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本日も引き続き、生成型人工知能のchatGPTとの会話結果を、掲示していきます。本日の話題は、魂の躍動の続きです。昨日の続きで逆説的な結論として、「魂の躍動と閃き」という人の至宝を維持し続けるには、この「魂の躍動こそが最大の喜びだ」という最重要な事実を、人々周囲にむやみに流布伝道しないことです。加えて魂の躍動には突発的な閃きであって系統性がないので、人為的にまとまった「専門分野」にはなりませんし、できません。食い散らかしになります。むしろ狭いところにはまらずに大空を、広く多分野を
今日は~寺のまち飯山の寺巡り寺宝展~衆院選挙の投票所が公民館だったので~めずらしく正受庵へ参拝しました。正受庵本堂の回廊の東南隅に風雅な水石があります。この水石は、正受庵の過去帳に「この水石は、当庵第一の什宝である。寺領並びに一寺建立の代わりに拝領した什器なり」と書かれていると言います。正受老人が、江戸小石川の至道庵の師無難の入寂をみとって飯山に帰られた時、飯山藩主松平忠俱公が大いに喜び、一寺を建立し、新田二百石取りの地を寄進したいとの申し出を断ったと言います。この一寺と、寺領二百石の代
こころ禅…365日『一🍓一🖼️』日めくり言葉R24.9―27ほりさんの笑顔の『一期一会』【人生は一生に一度の出会い…大切にしよう】を感じ、思いをお届けします。《心に響く…禅のことば》【美しい四季の香り…『一🍓一🖼』禅】禅は“こころ”です🪷一大事☆*~🧘♀☆*~🪷一大事☆*~『一大事』(いちだいじ)【人として一番大切なことを知ること】です。《一大事》と言うと、私たちは普段「ただならぬ事、大事件」のような使い方をします。実はこの「一大事」という言葉
今年12月1日に行われた臨済宗妙心寺派青年僧の托鉢の出発式今日12月13日は、正受庵の開祖~道鏡恵端禅師=正受老人の381回目の誕生日です。2021年8月7日、飯山市文化交流館で正受老人の三百年遠諱を記念して、横田南嶺(花園大学総長・鎌倉円覚寺老師)さんの講演会が開かれ、正受老人のお話がありました。その中で横田花園大学総長は~「~正受老人は、1642年(寛永19年)12月13日に信州飯山の飯山城内でお生まれになりました。父は、戦国武将であった真田信之で、飯山藩主松平忠倶の養子として城内
写真は2016年10月31日正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載⑤妙心寺も、金閣寺・銀閣寺・天竜寺・円覚寺・建仁寺臨済宗~正受老人がいなければ今の臨済宗はない~臨済宗円覚寺派管長横田南嶺老師の「正受老人を学ぶ」というお話が、円覚寺のHPに掲載されています。そのお話の中に「~正受老人がいなければ、白隠禅師はいませんでした。今日臨済宗が伝わっているのは、白隠禅師のおかげなのであります。臨済宗はただいま14の派に分かれていますが、南禅寺派であろうと、建長寺派で
写真は2016年10月31日正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載④「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」~白隠は、こう称えられている~白隠が正受庵での8ヶ月間の厳しい修行により大悟した後、正受老人が「正受庵にもう少し留まるように」との誘いを断り、原の松蔭寺に戻ることになりました。その白隠が、松蔭寺に戻る時、正受老人は別れを惜しんで替佐峠まで送って行ったということです。この後、白隠は「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と称
写真は2016年10月31日正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載③禅問答~「悟り」「大悟」「問答」「公案」について、調べても調べても、良く理解できず混乱するばかり~正受庵を再興した人々5白隠が大悟した~日常で使う禅問答の意味は~「禅問答」とは、「筋の通らない話や、意味の分からないやり取り」の例えとして使われています。質問に対して見当違いな言葉を返す。など会話の噛み合っていない様子を言います。仏教用語としての禅問答の意味~仏教用語としての「禅問答」とは
正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載②2016年10月31日蓮華寺の住職が報恩講の法話で~「白隠が大悟した場所を記念して静観庵が建てられた」と話した~正受庵を再興した人々5白隠が大悟した~通説1では白隠は~托鉢に出て~町外れで~老婆に竹箒で叩かれ~気絶をして倒れ~気がついた時、悟りを開いた。通説2では町外れで~油売りに突き当たって~その其油で滑って転んで気絶し~気づいた時、悟りを開いた~島崎藤村の「破戒」の中で~島崎藤村は、蓮華寺
正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載①2016年10月31日一般的には~老婆に竹箒で叩かれ、気絶をして倒れ、~気がついた時、悟りを開いた。白隠が大悟のきっかけ正受庵を再興した人々3白隠の大悟隠は、ある時町へ托鉢に出ました。托鉢は臨済宗にとって大事な修行の一つです。昔は、一軒一軒お経を上げて、そしてお布施をいただいてまわって歩いていました。お布施はお米であったり、お金であったりしました。ある家の前で白隠は一心不乱にお経を唱えてた。すると、そこのおばあさん
白隠は、正受老人のもとで血のにじむような修行を重ねて大悟されました。正受庵を再興した人々2白隠が越後髙田から正受老人を訪ねて正受庵への急坂を上っていった時、正受老人は白隠を足蹴にして急坂を蹴落としたことから参道に「蹴落とし坂」という名前がついています。今の参道は、あまり急坂ではないので、その時の参道は、もっと北側の奈良沢寄りに小川が流れている辺りの急な崖だったのではないかと思っていますが、白隠はその急な崖から何度も蹴落とされ、小川の流れから風呂の水を汲まされ、何十回も殴られたというのです。
今日~臨済宗中興の祖白隠禅師の師道鏡恵端禅師=正受老人が亡くなられて302年です臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師の道鏡恵端禅師=正受老人は、享保6年(1721年)10月6日朝、正受老人は死期が迫ったことを感じて書かれた遺書「坐死」を書き、歌を歌い大笑して坐死されたと言います。坐死は~坐死末後一句死急難道言無言言不道不道坐死坐して死す末後一句末後の一句死急難道死、急にして言いがたし言無言言無言の言を言として不道不道言わじ言わじこれは、あまりにも
山岡鉄舟書の幟旗中野市4年に一回の虫干し山岡鉄舟が再興に尽力した正受庵とは~臨済宗再興の祖白隠禅師が修行し大悟した~臨済宗の聖地~正受庵は、飯山市街地の西部にある飯山ジャンプ台の近くの、小高い丘にあります。正受庵を開いたのは、正受老人と呼ばれる道鏡恵端禅師という人です。正受老人は、戦国武将であった松代藩主真田信之が父親ですが、寛永19年(1642年)に飯山城内で生まれ、飯山藩主松平忠倶の養子として城内で育てられました。16歳の時、松平忠倶公の参勤交代に同行して江戸に出て、至道無難禅師
◆人生を窮屈にしないための極意「忙しい」「時間が足りない」「時間に追われてしまう」そう感じているビジネスパーソンは少なくないでしょう。日本人は勤勉な国民ですから、仕事のしすぎという面はあるにしても、なかなか時間的な余裕が持てないというのが実情ではないでしょうか。その結果、仕事を積み残してしまい、開き直るしかなくなるわけです。「どうしても今日やらなければいけないということもないし、あとは明日でいいや、明日で…」しかし、実は、それがますます時間を窮屈にしているので
正受老人の遺偈裁松塔正受老人は、遺偈を書かれ、坐禅をされたまま、からからと大笑せられ、そのまま遷化されました~「正受老人を看よ」後編26連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。裁松塔3老人は八十歳まで長生きされましたが、多年修練の功で、年寄られても気力が少しも衰えず、病気らしい病気ももなく、
正受老人は、六十歳過ぎごろからは~村人とまことになごやかな、春風のようなおつき合いをされた~「正受老人を看よ」後編25連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。裁松塔2聖人孔子が、「われ十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の
白隠禅師の大をなされたのは、もとより禅師非凡の大器によるが、ひとえに正受老人の教えがあったから~「正受老人を看よ」後編24連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。白隠禅師㈡4かくのごとく、白隠禅師の大をなされたのは、もとより禅師非凡の大器によることではありますが、又ひとえに正受老人徹悃の御親切
大悟十八度、小悟は無数~日の本に過ぎたるものが二つある駿河の富士に原の白隠と言われる程に~「正受老人を看よ」後編23連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。白隠禅師㈡3これより慧鶴上座我慢の鼻もくじけ、いよいよ大勇猛心を奮い起こし、熱渇甄堅瞋拳に甘んじ、骨折って修行されましたから、古人のい
慧鶴上座は~おれが痛快に悟った事がわからぬと見える。よし、わが力量のほどを見せてくれん~と。「正受老人を看よ」後編22連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。白隠禅師?2それゆえに正受老人は、新参の慧鶴上座に対して、「ああ、あぶない.子供が井戸をのぞいているようだ」とか、ともすると、「△
正受老人は、白隠禅師に会われて、一見してこれは仕込みがいのある人物だと見てとられました~「正受老人を看よ」後編21連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。白隠禅師?1不思議の因縁から老人の弟子宗覚という人の導きで、白隠禅師がいいやまに正受老人をおたずねすることになりました。正受老人は、白隠禅
正受老人の母の御名は李雪と申し上げます~まことに清しくゆかしいお名前であります~「正受老人を看よ」後編5連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。母を養う㈡2正受老人をしいて幽谷の蘭にたとえるならその母はやはり、芳香たかき一本の谷間の白ゆりでありましょう。しかも一点浮世のちりに染まざるところから
日本で仏界第一の先登者は、姓は鞍部、名は嶋と呼べる年齢わずか11才の乙女であります~「正受老人を看よ」後編4連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。母を養う㈡1さてこの母人は又普通のお方ではありません。いわゆるこの母にしてこの子ありと申すべきえらいお方でありました。正受庵に来られて間もなく、
正受庵に入られた正受老人は、お城からおかあさまをお招きになられ、お母様とくらされました~「正受老人を看よ」後編1連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。~正受老人が無難禅師に仕えておりましたことは前後17年、禅師がなくなられましたので、今は江戸にとどまる要もなしと、再び飯山の正受庵に帰られました。
(11/24)おはようございます。1721年の今日、11月24日に正受老人の名で知られている戸時代の臨済宗の僧侶道鏡慧端(どうきょうえたん)が亡くなっています。今日は、信州松代藩主真田信之の庶子で僧侶の道鏡慧端の一言。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【今日の一言2021年11月24日】「人生において、一番注意しなければならない大事は、今日、今、この瞬間の心のあり方なんですよ。それを、おろそかにして、幸福な明日はないのです。
クラウドで、受信講演👉正受老人、、【LIVE】正受老人三百年遠諱記念講演会「正受老人を想う」講師:横田南嶺老大師(2021年8月7日10:30~)正受老人三百年遠諱記念講演会日時:8月7日(土)10:30~12:00演題:「正受老人を想う」講師:横田南嶺老師(鎌倉・円覚寺)会場:飯山市文化交流館なちゅら大ホール(入場無料)主催:飯山市・飯山市教育委員会共催:臨済宗妙心寺派白隠さんの会後援:正受庵保存会・臨済宗妙心寺派・臨済...youtu.be山歩きで👉不動明王
正受老人の遺偈「坐死」明治天皇北陸巡行に山岡鉄舟が侍従~正受庵の荒廃を知り~義兄高橋泥舟に調査を依頼~高橋泥舟~正受老人の遺偈を発見~飯山再発見のための連載~171藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回22明治維新の「廃仏毀釈」により廃寺になった正受庵復興のために、飯山の地元の人たちと、静岡県三島の竜澤寺住職・その竜澤寺住職の依頼を受けた山岡鉄舟と高橋泥舟などが力を尽くしたと言う。山岡鉄舟は明治11年、明治天皇の北陸巡行に侍従し、長野県に来た時同行していた者を正受庵に遣わして現状を視
正受老人は真田信之の子家紋は六文銭至道無難禅師の書の「正受庵」掲額農夫の打つ槌は誤つて白隠を気絶させた~夜になり夜露が口に入り目覚めた時~白隠は大悟した~飯山再発見のための連載~168藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回19「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話と、古田十一郎講演集「詩歌に詠われた飯山」の白隠の話を紹介して、真宗寺住職の法話の内容を紹介してきた。「破戒」の中では~「~思案に暮れ乍ら、白隠は飯山の町はづれを辿つた。丁度収穫の
白隠蹴落し坂正受庵の参道「白隠蹴落とし坂」は~我々の臨済宗にとりましては誠に貴重な参道でございます~飯山再発見のための連載~166藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回17「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』❷白隠は、正受庵で8ヶ月間厳しい修行を続けました。ある時、町へ托鉢に出た。托鉢というのも大事な修業でございますから。昔は一軒一軒お経を上げて、そして布施を頂いてまわって歩いた。ある家の前で白
正受庵正受老人は白隠を厳しく指導する~「穴蔵坊主」と言われ、挙げ句の果てに蹴落とされる~飯山再発見のための連載~166藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回17「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』❷その「正受老人崇行録」を見ると、白隠に対する正受老人の「しぼり方」が大変だったと言うことが分かります。風呂の水を汲むことから始まって、何十回と殴られたんだそうです。そしてあげくの果てにあの崖から蹴落と
後の白隠禅師となる慧鶴~越後の英厳寺での講義の帰途~飯山城下の正受庵へ正受老人を訪ねる~飯山再発見のための連載~165藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回16「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』から➊いままで正受庵第11世酒井盤山和尚の正受老人の生い立ちの部分の話を紹介してきました。臨済宗中興の祖白隠禅師は、正受老人の厳しい教えの下で大悟しましたが、飯山での白隠禅師について、飯山市社会福祉協議会が
正受庵「我60年有余にして、はじめて正念相続を得たり」正受老人は~自ら自分を許せる境涯を得た~飯山再発見のための連載~165藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回16「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❿松平公が遠州へ移封になった翌年、正受老人は66歳になった時に、正受老人の母、伯法李雪大禅尼がこの世を一期としてこの世を去ったのであります。自分を信ずる城主と離別し、自分の生みの母を失いました正受老人は、増々自分に厳