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去る10月6日、自分は王先生へ拜師し、武当三豊自然派第二十七代(祥字輩)、並びに武当玄武派第十六代(微字輩)となった。傅振嵩伝八卦掌・武当傅家拳と共に、武当派の教えを広く伝え広めていけるよう努力しようと思う。拜師帖当日、いつもは自分だけで向かう練習場所へ家族を同行した。1時間程練習すると師母がやってきて練習場所を抜け、王先生のご自宅へ向かう。師母より儀式の流れを説明していただき、その場で拜師帖を書く。拜師帖は門派や先生によって書き方が全く違う。広州で文龍先生に拜師した時は自分が先
色々あって今月から今深センに1ヶ月滞在して王先生よりほぼ毎日2、3人(対練相手となっていただいている師兄が1、2人と自分)で集中指導をしていただいている。本日で10日目。太極拳が一段落しそうなので少し書く時間が出来た感じだ。まず息子が日本だと来年4月に小学校へ進学するので、色々と考えた結果、それに合わせて帰国することにした。決めたのが5月、6月くらい。来年の2月くらいまで深センに通って王先生より出来る限り学ぶつもりでいた。ところが幸か不幸か?(※)広州で現地採用として働いていた会社がなん
先週土曜は深セン・香港が大雨だったので自分を含めて4人しか来なかった(普段は平均して15人程が学んでいる)。タクシーを降りて練習場所に着くまでの5分程の間にかなり降られて靴の中まで水に濡れた。それでも人数が少ない分、先生からかなり細かい指導を受けることができて良かった。最近の練習は麒麟鞭、春秋大刀と武当剣、三節混がメインになっていて、最後は先生について武当太極拳の変化を学ぶといった流れになっている。武当剣は動作が多く、身法の難易度が高いうえに流れるように行う。テクニックにばかり気を取
剣八法六勢譜同譜では、八剣は左右を両儀とし、「撃」、「刺」、「格」、「洗」の四法を四象として、左右四法あるので八剣となり、また「旋」「転」「探」「摩」「翻」「滚」「躍」「換」を八法として、変化の中で八剣に各八法の変化をし六十四勢となる。各勢は6つの手法(招式)から出来ているので全部で三百八十四手になる。「武当剣譜」に記されている剣譜は呪符のような簡易文字である「字」の組み合わせで構成されている。李景林の伝人達が剣譜について読み解こうとした文章を発表しているが、剣形八卦掌と飛龍剣の身法・名称に
宋唯一の「武当剣譜」李景林の従弟である蒋馨山の系統では、蒋が宋唯一に長く習っていなかったにもかかわらず宋の武当剣譜をよく研究し、詳しい解説を文章として残す弟子や孫弟子が出てきている。この文章に書かれていることは、自然派に伝わる飛龍剣が、宋唯一のそれと同様のものであることをより強く感じさせる内容であったので、一部私見を加えながら意訳した。宋唯一は著書「武当剣譜」の中で以下のように記している。「意外にも、剣法と槍法は似ている。左手で守り、右手を槍の如く使って剣を突き出したり戻したりする
はじめに前回李景林が伝えた武当剣について書いたが、今後数回は宋唯一が「武当剣譜」内に記した武当剣について書こうと思う。まず、最初に現在自分が学習を進めている三豊自然派の剣、ならびに宋唯一が学んだ武当丹派について、その後いろいろと王先生よりお話を伺う機会があり理解が進んだので忘備録として書き進める。今までも書いた文章は変えてきたが、武当剣については今後かなり加筆・修正を行うつもりでいる。国内で宋の剣譜を研究している文章のほとんどが、李景林の武当剣を元にして行われている。李が晩年山東国術館で必修
体系中国武術の多くの門派は南北を問わず、套路での1人練習を中心においているものが多く、対練(対人練習)は後から学ぶか、その都度パターン化した掛け合いを行うが、李景林の伝えた武当剣は、まず先に基本となる「対剣十三勢」を学び、続けて「武当対剣」「活歩対剣」「散剣法」と対練を中心に学んでいく方法をとっていた。山東国術館では、楊式太極拳、八極拳、武当対剣、六合槍が必修科目とされていた。※楊奎山(李が軍人であった頃からの大弟子)の弟子、呉志泉の発表した「八千里路雲和月-李景林、楊奎山師徒伝奇ー」から。
はじめに武当剣の歴史・技術を紐解くにあたり、武当丹派の伝人である宋唯一や、その弟子である李景林の存在は避けて通れない。宋唯一については以前八卦掌の起源について書いたときに一度触れているので、李景林を中心に書こうと思う。李は人生の大半を軍人として過ごしており晩年まで職業武術家ではなかった。弟子は武術の師弟関係であると同時に部下でもあり、大部分が軍属であったので、今でこそ派生が多い李の武当剣も生前人目に触れる機会は少なかった。晩年山東国術館館長となるまでに500人以上の弟子をとったというが、お
春秋大刀先々週から王先生が遼寧省より帰ってこられ、春秋大刀を一部の師兄達に教え始めた。師母が習えばいいと参加を薦めてくれたが、王先生からは「剣の方が大切だから剣をもっと練習しなさい」と言われていたので休憩中に若干眺める程度だった。今回、まだ人が集まらない時間帯に鞭を練習していたところ、「それぐらいにして大刀の練習をするように」とOKが出た。自然派において、大刀は最後に教えるという。理由は単純で、「重たいから」だそうだ。動きの中で負荷をかけながら行う練功法は、他派にも多くみられ、同派で
今月は王先生が一時故郷の方へ帰っておられ、師母(先生の奥様)が代理として教授されている。師母は若い頃に楊式太極拳を習い人に教えられる程にまでなったが、低架の練習をし過ぎて膝を痛めてしまったそうだ。後に王先生から武当三豊自然派を習うようになり、膝は大きく改善されたという。師母の打つ楊式太極拳は楊班候の大架を想像させるかなりの低架で、表演武術とも趣が異なり、60代とは思えない。武当太極拳を打つ際も架式が低く功力の深さを感じる。王先生の教え方は「持って帰れるだけ持って帰れ」なので、基本的に一つの
自然派について、いろいろと調べていたら、張三豊の出生地と言われている場所に建てられた祠の紹介と、王先生の師の一人である張奇先生が書かれた文章などを見つけたので、まとめて意訳してみた。張三豊の出生地と張三豊祠太極拳創始伝説で語られ、武当派を学ぶ者から崇拝の対象となっている張三豊の出生地にはいくつか説があり、有名なものとして古望平県糧漁業、即ち今日の黑山県姜屯鎮土城子村が挙げられる。張三豊の祖父、裕賢公は、天下に王気は東北から昇りあがると知らしめんと欲して、江西龍虎山から遠く万里を超えて遼東
走圏②の「後趟」では、「掀蹄(踵を地面から離して挙げる)」せず、踵から歩を進める功法を記述した。今回は次に行う「前趟」、そしてその後に続く「平趟」について。「前趟」「後趟」が踵を中心とした歩行であったのに対し、「前趟」は脚掌を中心とした歩行となる。「後趟」と異なり、「前趟」では若干「掀蹄」し、踵が見えるが、「亮掌(脚掌(前足底とその周り)が見えるように足を降ろす)」はしない。足を降ろす時は、脚掌と地面が平行とになるように降ろし、降ろす直前に約半歩程前に滑らせるように進める。程派の擩步
先週の練習は長穂剣、武当太極拳、鞭、流星錘、八卦双刀、推手・塔手など。長穂剣今回から始まった長穂をつけた剣の練習。鞭(双頭龍、縄鞭)の練習が進んでいるので、剣穂の扱いも応用でいけるだろう高をくくっていたが、大間違い。びっくりするぐらい長穂が扱えない自分が嫌になった。課題は撩花、勾挂と、それらを行いながら空中(わずかに上げる程度)での剣持ちかえ2種。特に撩花が全くできなかった。先に剣穂が来て、その後から撩剣するのだが、剣穂が刃や柄に引っかかる。30分くらいひたすら繰り返すが、思うように穂
難得的糊涂自然派の教学方法などの話は今回で終わりに。自然派が進む段階的な教学方法をまとめると、①拳、兵器共に連続した招式(パターン練習)の学習を重ねる※最初の段階では拳種または伝統的な定法(基礎となる形)によって套路も学ぶ②自由に招式を組み合わせること(アドリブ練習)ができるようになる。③套路を編纂できるようになる④攻防においても三拳それぞれの、また武当派の風格(四攻)を持って動けるようになる⑤五行八卦合太極、太極八卦合五行、太極五行合八卦と、三拳を合わせて総合拳を生み
套路はいくらでも創れる前回からの続き「套路を套路のまま練習すればそれで何もかも完結してしまう。そこに変化は生まれない。今日動いてみて分かっただろう。習ったものを応用して、自分で套路を創れ」。套路を創る「法」がある。それは普段先生が言われている「三性(養生、攻防、芸術)」が含まれ、守られていることだ。技の組み合わせが三性に沿ったものであれば、どのような套路であっても正しい。(具体的に細かな方法がある)打ち終わって息が切れたり、どこか身体を痛める物なら正しいとは言えない。眼神(
即席演武会先週土曜の練習では、久しぶりに顔を合わせた兄弟子が(木曜日に来ているらしいので会うことが少ない)縄鞭の練習中にこれでもかというくらい先生から怒られていた。何年も練習しているのに何故ほかの者と同じことをしているのか?起式と収式がなってない!ということだった。そこから「起式」、「孕式」、「収式」についての講義と、当日練習していた15人程で即席の演武会が始まった。以前も書いたが、武当派においては「以道演武、以武顕道(道(dao)を以って武を演じ、武を以て道が現れる)」の考えに
起式、孕式、収式前回の練習では初めて王先生の打つ自然派の武当太極拳(36式)の変化を拝見した。香港で出版された先生の著書に載っている同じ名称のそれとは似ても似つかない形だった。「定、活、変」における活、変の段階で、太極拳と呼ぶのかどうかも判断できないほど変化していた。絶えず移り変わり、常に過途式(動いている途中)で一つの姿勢になって止まることがない。眼に見える速さも五行(形意拳のことを自然派では五行と言う)、八卦(掌)が組み込まれているので急変するため、初見ではだれも太極拳だとは思わない
自然派の教え方は、最初は何が何だか分からず、ただ先生の功夫の大きさに感嘆し、ひたすらついていくだけだった。2年目に入り、練習しているうちに、まだぼやっとではあるが全容がはっきりしてきた気がする。三重螺旋螺旋は練習の段階的な教学体系を指す。円の大きさを功夫に例える。徒手・兵器各種を順々に習うのを、時計の針が時間を1時、2時と刻んでいく様に(円を描くように)見立てる。学習開始が時計の12時とすれば、終わりは再び12を指すので1つの円が形成される。始まりと終わりが結ばれる、これは「定
深圳の練習では、現在八卦掌、武当太極拳、鞭(双頭龍、縄鞭)、それに双截棍(ヌンチャク。1本と両手に2本もって行うもの)あたりを教えていただいている。出来ることも徐々に増えてきて、習ったことがないものがとにかく多いので学びの緊張と喜びを享受している。食事の前に、先生から「大輔、なんでお前は今日太極拳の練習に参加しなかった?練習したくないのか?」と言われた。先生からゴーサインが出るまでは太極拳の練習には参加してはいけないと思っていたのだ。「そういった考え方は正しい。だが、ここで
玄功とは中国語でこの上ない功績などのことを指し、「玄」だけだととどまることのない変化、遠く、見えない結果などの意味がある。また、深く、簡単には理解できない深奥な道理、深い黒という意味で玄黒という色を表す単語としても使われる。日常生活では「当てにならない」、「嘘くさい」といった良くない意味でも使うこともあるが、功法としてはむろん深奥、神妙な功法、といった意味で使われる。武当八卦掌においては、回転する功法として、旋功とも呼ばれる。※旋と玄はいずれも「xuan2」で、発音が同じ。旋功掌型は「剣
はじめに八卦掌は董海川が世に出して以来200年ほどと、他門派に比べてまだ歴史が浅い。にもかかわらず、董の弟子のほとんどがすでに何等かの武芸を修めてから弟子入りしていた(帯芸投師)こと、また弟子のバックボーンを活かす形でそれぞれ教え方を変えた(因材施教)ために、一人一派と言えるほど多くの分派が生まれた。最大の特徴である歩法についても、門派によって練功の目的や解釈が異なっている。例えば、同じ程派であっても、程庭華と、弟の程殿華の二人が伝えたものは違うし、その後代もどの弟子筋に習ったのかによって変わ
歩き始める前の姿勢と掌型姿勢足は肩幅程の間隔で立ち、内扣歩(つま先を若干内側に向けたハの字)にする。両足裏は側面から足底あたりに重心を持っていき、膝は若干外側に開くようにして、股関節は合わせる。小腹を上に向けるように、臀部を引っ込めて収腹し、命門部分を突き出す。姿勢を作ったら、馬歩転腰の容量で中、上盤を回して後ろを向くが、掌式は青龍探爪をとる。掌式「青龍探爪」と「丹鳳朝陽」・掌型「刀形」と「剣形」青龍探爪は、一方の手を上に、もう一方の手を前の手の肘下に近づけた(そえた)、八卦掌の
馬歩転腰基本練習で行う馬歩からの転腰は八卦掌の特徴でもある横勁を打ち出す強固な下盤(下半身)と、常に勁力を保った状態を維持するための訓練だ。王先生からは初日に連環掌と合わせて習い、その後何度も矯正してもらった。下盤は馬歩になっているので八卦掌でいう「剪子股」よりは、太極拳でいう「圓襠」や、意拳の「争力」といった言葉の方がしっくりくる。両足掌は真っすぐ前か、ややハの字にする。左右側面からやや土踏まずと于泉穴に意識を向け、膝は外側を向けるような意識だが、胯は合わせる(合胯。鼠径部を外側
自然派の武当八卦掌(宋唯一伝剣形八卦掌)では八つの手の形を作って歩く「定勢八掌」から、両手を回して走圏する「八大圏手」という練習に移っていく。両手を回す動作の中には、打つ、攻撃を遮る、引き込む(呑吐)、擒拿(関節技)などの要素が含まれており、非常に重要視される。この手で描かれる円の軌道と、八卦掌の歩法における基本動作である擺扣步を同派では「半圏」という。また小擺大扣、傅振嵩伝八卦掌で旋風掌、転旋風と呼ばれ多様されるその場で片足を軸に回転する動作を「整圏」という。傅振嵩伝八卦掌におけ
武当派諸派が伝える武当太極拳は、いずれも張三豊を創始者としてその道統が数百年に渡って続いてきたように説明している。個人的には王征南墓誌銘に太極拳の記載がないので、張三豊(峰)は太極拳というより「内家拳術」の祖であるという位置づけだ。民国時代から建国、改革解放、現在までに伝えられてきた道士達の武術に関しては少し調べれば考察できる。現代の武当太極拳は、いずれも陳、楊、武、呉、孫などの民間の太極拳を、散在していた武当派の内功武術に加味して編纂されていると見られるものが多い。武当山や道士の
王先生に教わるようになって半年が過ぎた。2ヶ月過ぎたくらいから既に自分でも驚くほど思考が鮮明になってきていて、王先生がいつも言われる「神意変化」がどういうことなのか、感覚的に分かり始めてきていた。意識の変化、動作、身法の変化を考えるようになって、練習しているときに自由に技の組み合わせや増減を行いながら、傅家拳の陰陽八卦を変えていくという作業を行った。歩法も構えに対する要求も全て自然派の要求にしたがって変えた。傅家の形は残しつつ、自然に。王先生のところで習っているものと、元々あるもの、
武術を伝えていくうえで大事な心構えとは何か。「誰かと同じ道を歩むな、自分の道を進みなさい」その王先生の一言で、今まで修めてきた武術は大きく変わろうとしている。自然派は他の門派のように、学習者を門のくくりの上に縛ろうとしない。無限の変化を求めていて、そして自由だ。傅振嵩の学んだ武術の研究そこから離れることの無い範囲でできることの枠を広げていこうと考えていたが、そんなことはどうでもいいのかもしれない。傅家拳を良い形で残したいがために、悪いところも見えてきたり、色々と「伝える
練習場所に難儀して、一向に進歩していないと感じている鞭だったが、引越して場所の問題が解決したのと、新たにパターン練習をするようになってから、八卦掌と繋がる動作が多々出てきたこともあって、少しずつ楽しくなってきている。中でも八卦鞭の練習が始まったところが大きい。自然派の八卦掌では八大圏手といって両手を回しながら走圏するのだが、その手に鞭をもち、振り打ちながら歩くのが八卦鞭の基本動作だ。先生所有の鏈鞭(途中まで鎖で、先のほうがムチのようになっている。3メートル近くあり、普段練習で使っている鞭
武当鉄砂掌の練習方法1袋の構成鉄砂10斤(5kg)、河沙70斤(35kg)、緑豆10斤(5kg)、高粱10斤(5kg)2薬の配合透骨草3两、地骨皮2两、甘草1两、防風1两、紅花5銭3手を洗う薬の配合地骨皮3两,透骨草3两,甘草2两,防風1两,紅花5銭,没薬5銭,虎骨草5銭4具体的な方法鉄砂などの材料を袋の中にいれ、さらに2の薬を粉にして袋に入れ混ぜる。袋は帆布か厚い布で作られたものを用いる。洗薬は大きな壷の中に若干の粮食白酒(アルコール度50~60度数
王先生の師である張奇先生(大連在住)が、ホームページを開かれ、その中で鉄臂功、鉄砂掌についてふれていたので、その文章を一部抜粋し翻訳してみた。同内容は先生の指導なく行うことで身体に害が及ぶ非常に危険な練習方法であるので、参考までに読んでいただきたい。興味のある方は張奇先生に連絡を取って、直接学ばれることをお薦めする。大連師範大学で教鞭をとっておられる。鉄臂功鉄臂功はもとは「北斗神功」、「鉄臂神功」とも言われ、本派(自然派)における絶技の一つである。歴代の師長はこの功を至宝の如く守り、