ブログ記事50件
長野駅で飯山市の観光パンフレットを入手。それによると、飯山市には風情あるお寺がたくさんあって、寺巡りの遊歩道が整備されているという。一番に紹介されていた正受庵は、町を見下ろす丘の上にあった。山門には臨済古道場という石がたっていた。なかなか険しい道なので、私は大事を取って、よこの坂から本堂をめざした。本堂鐘楼お庭石の上にはアマガエル。もみじが多く、もう半月もすると目の覚めるような紅葉が見られそう。真田幸村の甥である道鏡慧端(真田信之の子正受老人ともいったそう)が終生を過ご
今日は~寺のまち飯山の寺巡り寺宝展~衆院選挙の投票所が公民館だったので~めずらしく正受庵へ参拝しました。正受庵本堂の回廊の東南隅に風雅な水石があります。この水石は、正受庵の過去帳に「この水石は、当庵第一の什宝である。寺領並びに一寺建立の代わりに拝領した什器なり」と書かれていると言います。正受老人が、江戸小石川の至道庵の師無難の入寂をみとって飯山に帰られた時、飯山藩主松平忠俱公が大いに喜び、一寺を建立し、新田二百石取りの地を寄進したいとの申し出を断ったと言います。この一寺と、寺領二百石の代
今年12月1日に行われた臨済宗妙心寺派青年僧の托鉢の出発式今日12月13日は、正受庵の開祖~道鏡恵端禅師=正受老人の381回目の誕生日です。2021年8月7日、飯山市文化交流館で正受老人の三百年遠諱を記念して、横田南嶺(花園大学総長・鎌倉円覚寺老師)さんの講演会が開かれ、正受老人のお話がありました。その中で横田花園大学総長は~「~正受老人は、1642年(寛永19年)12月13日に信州飯山の飯山城内でお生まれになりました。父は、戦国武将であった真田信之で、飯山藩主松平忠倶の養子として城内
いろんな事に参加していたら楽しい毎日になるだろうと思い基本的に誘われたら断らず出かけるようにしてるんだけど今回はお寺でのお茶飲みに誘われたので面白そうだったから出かけてきましたよ初めて訪れるお寺でしたが天気がとても良くこの光景を見るだけで出かけてきてよかったなと思いましたこの季節稲が金色に輝いていて空の青と雲の白と似合っていて「早く新米食べたいなぁ」とウキウキしている私がいます今回はお茶飲みと言ってもお抹
正受庵小改築落慶法要/寬道和尚1回忌法要の写真を継続して掲載①2016年10月31日一般的には~老婆に竹箒で叩かれ、気絶をして倒れ、~気がついた時、悟りを開いた。白隠が大悟のきっかけ正受庵を再興した人々3白隠の大悟隠は、ある時町へ托鉢に出ました。托鉢は臨済宗にとって大事な修行の一つです。昔は、一軒一軒お経を上げて、そしてお布施をいただいてまわって歩いていました。お布施はお米であったり、お金であったりしました。ある家の前で白隠は一心不乱にお経を唱えてた。すると、そこのおばあさん
台風で傷んだ、正受庵本堂の茅葺き屋根の修復工事が行われています長野県史跡正受庵屋根修復工事修復に使う茅は昨年市民ボランティアが刈りとりした茅が使われます。明日5日には、茅葺き屋根修復工事見学会も行われます正受庵は臨済宗中興の祖、白隠が大悟した庵、臨済宗の聖地とも言われています。#正受庵#正受老人#臨済宗#白隠禅師#県史跡#寺のまち飯山#長野県#長野県飯山市#横丁大家の店番日記
正受老人は、六十歳過ぎごろからは~村人とまことになごやかな、春風のようなおつき合いをされた~「正受老人を看よ」後編25連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。裁松塔2聖人孔子が、「われ十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の
正受老人はこの時何げなく山でしばを拾っておりましたが、突然左手の小指がきりきりと痛みました~「正受老人を看よ」後編3連載中の「正受老人を看よ」は、今から95年前の昭和3年に、後に214世臨済宗円覚寺管長になられた宝嶽慈興禅師が、信濃教育会の研修会で正受庵を訪れ、正受老人について講演された内容を、12年後の昭和15年にまとめられて発刊された本です。母を養う㈠3正受老人はこの時何げなく山でしばを拾っておりましたが、突然左手の小指がきりきりと痛みましたので、仕事をやめて小指をしらべてみま
ご無沙汰しております。ぬるですけども現在、北陸新幹線飯山駅に来ております。ローカル線にあるごく普通の駅だった飯山駅も北陸新幹線のルートに組み込まれて駅舎もだいぶ立派になりました。暗くて見づらいですが駅舎の右側に在来線ホームがあります。駅の改札口。左側が北陸新幹線、右側が飯山線の改札口です。わたしの旅スタンプ台。飯山線車内に設置されていただるまストーブ。飯山線改札口です。豪雪地帯を走行します。割と大きな地震もたまにあります。飯山線在来線ホーム。十日町方面を撮影。飯山線在来線ホー
【正受庵・初代松代藩主真田信之(幸村の兄)の子、道教慧端(どうきょうえたん)が建立した小庵】【飯山城址の城門・上杉謙信が戦略拠点として築いた城の城門で、もともとは桜門だったが、廃藩置県時に長屋門式になったとか。】【飯山城址の頂上に鎮座する葵神社と銀杏の黄葉】飯山市の称念寺の前後に訪れた正受庵と飯山城址。正受庵には真田六文銭の紋があった。飯山城址の銀杏は、時々太陽が雲に隠れ、コントラスト調整が難しかった。その後数か所訪れる予定だったが、残念ながら帰宅となった。ー小平
更に5分程歩いて正受庵茅葺き屋根の庵緑の中の茅葺き屋根が綺麗
正受老人の遺偈「坐死」明治天皇北陸巡行に山岡鉄舟が侍従~正受庵の荒廃を知り~義兄高橋泥舟に調査を依頼~高橋泥舟~正受老人の遺偈を発見~飯山再発見のための連載~171藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回22明治維新の「廃仏毀釈」により廃寺になった正受庵復興のために、飯山の地元の人たちと、静岡県三島の竜澤寺住職・その竜澤寺住職の依頼を受けた山岡鉄舟と高橋泥舟などが力を尽くしたと言う。山岡鉄舟は明治11年、明治天皇の北陸巡行に侍従し、長野県に来た時同行していた者を正受庵に遣わして現状を視
山岡鉄舟が坐禅をした三島竜澤寺真宗寺住職は「法話」で~臨済宗中興の祖「白隠禅師」の話をしたのか~正受庵は明治初期に廃庵に~飯山再発見のための連載~170藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回21島崎藤村は、真宗寺「報恩講」の住職の法話で、飯山藩主松平忠倶公のことや、「恵端=正受老人」・「白隠禅師」のことを取材し、「破戒」の第15章の中に「法話」として書いただけでなく、登場人物の文平の言葉を借りて、白隠と恵端について強調している。~『や、どうも今晩の御説教には驚きましたねえ。』と文平は
正受老人は真田信之の子家紋は六文銭至道無難禅師の書の「正受庵」掲額農夫の打つ槌は誤つて白隠を気絶させた~夜になり夜露が口に入り目覚めた時~白隠は大悟した~飯山再発見のための連載~168藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回19「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話と、古田十一郎講演集「詩歌に詠われた飯山」の白隠の話を紹介して、真宗寺住職の法話の内容を紹介してきた。「破戒」の中では~「~思案に暮れ乍ら、白隠は飯山の町はづれを辿つた。丁度収穫の
白隠蹴落し坂正受庵の参道「白隠蹴落とし坂」は~我々の臨済宗にとりましては誠に貴重な参道でございます~飯山再発見のための連載~166藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回17「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』❷白隠は、正受庵で8ヶ月間厳しい修行を続けました。ある時、町へ托鉢に出た。托鉢というのも大事な修業でございますから。昔は一軒一軒お経を上げて、そして布施を頂いてまわって歩いた。ある家の前で白
正受庵正受老人は白隠を厳しく指導する~「穴蔵坊主」と言われ、挙げ句の果てに蹴落とされる~飯山再発見のための連載~166藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回17「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』❷その「正受老人崇行録」を見ると、白隠に対する正受老人の「しぼり方」が大変だったと言うことが分かります。風呂の水を汲むことから始まって、何十回と殴られたんだそうです。そしてあげくの果てにあの崖から蹴落と
後の白隠禅師となる慧鶴~越後の英厳寺での講義の帰途~飯山城下の正受庵へ正受老人を訪ねる~飯山再発見のための連載~165藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回16「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~古田十一郎講演集』『一日暮らしのくふう~正受老人をたどって~』から➊いままで正受庵第11世酒井盤山和尚の正受老人の生い立ちの部分の話を紹介してきました。臨済宗中興の祖白隠禅師は、正受老人の厳しい教えの下で大悟しましたが、飯山での白隠禅師について、飯山市社会福祉協議会が
正受庵「我60年有余にして、はじめて正念相続を得たり」正受老人は~自ら自分を許せる境涯を得た~飯山再発見のための連載~165藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回16「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❿松平公が遠州へ移封になった翌年、正受老人は66歳になった時に、正受老人の母、伯法李雪大禅尼がこの世を一期としてこの世を去ったのであります。自分を信ずる城主と離別し、自分の生みの母を失いました正受老人は、増々自分に厳
至道無難書の庵名板水戸偕楽園水戸光圀公から水戸藩に来て欲しいと二度も頼まれたが~正受老人はそれを断り一人臨済禅を守った~飯山再発見のための連載~164藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回15「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❾正受老人は、本当の仏教を知り得る専門家となる弟子の養育に努力いたしました。自給自足の生活をしておったのであります。農耕し、山で木を伐っての日常底でありました。やがて水戸光圀公がこの偉大な
「この水石は、寺領並びに一寺を建立するかわりに殿様から拝領の当山第一の宝物なり」~飯山再発見のための連載~163藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回14「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❽(これから恵端さんのことを正受老人とお呼びすることにしましょう)飯山に帰りました正受老人を非常に喜ばれましたのは当然母親でありましょう。又飯山藩主松平忠倶公も非常に喜ばれまして、正受老人の弟子になりました。又、松代に帰っておら
大道場東北寺東京都渋谷区大道場「東北寺」に留まり~江戸の禅の指導者となって欲しいとの依頼を断り~恵端は飯山へ帰る~飯山再発見のための連載~162藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回13「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❼恵端さんが、東北修行の旅から帰ってきた頃、江戸では無難禅師のために江戸の市民が東北寺という大道場が建立されていました。当時江戸一番の大道場だったと言われています。東北修業から帰って来た恵
京都の金閣寺・銀閣寺・竜安寺・妙心寺・南禅寺・建仁寺・東福寺・天竜寺等が臨済宗の寺院~飯山再発見のための連載~160藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回11「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❺臨済宗という宗派は、皆さんが京都に行かれて参拝されます金閣寺・銀閣寺・竜安寺・妙心寺・南禅寺・建仁寺・東福寺・天竜寺・相国寺・大徳寺、又鎌倉の建長寺・円覚寺、又東北は松島の瑞巌寺といわれる様な、いわゆる京都・鎌倉を中心に仏教を
至道無難禅師筆正受庵蔵真田家の家紋の六文銭江戸に出た恵端は~捜し求めていた師匠に出会い出家~師匠は江戸麻布の至道庵の至道無難禅師~飯山再発見のための連載~159藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回10「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❹江戸の麻布に庵が有り、至道無難という和尚様がおられました。このお寺を至道庵と呼んでおったのでありますが、恵端はこの庵にむしろを敷いて破れた衣を着て端座しておった一人の和尚に出会
飯山藩江戸屋敷本多豊後之守屋敷跡悟りを開いた恵端は、19歳になった時、飯山のお殿様の参勤交代のお供をして江戸に出ました~飯山再発見のための連載~158藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回9「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❸「恵端さんは~16歳の時ある契機を得て、突然とお悟りを開きました」その悟りを開いたということ説明してみます。悟りを開くということは、何か神がかりになって見えない世界が見えて来たり、失った
「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世酒井盤山和尚の話~飯山再発見のための連載~157藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回8「破戒」拾五章(五)真宗寺住職寂英の法話の内容を改めて知る~正受庵第11世住職酒井盤山和尚の話のつつき❷飯山城中で生まれた正受老人は、すくすくと大きくまりましたが、この時の幼名も身分も一切今では知ることが出来ません。(ここより正受老人を恵端さんという)恵端さんが13歳の時であります。藩主松平忠倶公が、日にちを決めて禅僧か
正受庵寬道和尚1周忌法要2016年11月1日「破戒」の三部は、正受庵を訪ねた白隠が、正受老人の厳しい指導を受け悟りを開いた話である~飯山再発見のための連載~155藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回6藤村は、真宗寺の「報恩講」の取材に時間を割いたこともあり、「破戒」第拾五章(一)から(五)まで、一章全部を使った「報恩講」の場面を書いている。第拾五章(五)は~住職寂英の法話の三部を書いている。法話の第三部は白隠に関する伝説を主にしたものであつた。昔、飯山の正受菴に恵端禅師といふ高
法話の中に出てくる正受庵「破戒」の取材に来飯した島崎藤村を案内したのは~真宗寺寺内西勝寺の若僧~竹林即善~飯山再発見のための連載~154藤村が飯山へ取材に訪れたのは最低5回5藤村は、真宗寺の「報恩講」の取材に時間を割いたこともあり、「破戒」第拾五章(一)から(五)まで、一章全部を使った「報恩講」の場面を書いている。~第拾五章(三)には~「夕飯の後、蓮華寺では説教の準備を為るので多忙しかつた。昔からの習慣として、定紋つけた大提灯がいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊
信州を写すフォトグラファーH.YOSHINARIの信州の風景写真タイトル信州長野県飯山市、信州飯山史跡めぐり正受庵長野県飯山市は島崎藤村も作品の中で描き、雪国の小京都といわれています。市内には22の寺社があり、寺から寺を結ぶ「寺めぐり遊歩道」があります。「寺めぐり遊歩道」がむすぶ寺社は七福神にもなっています。その中でも「正受庵」が有名です。臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴の師であった道鏡慧端が開いたといわれています。慧端は、松代城主真田信之の庶子と
信州を写すフォトグラファーH.YOSHINARIの信州の風景写真タイトル信州長野県飯山市、信州飯山史跡めぐり正受庵前庭長野県飯山市は島崎藤村も作品の中で描き、雪国の小京都といわれています。市内には22の寺社があり、寺から寺を結ぶ「寺めぐり遊歩道」があります。「寺めぐり遊歩道」がむすぶ寺社は七福神にもなっています。その中でも「正受庵」が有名です。臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴の師であった道鏡慧端が開いたといわれています。慧端は、松代城主真田信之の庶
信州を写すフォトグラファーH.YOSHINARIの信州の風景写真タイトル信州長野県飯山市、信州飯山史跡めぐり正受庵長野県飯山市は島崎藤村も作品の中で描き、雪国の小京都といわれています。市内には22の寺社があり、寺から寺を結ぶ「寺めぐり遊歩道」があります。「寺めぐり遊歩道」がむすぶ寺社は七福神にもなっています。その中でも「正受庵」が有名です。臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴の師であった道鏡慧端が開いたといわれています。慧端は、松代城主真田信之の庶子