ブログ記事35件
「武州安楽寺」埼玉比企縦断・日本史跡研究会の旅坂東卅三ヵ所観音霊場の十一番目札所開基は征夷大将軍坂上田村麻呂とも奈良大仏建設責任者の行基とも伝わる寺院平治の乱でこの地に頼朝の弟が此の地に隠れ東国武士団が頼朝と旗揚げ後、頼朝下代官として大軍勢で源義仲(木曽の義仲)、平氏を討つ、然し頼朝因り謀反嫌疑で範頼は誅殺される、その子が逃げて此の地で吉見氏を名乗り繁栄した、そして此の寺院も繁栄したと言われる、扇谷上杉と山内上杉に古河公方の停戦が決まり安定したところへ、天文六年(1537s
鉢形城以前の記事武蔵松山城以前の記事詳細は以前の記事で。2020.2.23
岩槻も変わってきました。太田資正に関心を持つ方がいない岩槻、と思っていましたが、最近はそうではないようです。太田資正で岩槻を盛り上げようとする動きが出てきたのです。その象徴とも言えるのが、地域誌『らうんじ』で連載されている、資正マンガ『伝えて・槻丸』。太田資正の犬の入替えの逸話を題材とし、犬を主役とした楽しいマンガです。全4回の予定。今回が3回目で、いよいよ運命の武州松山城合戦。武田信玄・北条氏康の合計五万騎超の大軍に囲まれた松山城から、籠城衆の窮地を伝えるべく槻丸が走ります。資
この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。市野川に突き出した部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原型を失ってしまった。城史は、古代にさかのぼるとも言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永二十三年(1416年)ごろの上田上野介説などがある。
「百穴」の名が文献にみられるのは今から約二百年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。吉見百穴が科学的に検討されだしたのは、明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表された。明治二十年、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器が出土した。坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたも
松山城は、一番有名なのは愛媛県松山市の松山城。その他にも、山形県酒田市(松山城)、奈良県宇陀市(宇陀松山城)、岡山県備前市(富田松山城)、福岡県京都郡(豊前松山城)鹿児島県志布志市(松山城)等があった。武蔵国の松山城は、埼玉県比企郡吉見町にあった梯郭式平山城で、武州松山城、武蔵松山城とも呼ばれ、国の史跡に指定されている。室町時代の1399年、扇谷上杉氏に属する上田友直によって築城と伝えられている。山内上杉氏、北条氏等により攻防が繰り返されたが、1561年には上杉謙信により攻め落とされてい
太田資正をどう書くか。なんとなく思い浮かんだのは、小田原攻めの秀吉が感嘆した三楽の智から入るイントロ。秀吉が驚く智恵者が関東にいた、というところから資正の概説を行い、その上で、資正の名を後世に知らしめた軍令犬エピソードの舞台となった武州松山城合戦に焦点を当てて解説していく。その際、「犬」にのみ焦点を当てるのではなく、武田信玄と北条氏康を一ヶ所に集めた資正の「大戦略」と、そこに最新兵器「鉄炮」を投入した先進性も語っていく・・・結局、昔書いた「史料研究:太田資正の「犬の入れ替え」」や、↓のエ
今朝の岩槻駅前駐車場からの眺め。久しぶりに雪が積もりました。雪を乗せた岩槻の眺めは、私に470年前にこの地で起きた出来事を想わせます。今年、平成三十年(2018年)の470年前は、天文十七年(1548年)。この天文十七年の正月、岩槻は、合戦の最中にありました。攻めるは関東の覇者、小田原の北条氏康。守るはこの地、岩槻(当時は岩付)の当主となったばかりの若き知将・太田資正。合戦は、岩槻城(岩付城、埼玉県さいたま市)を舞台として展開された攻城戦・籠城戦です。前年、天文十六年から続いたこ
本曲輪まで戻ってきたはいいものの、どうしたものかと再び縁を歩く。この散歩道を素直に歩くか、堀の確認をするか。どうせ素直に渡ったところで薮の中が気になるし…。ぶらぶら堀を覗きながら考えること5分。本曲輪の南東隅っこに何となく堀が竪に走ってるような気もするし、ちょっと見たい。やらない後悔よりやる後悔。無理と思った時点で引き返せばいいことなので堀歩きすることにしました。階段を降り、ちょっと崩れている堀底への道?をゆっくりと降りれば、目も前は薮!振り返り、足場の悪さを考えればちょっと無茶
29.12.7武州松山とは、戦前の比企郡松山町(現東松山市)でよく使用された呼称です。元々は、大正12年に東武鉄道東上線が松山町に開通した際、四国の松山との混同を避ける為に、武州松山駅と名付けたのが始まりです。以降、町内の商店や企業で武州松山という名前を用いるようになりました。しかし、昭和29年7月1日、比企郡松山町を中心とした1町4ヶ村が合併し市制施行した際に、新市名を松山市としましたが、同名市存在の為当時の自治省の認可が降りず、武州松山ではなく四国の松山の東という意で東松山市となりまし
謎の城、杉山城の築城者は、太田資正ではないか。西股総生の『杉山城の時代』にインスパイアされ、そんな仮説を打ち出してみたところ、いろいろな意見をいただきました。ありがとうございます。杉山城の時代(角川選書)Amazon(杉山城の地形、撮影:はみ唐)比企さんからは「可能性あり」との声。ジャワさんからは、杉山城の仮想敵は上杉謙信なのでは?との指摘。今回新たに「サル公方」さんから、太田資正築城説に対する賛成と“援軍”となる新たな視点をいただきました。サル公方さんの新たな視点は、杉山城の
畏友・ジャワさんから、杉山城の築城目的について、衝撃の新説提示がありました。私が、杉山城=太田資正築城説を披露した↓の投稿のコメントNo.3をご覧ください。ジャワさんの新説は“杉山城の仮想敵は上杉謙信”というもの。非常に説得力があります。読んで納得。私の太田資正築城説はもはや風前の灯。今日は朝から血を吹きました。ぐはっ!・・・ジャワさん新説は、杉山城の築城時期を永禄五年末から翌六年2月の期間と比定します。即ち、北条・武田五万の大軍が松山城を包囲していた時期です。この時、関東における
今朝は曇りですが、雲の合間に青空も見えますね。写真の中央奥は、東京・新宿のビル群。その奥には多摩の山々が聳えているはずです。戦国時代、多摩地方を統べていたのは、大石氏と三田氏。ともに扇谷上杉氏の重臣の一族山内上杉氏の重臣の一族。我らが太田資正の岩槻太田氏とも浅からぬ縁があります。(八王子周辺が大石氏、青梅周辺が三田氏、という勢力関係だったようです)※大石氏、三田氏は、扇谷上杉氏被官ではなく、山内上杉氏の被官でした!フンドシさん、ご指摘ありがとうございます!大石氏は、資正の二人目の正
両国。我らがさいたま市の戦国武将・太田資正は、永禄三年十二月に、上杉謙信の関東遠征に呼応して、この地域に進軍したと考えられています。ここから数キロ北の石浜の寺院が、資正の制札(軍の狼藉を禁じてもらう札)を入手しているためです。資正の本拠地・岩槻から随分遠いところへ、という気もしますが、足立区の舎人までは岩槻領の一部だったので、当時の感覚としては領国の南端から近隣に進軍した、というものだったのかもしれません。この両国や少し北の浅草・石浜は、関東地方の一大物流拠点。海上物流で江戸湾に運び
佐々木譲の『天下城』を読み進めています。天下城〈上〉(新潮文庫)Amazon天下城〈下〉(新潮文庫)Amazon既に下巻に入り、物語は更に面白さを増しているのですが、上巻から通して、一つ気になることが。それは、この物語の中では、鉄炮(火縄銃)は水平に撃つ分には強力な武器だが、下向き、ななめした向きには撃てない、とされていること。銃口から詰めた弾が転がり落ちてしまう、というのがその理由です。そして、主人公、戸波市郎太は、この鉄炮の特性を十分に考慮して、堅固な城造りを行っていきま
思い付いたままに。史跡で辿る太田資正(三楽斎)の生涯。※※※1.武州松山城址(埼玉県吉見町)資正は、腹違いの兄・資顕とは不和。父・資頼が他界し、兄が岩付太田氏の当主となった頃に岩付(埼玉県さいたま市岩槻区)を出て、難波田善銀の婿養子となる。期間は、天文7年(1538年)頃~15年(1546年)。資正は16歳~24歳。資正はこの青年期を、義父・難波田善銀の居城・武州松山城で過ごしたことになる。この時、資正の主家・扇谷上杉氏は、北条氏に領国を侵食され続けて衰退の一途。資正は、名将
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1562年、古河城の足利藤氏(あしかがふじうじ)の謎の死は小田原城のわしの元にも報せが来ました。上杉方に古河公方として擁立された藤氏さん、綱成(つなしげ)さん率いる北条軍に攻められたんだけど、古河城内で死んでいたんだ。氏康「藤氏が我らと戦い、討死ならわかるが、既に死んでいたとは…。」小太郎(こたろう)「我が手下の美郎(よしろう)が言うには藤氏を暗殺した者は、北条家で暗殺を繰り返した者と同一人物
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1546年の河越夜戦(かわごえやせん)に勝った北条でしたが、わしにはやらねばならぬことが山積みでした。わしは亡き父・氏綱(うじつな)から後を継ぐと今川(いまがわ)との河東一乱(かとういちらん)、そして河越夜戦と戦続きで領地経営が後手に回って遅れてしまっていたのです。河越夜戦で勝ったから勢力、領地も増えたから、氏康さんは忙しくなったね。一方、河越夜戦で勝利に功のあった綱成(つなしげ)は戦後の処理
「西股総生氏ともあろう人が」の続きです。(考えてみると失礼なタイトルです。しかし、こんなタイトルを付けたのも私の西股氏へのリスペクトの深さ故。だって、本当に「えー、そんなー!」と思ったんです)戦国時代の軍事研究の泰斗とも言うべき西股総生氏。『真田丸』の軍事考証も務めた同氏による『東国の城の進化と歴史』は、関東各地に残された土の城の名城を、その設計思想や活用戦術を掘り下げて分析していく名著です。しかし、『武蔵腰越城』の紹介には、この城を後背地戦略に使った武将・上田朝直について、思い違いとしか
そーのー血ィ~のさ・だ・め~♪・・・と言えば、『ジョジョの奇妙な冒険』第一部のアニメの主題歌。熱くて(熱すぎる(笑))素敵なアニメソングです。しかし本稿は、ジョジョとは関係ありません(笑)。構想だけ進めている太田資正小説『火炮の城』の構想メモです。武州松山城の本丸に入り、武田信玄・北条氏康の連合五万騎の大軍を向こうに回して奮戦した二人の人物:・構想メモ4で書いた「七沢七郎」・構想メモ5で書いた「太田下野守」この二人の人物の“絡み”を考えていた時に、ふと思い浮かんだのが、「その血の運命
戦国関東でおいて有数の激戦となった、永禄五年の武州松山城合戦。さいたま市の戦国武将・我らが太田資正の精鋭二百騎が、数ヵ月に渡って武田信玄・北条氏康の大軍を釘付け・足留めしてこの合戦を、『火炮の城』という物語にまとめようと構想を練っています。(一向に書き始める気配が無いのはご愛嬌(笑))【参考】・物語『火砲の城』構想メモ・物語『火砲の城』構想メモ2・物語『火砲の城』構想メモ3「火砲」という用語・物語『火砲の城』構想メモ4「七沢七郎」という男今回は、物語の主人公にしようと考え
戦国関東の有数の籠城戦であった、永禄5年~6年の武州松山城合戦。上杉謙信の関東における片腕であった太田資正が、武田信玄・北条氏康の連合五万騎を相手に、わずかな兵で大奮戦したこの合戦。実際に城主としてこの城に籠って戦ったのは、「七沢七郎」という男でした。現在構想中の武州松山城合戦の物語『火砲の城』。この物語では、この「七沢七郎」という男に焦点を当てたいと思っています。【参考:『火砲の城』構想メモ】・物語『火砲の城』構想メモ・物語『火砲の城』構想メモ2・物語『火砲の城』構想メモ
「さいたま市の戦国の名将・太田資正は、武州松山城(埼玉県吉見町)に精鋭二百騎・鉄砲二百挺を配備し、敵対する武田信玄・北条氏康連合の五万騎を数ヵ月にわたり翻弄した!」いったい何度、この内容を書いてきたか分かりません(笑)。しかし、実はこの「精鋭二百騎」(正確には「騎馬武者二百騎」)と「鉄砲二百挺」は、一次史料に依ったものではありません。この二つの数字が揃って登場するのは、江戸時代前期に書かれた軍記物『関東八州古戦』のみ。歴史的誤りは少ないと評される書ではあるものの、細部にはやはりおかしな記述も
戦国関東において有数の激戦となった籠城戦・武州松山城合戦。さいたま市の戦国武将・太田資正が、武田信玄・北条氏康の大軍五万騎を迎え撃ち大苦戦させたこの合戦の顛末を、『火砲の城』という物語にしてみよう・・・と構想を進めています。【参考】・物語『火砲の城』構想メモ・物語『火砲の城』構想メモ2物語のタイトルにおいて、「鉄砲」を敢えて「火炮」としたのには、理由があります。この物語のクライマックスは、怒り狂う上杉謙信に対して、太田下野守が玉薬を爆発させる気迫で立ち向かい、抗弁する場面。爆発
物語『火炮の城』構想メモの続きです。■登場人物設計①太田下野守本編の主人公。代々、岩槻(岩付)太田氏に仕える侍大将の家系の当主。五代前に「太田」の名字をもらう。領地は今日の埼玉県さいたま市浦和区周辺。歴代の「太田下野守」当主と同じく武勇に優れ、家来衆からの信頼も厚い。ただし、戦国を生きるには、優しすぎる性格。主君である岩槻(岩付)太田氏の当主・太田資正とは、従兄弟関係でもあり、強い絆で結ばれている。しかし、上杉謙信征呼応して、北条氏を裏切って対決を路線を選んだ資正の生き方には、付
アイデアが湧いてきたのでメモ。これまで手を変え品を変えて度々書いてきた、永禄五年の武州松山城合戦。さいたま市の戦国武将・我らが太田資正が、武田信玄・北条氏康の大軍五万騎を迎え撃ち大苦戦させたこの合戦の顛末を、“物語”にしてみようというアイデアです。まとまっていませんが、書き出します。【参考】過去の“手を変え品を変え”投稿・武州松山城を歩く・軍記物が描く武州松山城の合戦・太田資正の息子が語る武州松山城合戦・太田資正の失敗③、④、⑤・南シナ海判決後の日中関係と戦国武将・太田資正
『真田丸』第45回は、いよいよ、真田丸を巡る攻防戦。真田“幸村”の活躍をなかなか見事に描いていて、楽しめました。真田丸に押し寄せる徳川勢を、城内から鉄砲で狙い撃ちし、討たれた徳川勢は一万近くにも及んだとされるこの一戦。似た戦いが東国にもありました。我らがさいたま市の戦国武将・太田資正が、武田信玄と北条氏康の五万を越える大軍を食い止めた、永禄5年の武州松山城(埼玉県吉見町)の攻防戦です。わずか200の城兵が、鉄砲を活用して、五万の大軍を四ヶ月に渡り釘付けにしたこの合戦も、城内からの
さいたま市が誇る戦国の名将・太田資正(法名は三楽斎)ゆかりの地を歩いた投稿を、内容別に整理し、インデックスページにしました。【注意点】テーマ『地元歩き(主に岩槻城周り)』の投稿を再整理したものです。最新投稿はまずテーマにヒモ付けてアップされ、ある程度たまってからこちらで整理します。以前、太田資正関連投稿のインデックスの「太田資正のこと」にまとめていた内容を、移しました。(字数オーバーになってしまったので(笑))散歩モノではない投稿も混ざっていますが、ご容赦。整理の構造は、1.岩槻
さいたま市が誇る戦国名将(でも、さいたま市では無名)である太田資正。その太田資正に関するこれまでの投稿(いつの間にか240を超えていました)を、内容別に整理したインデックスとして、2014年5月の「太田資正のこと」という投稿を使っています。しかし、昨年2015年の秋以降、妻の体調の悪化とともに心の余裕がなくなり、更新が途絶えてしまっていました。昨年の秋以降も、時折、資正のことを投稿していたのですが、インデックスである「太田資正のこと」には反映できていない状態が続いたのです。しかし、最近に
まだアップできていませんが、このところ、太田下野守(岩槻城主・太田資正の家臣)の視点から見た武州松山城合戦(永禄五年〜六年、埼玉県吉見町)を追ってみようと、駄文を列ねています。書きながら「復習」が必要だと思ったのが、武州松山城に籠城し、鉄砲で武装した精鋭二百騎の活躍ぶり。一年半前の自分の投稿を再確認しました。城内からの鉄砲斉射による武田・北条側の死傷者については、上杉家の年代記『上杉家御年譜』が一番詳しいですね。籠城側の資料ですから、死傷者を多めに見積もっている可能性もありますが・・・。