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太極拳をやってるといろんな壁が入れ替わり立ち替わり現れる。その中のひとつが手先の力ではやってはいけないと言われるコト最初は何でなるのか分からず。次にどうやったら解消できるのか分からず今でもやってしまうコトがモチロンある。丹田からの力を順番になんて言われても目に見えるモノでなしんなコト言われてもと心の中では随分反抗したもんだ(汗)さんざん注意されまくってるうち何でできないんだというコトは一旦置いといて何で手先でやっ
宋唯一の「武当剣譜」李景林の従弟である蒋馨山の系統では、蒋が宋唯一に長く習っていなかったにもかかわらず宋の武当剣譜をよく研究し、詳しい解説を文章として残す弟子や孫弟子が出てきている。この文章に書かれていることは、自然派に伝わる飛龍剣が、宋唯一のそれと同様のものであることをより強く感じさせる内容であったので、一部私見を加えながら意訳した。宋唯一は著書「武当剣譜」の中で以下のように記している。「意外にも、剣法と槍法は似ている。左手で守り、右手を槍の如く使って剣を突き出したり戻したりする
体系中国武術の多くの門派は南北を問わず、套路での1人練習を中心においているものが多く、対練(対人練習)は後から学ぶか、その都度パターン化した掛け合いを行うが、李景林の伝えた武当剣は、まず先に基本となる「対剣十三勢」を学び、続けて「武当対剣」「活歩対剣」「散剣法」と対練を中心に学んでいく方法をとっていた。山東国術館では、楊式太極拳、八極拳、武当対剣、六合槍が必修科目とされていた。※楊奎山(李が軍人であった頃からの大弟子)の弟子、呉志泉の発表した「八千里路雲和月-李景林、楊奎山師徒伝奇ー」から。
春秋大刀先々週から王先生が遼寧省より帰ってこられ、春秋大刀を一部の師兄達に教え始めた。師母が習えばいいと参加を薦めてくれたが、王先生からは「剣の方が大切だから剣をもっと練習しなさい」と言われていたので休憩中に若干眺める程度だった。今回、まだ人が集まらない時間帯に鞭を練習していたところ、「それぐらいにして大刀の練習をするように」とOKが出た。自然派において、大刀は最後に教えるという。理由は単純で、「重たいから」だそうだ。動きの中で負荷をかけながら行う練功法は、他派にも多くみられ、同派で
GWセミナーに参加された皆様お疲れ様でした!武式太極拳及び武当剣はなかなか練習の機会がない、ということで、この度GWセミナー武式太極拳・武当剣班講師下川和久によるフォローアップ練習会を開催することにいたしました。セミナーの復習中心になるかと思いますが、GWセミナーに参加できなかったけど武式太極拳や武当剣をやってみたい!という方も歓迎です。日時:毎週火曜日(第5週は休み)19時〜21時会場:上井草スポーツセンター1階小体育室参加費:一回1500円武式太極拳動画(クリックしてください)
自然派について、いろいろと調べていたら、張三豊の出生地と言われている場所に建てられた祠の紹介と、王先生の師の一人である張奇先生が書かれた文章などを見つけたので、まとめて意訳してみた。張三豊の出生地と張三豊祠太極拳創始伝説で語られ、武当派を学ぶ者から崇拝の対象となっている張三豊の出生地にはいくつか説があり、有名なものとして古望平県糧漁業、即ち今日の黑山県姜屯鎮土城子村が挙げられる。張三豊の祖父、裕賢公は、天下に王気は東北から昇りあがると知らしめんと欲して、江西龍虎山から遠く万里を超えて遼東
走圏②の「後趟」では、「掀蹄(踵を地面から離して挙げる)」せず、踵から歩を進める功法を記述した。今回は次に行う「前趟」、そしてその後に続く「平趟」について。「前趟」「後趟」が踵を中心とした歩行であったのに対し、「前趟」は脚掌を中心とした歩行となる。「後趟」と異なり、「前趟」では若干「掀蹄」し、踵が見えるが、「亮掌(脚掌(前足底とその周り)が見えるように足を降ろす)」はしない。足を降ろす時は、脚掌と地面が平行とになるように降ろし、降ろす直前に約半歩程前に滑らせるように進める。程派の擩步
先週の練習は長穂剣、武当太極拳、鞭、流星錘、八卦双刀、推手・塔手など。長穂剣今回から始まった長穂をつけた剣の練習。鞭(双頭龍、縄鞭)の練習が進んでいるので、剣穂の扱いも応用でいけるだろう高をくくっていたが、大間違い。びっくりするぐらい長穂が扱えない自分が嫌になった。課題は撩花、勾挂と、それらを行いながら空中(わずかに上げる程度)での剣持ちかえ2種。特に撩花が全くできなかった。先に剣穂が来て、その後から撩剣するのだが、剣穂が刃や柄に引っかかる。30分くらいひたすら繰り返すが、思うように穂
難得的糊涂自然派の教学方法などの話は今回で終わりに。自然派が進む段階的な教学方法をまとめると、①拳、兵器共に連続した招式(パターン練習)の学習を重ねる※最初の段階では拳種または伝統的な定法(基礎となる形)によって套路も学ぶ②自由に招式を組み合わせること(アドリブ練習)ができるようになる。③套路を編纂できるようになる④攻防においても三拳それぞれの、また武当派の風格(四攻)を持って動けるようになる⑤五行八卦合太極、太極八卦合五行、太極五行合八卦と、三拳を合わせて総合拳を生み
套路はいくらでも創れる前回からの続き「套路を套路のまま練習すればそれで何もかも完結してしまう。そこに変化は生まれない。今日動いてみて分かっただろう。習ったものを応用して、自分で套路を創れ」。套路を創る「法」がある。それは普段先生が言われている「三性(養生、攻防、芸術)」が含まれ、守られていることだ。技の組み合わせが三性に沿ったものであれば、どのような套路であっても正しい。(具体的に細かな方法がある)打ち終わって息が切れたり、どこか身体を痛める物なら正しいとは言えない。眼神(
即席演武会先週土曜の練習では、久しぶりに顔を合わせた兄弟子が(木曜日に来ているらしいので会うことが少ない)縄鞭の練習中にこれでもかというくらい先生から怒られていた。何年も練習しているのに何故ほかの者と同じことをしているのか?起式と収式がなってない!ということだった。そこから「起式」、「孕式」、「収式」についての講義と、当日練習していた15人程で即席の演武会が始まった。以前も書いたが、武当派においては「以道演武、以武顕道(道(dao)を以って武を演じ、武を以て道が現れる)」の考えに
起式、孕式、収式前回の練習では初めて王先生の打つ自然派の武当太極拳(36式)の変化を拝見した。香港で出版された先生の著書に載っている同じ名称のそれとは似ても似つかない形だった。「定、活、変」における活、変の段階で、太極拳と呼ぶのかどうかも判断できないほど変化していた。絶えず移り変わり、常に過途式(動いている途中)で一つの姿勢になって止まることがない。眼に見える速さも五行(形意拳のことを自然派では五行と言う)、八卦(掌)が組み込まれているので急変するため、初見ではだれも太極拳だとは思わない
自然派の教え方は、最初は何が何だか分からず、ただ先生の功夫の大きさに感嘆し、ひたすらついていくだけだった。2年目に入り、練習しているうちに、まだぼやっとではあるが全容がはっきりしてきた気がする。三重螺旋螺旋は練習の段階的な教学体系を指す。円の大きさを功夫に例える。徒手・兵器各種を順々に習うのを、時計の針が時間を1時、2時と刻んでいく様に(円を描くように)見立てる。学習開始が時計の12時とすれば、終わりは再び12を指すので1つの円が形成される。始まりと終わりが結ばれる、これは「定
玄功とは中国語でこの上ない功績などのことを指し、「玄」だけだととどまることのない変化、遠く、見えない結果などの意味がある。また、深く、簡単には理解できない深奥な道理、深い黒という意味で玄黒という色を表す単語としても使われる。日常生活では「当てにならない」、「嘘くさい」といった良くない意味でも使うこともあるが、功法としてはむろん深奥、神妙な功法、といった意味で使われる。武当八卦掌においては、回転する功法として、旋功とも呼ばれる。※旋と玄はいずれも「xuan2」で、発音が同じ。旋功掌型は「剣
はじめに八卦掌は董海川が世に出して以来200年ほどと、他門派に比べてまだ歴史が浅い。にもかかわらず、董の弟子のほとんどがすでに何等かの武芸を修めてから弟子入りしていた(帯芸投師)こと、また弟子のバックボーンを活かす形でそれぞれ教え方を変えた(因材施教)ために、一人一派と言えるほど多くの分派が生まれた。最大の特徴である歩法についても、門派によって練功の目的や解釈が異なっている。例えば、同じ程派であっても、程庭華と、弟の程殿華の二人が伝えたものは違うし、その後代もどの弟子筋に習ったのかによって変わ
馬歩転腰基本練習で行う馬歩からの転腰は八卦掌の特徴でもある横勁を打ち出す強固な下盤(下半身)と、常に勁力を保った状態を維持するための訓練だ。王先生からは初日に連環掌と合わせて習い、その後何度も矯正してもらった。下盤は馬歩になっているので八卦掌でいう「剪子股」よりは、太極拳でいう「圓襠」や、意拳の「争力」といった言葉の方がしっくりくる。両足掌は真っすぐ前か、ややハの字にする。左右側面からやや土踏まずと于泉穴に意識を向け、膝は外側を向けるような意識だが、胯は合わせる(合胯。鼠径部を外側
自然派の武当八卦掌(宋唯一伝剣形八卦掌)では八つの手の形を作って歩く「定勢八掌」から、両手を回して走圏する「八大圏手」という練習に移っていく。両手を回す動作の中には、打つ、攻撃を遮る、引き込む(呑吐)、擒拿(関節技)などの要素が含まれており、非常に重要視される。この手で描かれる円の軌道と、八卦掌の歩法における基本動作である擺扣步を同派では「半圏」という。また小擺大扣、傅振嵩伝八卦掌で旋風掌、転旋風と呼ばれ多様されるその場で片足を軸に回転する動作を「整圏」という。傅振嵩伝八卦掌におけ
武術のプランク系体幹トレーニング、「臥虎功」(フロントブリッジ)と、「鉄板橋」(バックブリッジ)臥虎功同功法は、その名の通り虎などのネコ科が伏せをしている様子に見立てて臥虎と呼んだことに由来する。少林寺七十二芸に記載があり、現在国内で行われている似たような功法はここから派生したものらしい。武当派でも工夫を加えて練習している。内容としては体幹トレーニングのフロントブリッジのバリエーションの一つであると思ってもらって構わない。練習方法腕立て伏せの姿勢を作り、両手は八の字に向けて合
振嵩体育倶楽部12月から、広州の傑師兄が常設の武館(道場)を開いた。まだプレ・オープンで、1月から本格的に開業であるとのことだった。文龍先生は、弟子の武館開設を喜んでおられ、今後土曜日の練習は場所をすべて師兄の武館へ移して行うこととなった。開設したのは師兄だが、館長は文龍先生がつとめられている。広州では師公の武館が閉じられて以来の常設武館となるため、繁盛し、長く存続して欲しいと思っている。思っているがゆえに今回の開設に当たっては色々と気になったこともあったため、改善
北宋の張三峰と明の張三豊張松溪に内家拳が伝わるまで、宋朝の張三峰と張松溪の間には300年あまりの隔たりがある。黄宗羲は儒学者としてだけでなく、浙東(浙江省の東側)における史学の権威でもあったので、墓石の記載に書き間違いなどの不備があるとは考えにくい。黄が記した北宋の張三峰は、最後の1文字を「峰(feng1)」としている。また、丹派伝人(同時に三豊自然派伝人)である宋唯一が著した「武当剣譜」においても「峰」の字を使っている。これは丹派の系譜が始祖を張松溪としているためだ。「明史・方伎伝」
張松溪張松溪は明代鄞県(浙江省寧波に属する)の人で、武当松溪派(松溪内家拳)の創始者である。孫十三に指示し、その技は元代の張三「峰」から伝わったものと称した。嘉靖年間(明の第十二代皇帝世宗在位中の元号。1522~1566)にはすでに同伝承が寧波府一帯で広く知られていた。中国の武侠小説に興味のある人は金庸の小説「倚天屠龍記」中に登場する「武当七俠」と呼ばれる張三豊の7大弟子のうち4番目の人物として聞いたことがあるかもしれない。実在する張に関する記述は、明朝万歴間の首輔(明の首席大学士)で、
紫霞真人高虎臣武当山から北に伝わった道教、武術を隠仙派と呼ぶ。その中の一つが終南山の邋遢派だ。この派は南太極と並んで北太極と呼ばれており、またの名を終南山剣仙派と言う。同派で広く名をはせたのは紫霞真人の道号を持つ高虎臣だ。高虎臣(1816~1952)は、煉丹術、医学、易学に精通し、武当太極丹剣に優れ、136歳まで生きたと言われている。高は1821年、5歳の時に終南山で無名仙人の道号を持つ道士が諸国漫遊を終えて山へ帰る途中に立ち寄った河北省高陽県の高家荘(高姓の集落)で引き取られて入山。
勁力を高めるために欠かさず行っている練習がいくつかある。打座(静座、仏教でいう座禅)、站椿、如鳥之振翼上下飛動、走圏、束展・開合、蹲墻功、各種基本功、圧腿、卧虎功・鉄板橋などだ。面壁蹲墻功蹲墻功は蹲(dun1しゃがむ)、墻(qiang2壁)の文字通り、壁に向かってスクワットする功法だ。古い楊式太極拳で練られており、傅家拳でも一部古参で練習している者がいる。自分が具体的な方法を習ったのは王先生からだった。練習方法自体は既に健康法や気功法として
中国では道教の〇〇派というのが非常に多いが、道教の各宗派は分派の過程が比較的はっきりとしており、ある程度伝承を追うことが可能なようだ。武当山の道教宗派道教内部の門派は煩雑で数が多い。中でも武当山は多くの名目で異なる門派を形成している。武当清微派、全真派、正一派、茅山派など。張三豊を始祖とする武当道派には、真武玄武門、自然派、三豊祖師自然派、三豊祖師日新派、日新派、三豊祖師蓬莱派、三豊派など。他には伝説の玄帝を祀る榔梅派や、武当山の本流と称する正一派、清微派の支流に属するが、元代の道士であ
易筋太極拳(中級太極拳)発における基本練習で最初に体得すべきは束展(呑吐)と開合だ。足掌(涌泉穴)から股関節(胯)へと力を繋げる前に、まず脊椎のうねりと開合だけでも力を打ち出すことができることを知らなくてはならない。足と股関節を繋げるのは後からでも良い。発ができない人のほとんどは大体上で緊張、停滞するからだ。この時点ではまだ強い意念は必要としない。傅家拳の太極拳は、初・中・高級とありいずれも81式からなるが、通常は初級しか習わない。中級、高級は当門において最重要の功法と
以前八卦掌の源流が董海川にないという説で、宋唯一に触れて書いた董の師についてだが、張野鶴→宋唯一→李景林→楊奎山の系統を伝える呉志泉氏が師である楊奎山から聞いた話と、黄万祥の師である万良が伝えたという話を元に(楊、万は師兄弟で、ともに李景林、孫禄堂という共通の師に学んだ)、実際に董が習ったとされる九華山に調査に赴いた人が書いた文章があったので、概要をまとめて翻訳してみた。このような説もあるということで参考にしてもらえればと思う。董海川の八卦掌の原型は九華山の八卦拳である。同派は碧月侠、碧
武当派の武術を学んでおいて、信じることが大切だと書いておいてなんだが、個人的には信仰と練功は分けるべきだと考えている。弟弟子の中に、ある門派の道士に拝師して、道家の気功を習っている者がいる。彼の師公に当たるのが、160歳まで生きたとされる呉雲青だ。彼はこれを信じている。資料から実際は1896年6月5日生まれ、1998年9月24日に羽化したので享年102歳だったことが分かっている。打座したまま逝去し、死後20年近くたってもその身体が朽ちなかったことから有名になった。身体が朽ちない
勁についての雑感を少し。あくまで主観的な内容なので、断定して書いている。勁勁とは中国の武術における術語。無駄の無い力を指しており、使い方や距離、性質、力の方向などによって多数の派生語がある。まとまった力を打ち出すのは発勁、打ち出された勁を受け流すのは化勁(明、暗、化の段階ではない)。距離公尺勁または尺勁(長勁)、寸勁(短勁)、分勁(毫勁、零勁)公尺は約1m、尺は概ね33cm、寸は3.3cm、分は3mm。現代の単位で書いている。扱われた時代、地域によっても差異がある
去る8月26日、香港で行われた傅式太極八卦拳総会創立八周年記念のイベント(演武会&宴会)に参加してきた。同会は傅振嵩が広州に来て最初にとった大弟子の1人で、香港に傅式を伝えた孫宝剛の弟子である李孝全師叔によって創設された。李師叔は最初迷踪羅漢拳を学び、その後孫宝剛に弟子入りして傅式八卦を学んだ。孫の伝えたものは、八卦正宗、龍形掌、八卦推手だけであったので、師が亡くなった後は前後して香港を訪れた広州在住の二代目、三代目達から、他の師兄弟達と共に学び香港傅式を補完した