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前々回の『真田丸』で、このドラマで人気ナンバーワンの武将・真田昌幸が、この世を去りました。真田昌幸は、言わずと知れた、戦国有数の智謀の士。上杉、徳川、北条が入り乱れて勢力争いを展開した、本能寺変後の信濃・上野で、策謀の限りを尽くして、のしあがった知将であり、徳川勢を二回に渡った上田合戦で退けたことで天下に名を馳せた戦上手でした。後に秀吉に「表裏比興(卑怯)」と、半分貶され、半分称えられたことからも、真田昌幸が、ただならぬ武将であったことが伺われます。『真田丸』で描かれた最期の場面。
南シナ海仲裁判決、中国の「次の一手」に備えよhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20130328/245823/?ST=smart日経ビジネスオンラインの福島香織さんの連載「中国新聞趣聞~チャイナ・ゴシップス」の最新回です。国際仲裁裁判所の判決は、むしろ、それでも中国を止められなかった場合に、現行“国際秩序”の脆さを露呈させるものとなる。そうなった時、中国の脅威は今の比ではない。福島さんの指摘には、考えさせられます。アメリカが内向
戦国時代の関東地方において、南方勢力(小田原北条氏)と、北方勢力(太田資正や上杉謙信)の係争地となった、武州松山城。この城の戦略上の重要性は、以前にも整理したことがあります。(→武州松山城を歩く)先日、森林公園(国営武蔵丘陵森林公園)に行った際に、川越街道(256)をクルマで走り、この街道と武州松山城の関係を地図で確かめたくなりました。いつものように、地理院地図で作成した図が↓。やはり、武州松山城とその周囲の松山領は、川越街道を扼す場所にあるんですね。今更ではありますが、・太田資正が
さいたま市岩槻の戦国武将・太田資正が、小田原北条氏との間で繰り広げた武州松山城を巡る攻防戦は、戦国関東の合戦譚の華。江戸時代の軍記物でも繰り返し描かれてきました。しかし、この松山城合戦は、何度も繰り返された戦いだったため、江戸期の軍記物においても、年号や順番に混乱や狂いが散見されます。軍記物ではありませんが、太田資正の三男・太田資武が書き残した『太田資武状』も同様です。本稿では、『太田資武状』における松山城合戦の記述を辿りながら、戦後の一次史料研究によって明らかにされた同合戦の経緯と対応させ
さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正の家臣たちに関する備忘録:その9.広沢尾張守忠信・信秀~武州松山城を守った親子二代~・『太田家譜』の「太田譜代之士」の章にも「広沢尾張守」の名前が見え、広沢尾張守家が、岩付太田氏の譜代の家臣であったことが伺われる。・広沢尾張守忠信は、天文十六年の松山城合戦(資正が兄の死を聞き岩付城に向かった隙を北条氏康が攻めた合戦)において、資正から松山城を託されるも、上田朝直の裏切りにより討たれる。(『太田家譜』より。ただし、『太田家譜』はこの出来事を永禄二
昨夜、久しぶりの家風呂でリラックスしていた時、不意に太田資正の“最期”のイメージが浮かびました。忘れない内に書き留めておこうと思います。※※※かつての領国「岩付(岩槻)」、そして居城である「岩付城(岩槻城)」には、遂に戻ることなく生涯を終えた太田資正。一説には、秀吉の“北条征伐”の後、資正は岩付に戻れると期待したものの、結局は叶わなず、そのことに大いに落胆したとか。(関東全土が、一部の佐竹領を除き家康に与えられ、徳川勢が大規模な国替えをしたことはよく知られている通り。岩付(岩槻)には
埼玉県さいたま市岩槻区に住むようになり、地域の歴史を調べる中で、戦国武将「太田資正」の存在を知りました。太田資正(おおたすけまさ、受領名「美濃守」、法名「三楽斎」、道号「道誉」)は、武州岩付(現さいたま市岩槻区)の岩付城(岩槻城)を居城とした戦国武将。江戸城を築いたことで有名な太田道灌の曾孫にあたり、名門太田氏の矜持を胸に、小身ながら、小田原の後北条氏の関東制覇に生涯をかけて対抗した人物です。資正は、智勇に優れた武将でした。資正の智を称えるエピソードとしては、我が国で初めて伝書鳩ならぬ伝書