傅は徐本善との知遇を得る。※傅の弟子が一緒に武当山を訪れ徐について学んだ記録があり、27年と29年が混ざって記載されていた。徐と手合わせしたのは27年で、29年には弟子を引き連れて再度訪れている。徐は号を偉樵といい、武当山の道総(仏教でいうところの住職や管長を言うが、ここでは山全
練習場所に難儀して、一向に進歩していないと感じている鞭だったが、引越して場所の問題が解決したのと、新たにパターン練習をするようになってから、八卦掌と繋がる動作が多々出てきたこともあって、少しずつ楽しくなってきている。中でも八卦鞭の練習が始まったところが大きい。自然派の八卦掌では八大圏手といって両手を回しながら走圏するのだが、その手に鞭をもち、振り打ちながら歩くのが八卦鞭の基本動作だ。先生所有の鏈鞭(途中まで鎖で、先のほうがムチのようになっている。3メートル近くあり、普段練習で使っている鞭
武当鉄砂掌の練習方法1袋の構成鉄砂10斤(5kg)、河沙70斤(35kg)、緑豆10斤(5kg)、高粱10斤(5kg)2薬の配合透骨草3两、地骨皮2两、甘草1两、防風1两、紅花5銭3手を洗う薬の配合地骨皮3两,透骨草3两,甘草2两,防風1两,紅花5銭,没薬5銭,虎骨草5銭4具体的な方法鉄砂などの材料を袋の中にいれ、さらに2の薬を粉にして袋に入れ混ぜる。袋は帆布か厚い布で作られたものを用いる。洗薬は大きな壷の中に若干の粮食白酒(アルコール度50~60度数
王先生の師である張奇先生(大連在住)が、ホームページを開かれ、その中で鉄臂功、鉄砂掌についてふれていたので、その文章を一部抜粋し翻訳してみた。同内容は先生の指導なく行うことで身体に害が及ぶ非常に危険な練習方法であるので、参考までに読んでいただきたい。興味のある方は張奇先生に連絡を取って、直接学ばれることをお薦めする。大連師範大学で教鞭をとっておられる。鉄臂功鉄臂功はもとは「北斗神功」、「鉄臂神功」とも言われ、本派(自然派)における絶技の一つである。歴代の師長はこの功を至宝の如く守り、
太極拳創始伝説で知られる張三豊は、遼東懿州(現在の遼寧省阜新市)の人で、宋代の人とも明代の人とも言われている。(宋の張三峯と明の張三豊、名前の記載が異なる。中国の発音は峯も豊も「feng」で同じ)各地を遊歴した後、以前医巫閭山で3年に及ぶ修行を行ったとされており、弟子の邱玄靖、張玄清が自然派の第一代の祖師とされ、その後多く分派していった。
武当山から出た伝承者の中で、90年代から現在に至るまで世界各国に弟子や孫弟子を持ち、国内外で影響力の強い人物が3人いる。三豊派の鐘雲龍、玄武派の游玄徳、純陽門の岳武の3人だ。その中で、良くも悪くも武当山の広告塔として一世を風靡した人物が游玄徳だ。游玄德は号を彦学、道号は玉京子、洞天真人。自称松鶴山人。河北省晋州出身、1949年9月生まれ。南武当山道家協会創始者。王光徳より玄武派を受け継ぎ、十四代掌門人を名乗る。5歳から武術の練習を始めて、13歳の
三豊派とは、もともと武当山に伝わる道教宗派を複数継承していた王光徳から鐘雲龍道長へと伝えられた道教における宗派の一つだった。王光徳が三豊派の「武功」を習ったという記載もあるが、同派の中に本来存在していたと思われるものが何なのかはっきりしないため、武術的には道士が儀礼用に用いる程度だったのではないかと思われる。三豊派は同派を継承して第十四代掌門人となった鐘雲龍道長によって膨大な套路・功法数を有する武術門派へと様変わりした。武当山で鐘道長が学んだ散在する道家の武術、気功、中医学と、
陰陽八盤掌董海川の弟子、劉宝珍に習った任致誠が名前を変えて伝えたもの。天津で程派八卦掌を教えていた孫錫堃の書いた「八卦掌真伝」を見て孫に手紙を送ったが返事が無かったので直接会いにいったところ、孫に果し合いを申し込みに来たと勘違いされてしまい、不愉快な思いで岐路についたことが八盤掌を創始するきっかけとなった。孫の「八卦掌真伝」と区別するため、その後「陰陽八盤掌」という本を書いて創始者伝説などを創作。任の子孫らが董海川の出身地で伝えてきたこともあって、一時期は「陰陽八盤掌が八卦掌の源流」という話
宋唯一の師、張野鶴(璧月侠)武当三豊自然派の中でも語られるのが宋唯一(1860-1925)だ。16歳より閭山の道士張野鶴(名を璧月侠(月を雲とも)、道号を還丹子)に丹派の剣法を学んだ。生前に「武当拳譜」、「剣形八卦掌譜」、「道家修道録」の3つを著書として遺したが、「武当剣譜」以外は焼失したとされている。自然派には確かに独自の教学方法と八卦掌が伝わっている。何より「武当剣譜」内に記された剣を持つ前の基本功の動きは八卦掌そのものである。しかしその区別は○○派、と呼ぶ以上の差異はみられず