ブログ記事4件
大和郡山といえば金魚ですね大和郡山の金魚養殖は、幕末に下級武士の内職的なものに始まり、明治になって周辺農家が加わり大量生産時代を迎えたという。そして戦後のピーク時(昭和40年代)には全国の6割を占めたことがあるが、今は他産地の台頭や需要源で縮小傾向のようだこ難しい話はさておき、ここのところ自然や風景の投稿多めなので、今日は、城下町の面影残る大和郡山の街角ウォッチャーのレポートである金魚すくいには否定的である。いきものをなぐさみにしたらあかんやろという考えからだところがある時、金魚すくい好
【NeufLesMilleetUneNuits=ヌフレミレユンヌニュイ=ニュー千夜一夜物語No.976】《四斗樽》此れは此れはようこそお越し下されました!手前は浅草は御籾倉に店を構えます〔赤札付き〕の結城屋滉衛門と申します!江戸時代の変わった職業の第73位(貸本屋)の続きです!つぐみは中屋敷の賄い方を手伝いながら、下士の軽口に耳を傾けておりました!今日の膳は若君忠道様の元服と御目見得を祝した物で、白身の御刺身に升酒一杯が付きました!
ここのところ、図書館に行って、「予約した本が届いているそうなんですが…」というと、スタッフさんが、奥から、全く想像してなかった見た目の本を出して来てくださってビビる・・・ということが重なってます巨大な本や、広辞苑の2/3くらいの厚さの本が出て来たのを見て、「ああ、図書館に寄る前に牛乳2本と米2kg買うんじゃなかった…」みたいなことになったり自分で予約したクセに、その場で返そうかと思う想像してたよりだいぶ古い本だったことなどもありました。後ろに昔ながらの「貸出カード
人口100万人半分は武士今日も読んでいただきありがとうございます感謝しています^^今日一日皆さんが少しでも笑顔でありますように^^こんにちは。。。キャベツ寛太郎です^^「武士」お芝居でもよく聞くワードです。みなさんは武士がどれくらいいたのかご存知ですか?当時江戸では100万人が暮らしていたと言われています。そしてその人口100万人の半分は武士だったとも言われています。人口の半分は武士って予想外の数字です(^_^;)武士
10月が手乗り文鳥の雛が出回る時期であることと、「て(10)に(2)し(4)あわせ」(手に幸せ)の語呂合わせから。ライターの伊藤美代子が制定。元々はインドネシア・ジャワ島原産の野鳥で、400年以上前に日本に輸入。日本国内での繁殖は、江戸末期の愛知県弥富市で下級武士の内職として行われていたという記述がある。鳥飼ったことある?「狩ったことならあるわよ」そうね。スズメとハトね。ダンナは犬、私は猫しか飼ったことないですね。小学校ではインコ・カナリヤ・ニワトリを飼育してましたから