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長州藩は日本中どころか世界中を敵に回し、ボコボコにやられます。それを推進していた長州藩の正義党は下野し、俗論党が長州藩の政権を握ります。大英帝国との交渉を俗論党は正義党の首謀者、高杉晋作に押し付けます。高杉晋作は大英帝国を追い払う、外交術を見せて、何とか日本の危機を救いましたが、長州藩から亡命して、北九州に逃げてしまいました。俗論党が長州藩の政権を握ると、やたら幕府にすり寄る政策を押し出します。俗論党とは高杉晋作が命名したのですが、実態は穏健派、常識派なのです。長州藩のことしか考えていません。
ゆずれもんサイダーキレートレモン無糖ゆずれもんサイダーと、キレートレモン無糖について、比較する訳では無いけれども、紹介しつつ少しだけ雑感を述べます。ゆずれもんサイダーとキレートレモン無糖セブンイレブンのゆずれもんサイダー昨日買いました。7プレミアムゆずれもんサイダー500mlセブン‐イレブンウェブサイトより7プレミアムゆずれもんサイダー500ml|セブン‐イレブン~近くて便利~7プレミアムゆずれもんサイダー500mlwww.sej.co.jpセブン‐イ
『大人の教養教えます』ー鷲田小彌太●漱石や鴎外の教養ー⑨✪子供であり得なかった【坊ちゃん】✪漱石の「坊ちゃん」は、漱石の作品群でも、特殊である。この現代版なら、今の子だって、すいすい読んで、面白がるに違いない。この主人公は、江戸っ子で、気が短く、正義派だが、おっちょこちょいで、今なら、十分に体育会系に属する青年だ、といっていいだろう。もちろん、いわゆる「教養」に欠陥がある。だから、「坊ちゃん」である。大人になれない青年のことだ。でも、私から見ると、漱石も、鴎外も、ありあまる教養を持っ
高畑淳子さん、すごい。今、NHKの朝ドラで、ヒロインの祖母・祥子を演じているのだが、彼女は長い間、五島列島で一人、暮らしてきたという設定。訳あって疎遠になっていた娘が、幼い娘(←いわゆる孫ね。こちらがヒロイン)を連れて帰ってくるのだが、そのとき、港で出迎えに来ている姿を見ただけで、もう本当に「すごい!」と思った。日に焼けた皮膚や白髪の入り方、服装など、「いかにも、いかにも」なんだけど、それ以上に高畑さんの「立ち姿」が、長年、海や畑で労働してきた女そのもの、なのである。以降、そんな強さと、
今日は何の日:6月15日Nippon.comコメの分配を求める藩士に、藩の重役小林虎三郎は「苦しいときだからこそ教育を続ける。今の百俵より次代を担う人材づくりが大事だ」と説いて、コメの売却で得た...伊達政宗の直筆書状良寛記念館に新潟・出雲崎良寛の遠縁子孫が調査依頼47NEWS新潟県出雲崎町米田の良寛記念館で、仙台藩初代藩主・伊達政宗の直筆の書状が見つかった。政宗が茶席に招かれたことに対する返礼などを記した内容だ。「救いようのない語学バカ」伊藤博文の目覚めJBpre
売国奴マウンティング。今日、こんなニュースを見つけた。韓国・慶州市による日本への支援に「売国奴」など批判殺到一部取りやめ(LDN)曰く、日本への防護服などの、衛生物資の支援は、売国的行為だからやめろという批判を受けて、慶州市が当初の支援方針を撤回したらしい。まあ、これじたいはどうでもいい。そもそも、韓国からの支援物資が届くかどうか?は非常にどうでもいい問題だからである。無くてもあってもそう変わらないから(笑)。そもそも、この売国奴という表現。
法の下の平等<本澤二郎の「日本の風景」(3692)<稲田検察の正義VS安倍・法務検察の権力乱用>法の下の平等は近代法の大原則である。世界ルールで、いかなる権力者も順守義務を課せられている。破れば、人民の抵抗権が正当化されるだろう。それこそ第二のパリ革命も許容されることになる。歴史の教訓でもある。今回の政界を揺るがせている一連の黒川事件は、安倍内閣・自公政権の暴政の極め付きであって、政府は国民に奉仕する憲法上の義務を放棄、乱用したものでもあり、到底容認できるものではない。かく
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-⑦✪べつの見方でいえば、--長州藩は、書生たちが藩を牛耳って、やること為すことが目茶苦茶だった。四カ国艦隊を相手に一藩だけで戦争をしたり、幕府に両度にわたって攻められたり、あのままでゆけば潰れていたろう。ということが言えます。たしかに長州藩は潰れていたでしょう。薩摩藩が、政略として長州藩に手を差し伸べたから、長州藩は明治維新までこぎ着けることが出来たといえます。手を差し伸べたのは、長州藩は右のように藩内革命をやったものの、
『明治という国家』ー司馬遼太郎●江戸日本の無形遺産”多様性”-➅✪その上、産業立国主義でした。江戸体制は、古来の水田の上に、あぐらをかいています。長州藩は、なにしろ十七世紀初頭に三分の一になったものですから、財政をよくするために積極的に産業に心がけ、たとえば、富農や富商に請け負わせて瀬戸内海岸の干拓をして水田面積を拡大したり、また他の物産の生産にも力を入れ続けていました。幕末において長州藩は、表高は三十六万九千石ながら、実収入は百万石以上あるといわれるようになったのです。またこの藩は、自領の
木戸孝允旧跡京都府京都市中京区末丸町284−31833年、長門国萩城下呉服町(山口県萩市)生まれ。日本の武士(長州藩士)、政治家で桂小五郎は幕末、尊王攘夷派(長州正義派)で明治維新の指導者として活躍し、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ維新の三傑の一人。明治政府高官のとき、近衛家邸を買い取り京都別邸とした。晩年、明治天皇が見舞いに訪れた。1943年、没後、子・忠太郎が住んでいたが京都市に寄贈され、現在は市職員厚生施設となっている、敷地南端部分には木造二階建て家屋が残る。
内部告発者は英雄<本澤二郎の「日本の風景」(3515)<太田ショウコウを暴いた戦争遺児が第一号>人は様々なれど、あるきっかけから、覚醒するものである。日ごろからの鍛錬も。凡人もジャーナリストもそうである。筆者の場合は2013年12月だから、今から6年前のことだ。特定秘密保護法が強行された時点で、池田大作氏の平和主義と共に歩んできた戦争遺児のK・T子さんが声を上げた。安倍の腰ぎんちゃくで、毒饅頭をたらふく食べたといわれる国交大臣の太田ショウコウを、彼女は「裏切り者」と弾劾した。その4
本日は山口の紅葉⑩ですⅰ湯田温泉街には無料で利用できる「足湯」が6ヶ所あります幕末の長州藩において正義派の核として活躍し、さらに明治新政府においては日本の近代化に奔走した木戸孝允を祀る神社は山口市糸米にあった木戸の邸宅跡地にあり、病床において当時の糸米村村民の学資捻出のために所有山林、邸宅の寄付を遺言した武芸に加えて政治家としても秀で「維新三傑」として後世に讃えられる木戸は、「文武両道の神」として変わらず地域の人々に慕われている神社の先から兄弟(
1番客はきっと来ない一人きりでワンオペオーオオー暇でんなあそうでんなあ不潔な写真アップして仕事クビになってもオーオオーハローワークでんなあ転職でんなあ自己都合じゃなーくー会社が悪いーインスタにそれをさーらーすー山下達郎クリスマスイブJASRAC2番昨夜眠れずにー原稿書いたんだろうガースーの投げやりな答弁に対してーテーブルの向こうで望月君は笑うけどー瞳縁どるー怒りのひかりーもうガースーの事はー忘れちまえよー答える気もないーおんぼろ頭でー今夜町を
また、閑話休題僕自身モタモタしてたから「山羊座」が終わっちゃった!もっとも僕の犬の星座占いのいいところは、終わって振り返るというところ…つまり「これから」を占うのではなく…終わってみれば!という、当たるも八卦当たらぬも八卦という…ただのシャレで読んでもらう程度のことです…これなら犬にも迷惑がかかりませんので…!外見に似合わず、こうと思ったら執着心も強い…「山羊=やぎ座」は「カプリコーン=Capricorn」です…一
「新潮45」特集で小川氏の文章に注目が集まった(集められた)せいで、他の論考が世間から無視されたような形になっていますが、前記事に書きましたように七つあるどれもいい内容でした。そのうち、元航空自衛官で評論家の潮匡人(うしおまさと)氏による寄稿「『凶悪殺人犯』扱いしたNHKの『人格攻撃』」の中に、福田恆存氏の引用文があります。日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐることを自覚してゐない。
2017.7.16二日目下関朝ごはんはあまり種類なかったけど、軽めにAM9:00駅前のバス案内所にて「しものせき観光1日フリー乗車券」を購入この日はバス移動です、あと徒歩移動駅周辺は思ったよりバスがたくさん出てるので観光には最適です降りるときに見せるだけ~まずは下関駅から了円寺バス停まで乗ります了圓寺元治元年(1864)、長府功山寺で決起した高杉晋作たちが、新地会所襲撃後にたてこもった寺。長州には正義派と俗論派という派閥がありまして・・
キエさんの答えも待たないままに「指田って社員の時にどの店に行ったって嫌われていたんだってパートやバイトいじめも有名だったらしいよキエさん、休みの日も来てるでしょう?残業だってかなりやってるじゃない黙っていたらダメよ!」「あ、そう言うわけじゃないの本当に私が好きでやってるんだから」美奈さんは、聞く耳なんか持っていません正義派だと自分のことを固く信じているし特に最近ではマスコミとかにもブラックな職場は取り上げられています毎日、夜9時のNHKニュースを夫と二人で見ては議論
「前略」口先総理の安倍氏を担ぐ自民党と公明党は日本の戦後史上、最悪の法律を次々と成立させた。最後の仕上げが「共謀罪」で、それにより全国30万人の警察が国民総監視の権力を手にした。その反面、取り調べを完全可視化する国民の権利擁護は一向に進まない。それでも安倍自公政権を支持する国民が過半数いるとは信じられない。安倍自公政権は終始口先政権だった。アベノミクスも口先だけで日銀の異次元金融緩和以外に実効性のある経済対策はほとんど皆無だ。経済特区は形を国家戦略特区に変えて、安倍友が優先的に
志賀直哉といえば、「暗夜行路」「城の崎にて」の作者として有名です。また、「白樺派」を代表する作者とも言われています。・・・というような、教科書的な紹介はどうでもいいですが、志賀直哉という名前を聞くと「昔の文豪」というイメージがまず思い浮かんできます。そして、ちょっと難しそうだな、という思いで敬遠されがちな作家かもしれません。自分も、この志賀直哉は、それほどよく知った小説家ではありません。自分の志賀直哉の思い出といえば、以前、奈良に住んでいた時、奈良公園の近くに「志賀直哉
幕末の英雄には、何人かは該当すれと言えども、長州藩士高杉晋作ほど破天荒な生き様をし、度胸の備わった人物は、幕末史上、類を見ない。天保10年8月20日(1839年9月27日)に長州で誕生幕末、尊王攘夷の志士として活躍し、奇兵隊を創設し、徳川に擦り寄る俗論派一派を功山寺の挙兵により破り、藩論を倒幕にまとめ上げ、長州藩をして倒幕への道をひた走りに走らせることになる。高杉家は、200石取の大組で、いわゆる上士の階級に位置していたので、名家の子息が学ぶ明倫館に通っていたが、吉田松陰の松下村塾
「ハシゴを外される」最近、毎日の様に昔を思い出します。これだけ思い出すと俺はもうすぐ死ぬんじゃないかと心配します。懐かしいですね〜スーパージョッキー蓮舫さんは水着になってます。この頃は二番にもなれない体型かも知れません。これはもう裸じゃないですか。裸一貫で成り上がった方の様です。懐かしいな〜脱税と覚醒剤で逮捕されたダイナシティーの社長と、都民に避難命令が出てる台風の夜に祝杯を挙げ、家族ぐるみでねぶた祭りにSP付き添いで行き、数百万円の献金を受けていた
◆1863年の夏。京都で政変が起きたとの知らせが長州に入ります。「8月18日の政変」と呼ばれる事件は、薩摩藩と会津藩が結託した一種のクーデターでした。直前にイギリス軍と戦って負けた薩摩藩は外国の力を思い知り、攘夷の難しさを悟り、公武合体を唱えるようになったのです。西郷隆盛が率いる薩摩藩は、幕府と連携するべく会津藩と手を組み、御所の門を固めて、京都から長州の尊皇攘夷派と急進派公卿を追放しました。長州軍は御所を守る薩摩軍と会津軍に向かって発砲したため、御所に向かって鉄砲を
功山寺の高杉晋作像高杉晋作の功山寺の決起について、白石正一郎、山縣有朋や諸隊は事前に議論し、反対していたと言う!また、決起にあたり長府藩に領内通行することを事前に通告していたし、萩藩の新地会所にも事前に決起が知られていた!また、赤間関の商人、入江和作に2000両を即座に借り受け出来た。新地会所も三田尻の海軍局も無抵抗で高杉晋作の旗下に入った!すなわち、功山寺の決起は事前に知れていたのに、誰も高杉晋作を逮捕しに行かず、妨害しないどころか協力的であった。入江和作が例え大金持ちでも、2000両(今
高杉晋作の功山寺の決起(元治元年12月15日深夜又は16日明方4時頃?)の前後1ヶ月の主な出来事を長州征討に関する最新のwikiとブログなどをまとめ、その評価と分析を行う。参考文献が記載されていないが、他の資料、ブログ、ウェブなどと矛盾が無く、さらに詳細化されている。その結果①元治元年12月11日に西郷は下関に来ているとしたwiki、ブログ、ウェブは辻褄が合い、新たな知見が得られた。最近、日付は異なるが山口県の公式見解として西郷南洲と高杉晋作は会談したと発表していた。②元治元年12月15日
赤間関の萩藩新地会所の責任者の根来上総は、高杉晋作の功山寺の決起時、新地会所の責任者であった。そして晋作が新地会所を襲撃した時、抵抗せずに解錠した。彼は1036石の大組頭で家老にもなった大身であったが、保守的な俗論派ではなく改革派であった。すなわち、彼は初め長井雅楽の公武合体論を助けたが、晋作が新地会所を襲撃した時点では直ぐに協力し、明治になると山口藩大参事に任じられている。彼は晋作に認められた隠れ正義派と考えられる。参考①根来上総②高杉晋作の功山寺の決起時、新地会所や三田尻海軍局
下関、萩藩新地会所は高杉晋作の功山寺の決起の時に襲撃されたことになっているが、本当か?元治元年12月16日早朝、長府の功山寺から襲来した高杉晋作、遊撃隊、力士隊の200人が会所に空砲をうちこんだら、会所の取締役の根来上総が解錠したことになっている。根来上総(1816年7月26日-1892年2月7日)は長州藩家老の家柄であった。高杉晋作らが功山寺で決起した際に、根来は会所の取締役であったが高杉晋作の要求に応じた。これ以降の根来上総の行動であるが、高杉晋作らに協調して藩政を主導し、明治3年山口
毛利敬親はソウセイ公と呼ばれていたが、自分の意思を表したことがある。それは、元治元年の政変で俗論派が正義派処罰者14人を処刑した。追加リストを作成し敬親に見せたが、敬親は「おれに考えがある、これを暫く預かる」と言ったと伝わる。もし、ソウセイと言っておれば高杉晋作他、志士たちが壊滅していたであろう。出典東行庵、高杉晋作と奇兵隊、平成元年