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今日はねあの時代の「世相」っていうのを振り返ってみようと思います東京・武蔵村山市大南住宅街の一角に、この碑があります「東航正門跡」碑80年前、この場所はこんな風景でした写真:少飛15期・高橋良雄さんの東航卒業アルバムから東京陸軍少年飛行兵学校前身が所沢にあった東京陸軍航空学校であったことから「東航」と呼ばれていました彼が晴れてこの門をくぐったのは昭和17年10月1日。前年行われた受験の競争率は30倍とも50倍とも言われています写真:陸軍少年飛行兵
「土曜日の仕事、半ドンで終わるだろ?そのあとから車で出かけるんだよ何キロ走ったかなあ...北海道まで走ったからね...」板津さんは戦後名古屋市の職員となり、区役所に勤務しておられました。最初は、仲間のご遺族を探し出して、当時の状況や特攻出撃の様子を説明してまわっていましたが名簿を手に入れてからは全国を訪ね歩き、遺書や遺影、遺品を集めたんですねこれがもとになって昭和50年に「知覧特攻遺品館」ができます。現在の知覧特攻平和会館の前身で、現在の会館の位置より手前の場所
80年前の今日昭和20年2月11日紀元の佳節前日「声の遺書」の収録を終えた武尅隊15名は陸軍新京飛行場で部隊編成式に臨みました式典が行われた飛行場格納庫掲げられた横断幕には【陸軍特別攻撃隊合同告別式】この式典は彼の部隊、誠第32飛行隊(武尅隊)そして兄弟隊として編成された誠第31飛行隊(武揚隊)誠第39飛行隊(蒼龍隊)誠第41飛行隊(扶揺隊)計四隊総勢60名の合同結成式でした「告別式」というのは葬儀で故人を送る儀式ではなく「送別の式」「離任
80年前の今日昭和20年2月10日彼は満州の首都・新京にいました(新京=現在の中国吉林省・長春市)「関東軍編成の特攻隊第一号」である誠第32飛行隊(武尅隊)の一員に選抜された彼は隊長以下総勢15名でここ新京に集結この日、朝から隊員全員ひとりずつ「声の遺書」の録音に臨みます録音作業を行った「関東軍報道班」報道班員の回顧手記が残っていました凍結した録音版がカッティング不能となる全員が肌に当て体温で温めながらかろうじて収録すると、今度はエンジンオイルの凍
松本空港の西滑走路からほど近い県道沿いにこの石碑が残されています彼が所属した誠第32飛行隊・武尅隊の痕跡を追って松本を訪れた際、その存在を知りました果樹園に囲まれたこの小高い場所石碑に刻まれた文字は「萬歳塚」脇に立つ説明板にはこう書かれていますこの碑は、大正四年(一九一五)に築山を築いて建てられた。この場所は当時今井村から松本に向かう道路の村のはずれであった。半世紀にわたる歴史の中では出征する兵士は、親族、婦人会、小学生ら
知覧にて後列一番左が板津さんその右が”特攻の母”鳥濱トメさんあんたにな、頼んでおきたいことがあるこれから話す二つのこと、な、これはあんたがちゃんと伝えていってほしいんだ今から13年前の夏知覧特攻平和会館初代館長・板津(旧姓小椋)忠正さん(故人)は私にこう切り出しましたその二つの話、というのが特攻に関して「通説」となっている「片道燃料」と「洗脳」についてでした生前の板津さん(ご自宅にて)いつもテニスの話を自慢げにしてくれた昨日ね、ふと板津さ
昨日…武尅隊、そして彼の痕跡を追ってこの場所を訪れましたPhoto:Googlemap岐阜県・航空自衛隊各務原基地その東端、誰も通ることのない道の途中にこのトンネルがあります。この場所はかつての陸軍各務原飛行場。主滑走路と東エリアを結ぶ誘導路でした。天井このブログにアップされている物語「快翔萬里〜空の果て遥か」で全てを記しましたが、私はかつて、18歳という若さで戦死したある特攻隊員の一生を辿って、彼が「いた場所」を訪ね歩きました。
終章次世代への伝言(4)【靖国神社】②形態はさまざまなれど、戦争で命を落とした方々を讃え、その名を残す施設はどの国にでも存在します。ただ日本の場合は靖国神社という宗教法人であるがゆえに、宗教上の信念や先の戦争に対する考え方から、合祀を拒まれるご遺族がいらっしゃることも事実ですが、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」ための場所として存在することそのものは否定すべきものでも、非難されるべきものでもありません。A級戦犯が合祀
終章次世代への伝言(3)【菊川】④長崎・浦上天主堂10年くらい前だったかな中央がキリスト「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ如何ナル手段ニ依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス」戦争ともなれば攻撃目標は軍事施設に限るわけです。原爆は言うに及ばず、アメリカが行った東京はじめ全国の主要都市への無差別爆撃は明らかに国際法違反であり、東京裁判でいうBC級の犯罪に該当するんですが...別の側面もあります。日本軍は1937年8月「渡洋爆撃」と称して重慶や南京を無差別爆
終章次世代への伝言(2)【硫黄島】④摺鉢山山頂硫黄島戦没者顕彰碑米兵が星条旗を掲げた場所だ硫黄島内を歩くと至る所で旧日本兵のヘルメットや銃などの武器を目にします。大砲、銃座、トーチカ、そして薬莢…ジャングルに放置された通信機錆びてはいるものの、そのままの姿で残っていて、それらに触れると、この場所が戦場であったということを実感すると同時に、ここで命を落とした兵士たちが決して楽な死に方ではなかったということがよくわかります。最後の突撃壕栗
終章次世代への伝言(2)【硫黄島】③壕の中から出口を眺めるあの時、壕の中も外も地獄だった,,,遺品ここで、某国会議員が主張してやまない「道具を与えられずに壕を手で掘った」「滑走路の下に遺体が埋まっていて飛行機で踏みつけている」という問題についてお話ししておきたいと思います。一口に壕と言ってもさまざまなタイプの壕があるんですね。岩場を砕いて作ったもの、司令部壕のようにコンクリートで塗り固めたもの、ツルハシで掘削したと思われるもの、また距離の短
終章次世代への伝言(2)【硫黄島】②上陸海岸と摺鉢山島内では給水施設に通じる道だけは立入禁止でしたが他は自由に歩けました。海岸線を向くトーチカただし夜は出歩かないこと、そして特にジャングルでは人が通ったとわかる道以外は通らないこと、この二点は注意を受けました。夜出歩くなというのは、自衛隊施設周辺以外は明かりが全くないため道に迷うという意味もありますし、出るものが出る、という意味もありました。大阪山砲台黄色部分、砲身に敵軍の砲弾が突き刺さっている
終章次世代への伝言(2)【硫黄島】①硫黄島炊事場跡冒頭の章でお話しした通り、数年前、僕は硫黄島を訪れました。硫黄島は海上自衛隊の施設があるだけで民間人が入ることができません。年に一度の慰霊祭や遺骨収集活動で訪れることは可能ですがそれもチャーター便で民間の定期便はありません。硫黄島協会の施設がありますが宿泊施設もないので、国会議員の視察やメディアの取材も日帰りとなります。なぜ僕がこの島に立つことができたかというお話は省きますが、まる五日間、この島で朝から晩
終章次世代への伝言(1)【千駄ヶ谷】③「戦争を知らない人が勇ましいことを言うのだ」何度も繰り返しますが、一つのものごとに対する捉え方というのは人それぞれであっていいと思います。それぞれの生い立ち、それぞれの立場によって人間の考え方は変わります。ただし「知らない」ということは何においてもいちばん誤解を招きます。人と人との関係においてもそうですね。初対面であっても、人伝に「あの人は素晴らしい人だ」と聞かされていれば、そのように感じます。逆に悪い評判を聞かされ
終章次世代への伝言(1)【千駄ヶ谷】①三田キャンパス内還らざる学友の碑戦没者名簿が収められている僕がこの碑の存在を知ったのは、社会人大学院生として三田のキャンパスに通っていた時のことでした。昼休みにふと図書館の脇に行ってみると、そこに「還らざる学友の碑」があったんですね。学徒出陣という言葉は知っていましたが、それを身近なものとして感じたのはこの時が初めてでした。学徒出陣に限ったことではありませんが、画像や音源のデジタル化によってさまざまなサ
第五章市ヶ谷(5)【東條英機】③東京・白金ハットリハウス東京裁判の判決書が翻訳された場所戦争の作戦立案や実際の戦争指揮は首相の仕事ではなく統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の仕事であり、戦争遂行上の最高責任者は参謀総長と軍令部長です。作戦がうまくいかないというのは直接は東條の責任ではない。しかし軍の人事や武器・物資の補給は行政の受け持ちでありその最高責任者は首相である東條ですから、戦争の最高責任者は東條に違いないんですね。この統帥権の独立という明治憲法下
第五章市ヶ谷(5)【東條英機】②GHQ発禁第一号と言われる東條英機宣誓供述書原本裁判というのは「何が真実か」を証明する場ではありません。検察側は被告を有罪にするためのロジックを組み立てます。被告側は無罪を勝ち取るためのロジックを組み立てます。だから東條は責任の所在を含めて認めるところは認め、言われなき疑いに対してははっきり否定した、理路整然と反論した。それ以上でもそれ以下でもないんですね。東條の反論によって国民は溜飲を下げたと言われますが、東條は「
第五章市ヶ谷(5)【東條英機】①世田谷・用賀東條邸跡地東京裁判を象徴する存在をあげるとすれば、それは裁判長のウエップでもなく、主席検事のキーナンでもなく、ましてマッカーサーでもなく、間違いなく東條でしょう。東條は尋問を受けるときから、あの戦争は「正当な自衛行動」だったという主張を貫いています。尋問で東條はこう発言しています。「日本は米英からの経済的、軍事的圧力で喉を締め付けられていた。そうした状態に置かれた国が反撃に出るのは当然だ」(前掲「スガモ尋問調
シェアさせていただきますこれまで何度も書いてきた通り沈黙は加担しているに等しい我々の税金がまわりまわって多くの人々の命を奪っていることをもういいかげん気づかねばならない「日本が二度と戦争を起こさないようにしてくれ」あの時代を生きた人たちから託されたあの言葉を私は伝え続けます
第五章市ヶ谷(4)【法廷】⑤国立国会図書館松井石根宣誓供述書の一部南京事件について触れている次に南京大虐殺について考えてみましょう。南京大虐殺については2006年に河村たかし衆議院議員(当時)がその事件の有無も含めて政府見解を求めました。当時の小泉純一郎首相はこう答えています。「1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。」認めているわけです。ただその行為の内容や犠牲者の数につい
第五章市ヶ谷(4)【法廷】③国立国会図書館資料次に「被告全員無罪」と言ってくれたパル判事の反対意見書について触れたいと思います。パル判決とも言われていますね。パル判事の指摘は明確です。・「平和に対する罪」は事後法だからこの法で被告を裁くことができない。・判事が全員戦勝国のメンバーというのは裁判としては不公平。(BC級裁判において)無差別爆撃を行った操縦士は罪に問われないのに、捕虜となった爆撃機の搭乗員に暴行した日本兵が罪に問われているのはおかしい。・戦
第五章市ヶ谷(4)【法廷】①防衛省Webサイト市ヶ谷台ツアーは誰でも申し込むことができますA級戦犯が逮捕、収監されたのは先にお話しした巣鴨プリズンですが、実際に裁判が行われたのは市ヶ谷、かつて旧陸軍士官学校が置かれていた場所。現在の防衛省の場所です。この陸軍士官学校の本部にある大講堂が法廷として使用されました。「被告」28人は巣鴨プリズンからバスでこの市ヶ谷の法廷に通いました。この当時の本部、法廷として使われた大講堂は現在市ヶ谷記念館として敷地内に移設され
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】⑥裁いた側はこの東京裁判を、将来の戦争を防ぐための力になると考えました。「勝者による敗者の裁き」を正当化するにはたしかに優れたロジックです。しかしその後の歴史を見ると、実際は戦争に対するブレーキになるどころか、逆の現象が起きているわけです。前掲「東京裁判を正しく読む」の中で牛村氏は、埼玉大学助教授時代の長谷川三千子さんの言葉(「諸君!」昭和58年8月号)を引用しています。(150〜151頁)この東京裁判というのは、負けたほう
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】⑤花山師は「平和の発見」の中で、獄中の死刑囚に接し、死刑執行の直前まで死刑囚と向き合った経験から、こう述べています。戦犯者といえば、、日米の軍國主義に罪悪のシンボルのようにいわれている。したがって、よく過去に引用された「七生報國」の精神でこの世を去っていくようにも、想像されがちである。しかし事實この人たちは、肯定者ではなく、そのもつとも痛烈な否定者として、この世を去っていつたのであった。それは、單に懺悔といった境地ではなく、これを
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】④W.J.シーボルト「日本占領外交の回想」A級戦犯死刑執行の場面が描写されているA級戦犯7人に刑の日時が言い渡されたのは1948年12月21日夜。7人が四組に分かれて宣告されました。執行予定は12月23日午前零時1分。花山師は翌日午前から7人に一人ずつ面会、そして午後7時から11時30分までまた一人ずつ面会。このときは東條の一時間が最長でした。刑の執行は二組に分かれて行われました。最初の組が東條、松井石根、武藤章、土
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】③発見された十三号扉この扉の向こうが絞首刑台だったこの東京裁判を行うことになった根拠はポツダム宣言第10条です。終戦間際の1945年7月、アメリカとイギリス、中国、ソ連の間で(ソ連は未署名)日本に対する一三ヶ条の降伏勧告が作られました。これがポツダム宣言ですが、その第10条にこのような一文があります。「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」日本は8月14日にこれを受け入れ、終戦となり
今回の上京の大事な目的のひとつというか最大の目的は彼の片思いの相手そして少年飛行兵学校を語る歴史の生き証人タカさんに会うこと(詳しくは前作をば)タカさんと蓮沼住職YouTube番組「武蔵村山師と陸軍少年飛行兵学校」昼間、新宿で何か手土産を…と思っていたら「虎屋の羊羹」、って聞こえた気がしたんですよこれも前作でご紹介したお話ですが彼が東條家で食べていた竹皮でくるんだ虎屋の羊羹それをタカさんに届けてくれ、ってことなんだろうか…そんなわ
国立競技場かつての明治神宮外苑競技場に来ています81年前この場所で…あのとき、学生を前に式辞を述べたのは東條学業半ばにして戦場に散った方々に心からのご冥福をお祈り致します
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】②5年前、香港のビデオショップにてこれが現実日清戦争に勝った日露戦争に勝ったその勢いでとうとう韓国を日本にしてしまった。せめてこのあたりでやめておけばよかったんですが、調子に乗って満州国作って中国本土まで手を出したんですね。満州がすんなり手に入ったもんだから中国にも手を出した。欧米諸国は警戒します。中国では抗日運動が高まります。そこでABCD包囲網が敷かれました。Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダ。
第五章市ヶ谷(3)【十三号扉】①何年前だったかの梅雨時...夕暮れ雨の靖国まず東京裁判とはどういうものなのか?というところから始めようと思います。正式名は極東国際軍事裁判。そして開かれた法廷が極東国際軍事裁判所です。本書では「東京裁判」と呼びます。先にお話ししたように、もうかれこれ80年近く前の話だから、東條の名前や東京裁判について知らない世代が増えてきているのも事実ですし、本だってあるにはありますが今ではそんなに多く出回っているわけでもないですしね