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ご訪問ありがとうございます今回から「日本書紀」も「敏達天皇紀」に入りますが、この辺りから、異母姉妹や叔母、姪との近親婚が増えてきます。なぜかというと、「嫡子」欽明天皇以来、天皇の血統がとかく重視され、「嫡子」つまり、雄略・仁賢・継体天皇の血を引く欽明天皇の血統が重視されていき、皇后も皇族から選ばれて、その子がまた血統を受け継ぐ、「嫡流」が形成されるからです。金色が嫡流だと思ってくださいそういう意味では、敏達天皇は継体天皇の嫡孫でもあり、母石姫皇后(宣化皇女)を通じて、継体天皇の最
それでは仮説の内乱とはどのようなものなのでしょうか。まず『日本書紀』の記述に矛盾があり、継体天皇(欽明天皇の父)の没年が「辛亥」年(531年)と記載されている一方、その次の第27代安閑天皇(欽明天皇の兄)の即位元年を甲寅年、3年後の534年としていること。つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の3年」が生じているわけです。そして決定的な矛盾は、平安時代に書かれた『上宮聖徳法王帝説』にあります。この史料によると、欽明天皇の治世は41年の長きにわたり、その没年から
ご訪問ありがとうございます前回で欽明天皇は崩御されて檜前坂合ヒノクマノサカイ陵に葬られるのですが…この檜前坂合陵には「こっちが真陵‼️」という学説が2つあって決着がつきません。ひとつは宮内庁が欽明天皇陵に治定する「梅山古墳」もうひとつが奈良県最大にして、終末期古墳に移行する直前に築かれた「見瀬ミセ丸山古墳」です。このうち見瀬丸山古墳の方は(ネット上ではもっと最近…とするものも見受けられますが)、こちらが欽明天皇陵だという知識は学生時代に習っているので、1980年代以前には指摘
ご訪問ありがとうございます前回ぐらいから「百済本記」に依らない、国内の記事らしきもの(おそらくは各氏族の言い伝え)が増えてきています。何かしら、成文化されたものが残っていくのか…それとも半世紀後の「国記」「天皇記」で、採択されていくのか…(50年前なら言い伝えもけっこう正確でしょうし)記事の内容も細かくなっているように思います。ただ「欽明天皇紀」の前半部が、ほぼほぼ聖明王の関連で、欽明天皇の影はめちゃくちゃ薄いwということを考えると、この頃はまだ国内の政治の記録も外交の記録も残ってお
ご訪問ありがとうございます今回の箇所はいろんな出来事が集まっています。朝廷の記録というよりは、各氏族の伝承をもとにしている感じがするところです。目次馬飼首歌依の罪新羅の移住者紀男麻呂宿禰の出兵河辺臣瓊缶甘美媛の受難調吉士伊企儺大葉子の歌目次を開く馬飼首歌依の罪是の月(6月)にある人が馬飼首ウマカイノオビト歌依ウタヨリのことを誹謗中傷して「歌依の妻の逢臣オウノオミ讃岐サヌキの鞍クラの韉シタグラ(鞍の下の敷物)に違和感を感じ、よくよく見ると石姫皇后の御鞍でした。」と言っ
ご訪問ありがとうございます。今回はついに任那滅亡です。目次新羅使の厚遇新羅使の冷遇任那滅亡欽明天皇の詔勅任那滅亡とは?目次を開く新羅使の厚遇21年(560)秋9月、新羅は彌至己知ミチコチ奈末ナマを派遣して貢物を献上した。饗=宴会をして、賜った物がいつもより過度であった。彌至己知は名前、奈末は新羅の官位17階のうちの第11階です。あまり高官ではありませんが、日本側はえらく歓待しました。百済が大変なことになったので、とりあえず朝貢してきたのなら安心だ~と思ったのか…どうな
ご訪問ありがとうございます長らく登場し、仏教を日本に伝え「欽明天皇紀」といいながら、欽明天皇より目立っている百済の聖明王ですが、悲劇が襲います。目次餘昌の出撃聖明王の戦死倭国軍の活躍聖明王戦死の報告餘昌の即位屯倉の設置目次を開く餘昌の出撃餘昌ヨショウは新羅を討つことを謀ると、重臣たちは諌め、「天はいまだ味方していません。恐らく災いが身に及ぶでしょう。」と言った。餘昌は、「老人たちよ、何を怯えるのだ。私は大国ヤマトにお仕えしているし、何を恐れることがあろうか?」と言っ
おはようございます・・(^_-)-☆今の奈良は8℃と少し暖かさを感じる日になりましたね。だけど、昨日並みで最高気温は18℃ほどで春らしい暖かさになりそうですね。エアコンもいらないかも?・・(^_-)-☆奈良まほろばソムリエ奈良通2級の13回目の問題です。3奈良県の遺跡や古墳に関する事柄について、最も適当なものを選びなさい。(22)次の記述のうち、誤っているのはどれか。ア.藤ノ木古墳には2体分の人骨があった。イ.マルコ山古墳の石槨内には漆
ご訪問ありがとうございますまずは百済の王子の活躍から(^∇^)目次百済の王子餘昌内臣の救援軍聖明王の上表文百済の王子餘昌冬10月20日、百済の王子の餘昌ヨショウ明王=聖明王の子で、威徳王のことである。は、国中の兵をことごとく率いて高麗国(高句麗)へ行き、百合野ユリノ(黄海道黄州の蒜山サンザン)の塞ソコ=砦を築いて、兵士の中に混じって寝食を共にした。この夕方のこと遥かに遠くを見渡すと、大野は起伏しつつ肥え、平原は広く伸び、人の跡は稀で犬の声もしなかったが、俄にたちまち鼓と笛
ご訪問ありがとうございます今回は外交でいろいろ動きます目次百済の使い吉野寺の仏像百済救援王辰爾新羅と高句麗の謀議任那の長官目次を開く百済の使い14年春1月12日に、百済は上部ショウホウ徳率トクソチ科野シナノ次酒シシュ・杆率カンソチ禮塞敦ライソクトン等を遣わして出兵を要請した。13日に、百済の使者の中部チュウホウ杆率カンソチ木刕今敦モクラコムトン・河内部阿斯比多カワチベノアシヒタ等が百済に帰国した。前に来た使者が帰国する前に、重ねての援軍の要請ということは、百済はかなり切
ご訪問ありがとうございます。今回は「仏教公伝」としています。なぜ公伝かというと、国家レベルで伝来したのがこの時で、渡来系の人々の間では、すでに仏教が信仰されていたようなのです。高句麗と百済は、4世紀に伝わっていましたからね。目次箭田珠勝大兄皇子の薨御高句麗と新羅の同盟仏教公伝倭国内の親百済派・反百済派聖明王の誤算目次を開く箭田珠勝大兄皇子の薨御13年(552)夏4月に、箭田珠勝大兄皇子ヤタノタマカツオオエノミコが薨御された。この時、欽明天皇は推定44~45歳(数え歳)、
ご訪問ありがとうございます前回の高句麗の内乱は、百済にとってはちょっとラッキーな出来事でした。そのせいでしょうか?百済は新羅と組んで、551年にはかつての都、漢城を奪還することに成功します。そのせいか、任那への進出を倭国に認めさせようというあの手この手はちょっと鳴りを潜め、対倭国の要請が変わってきました。でも実をいうと、ここから百済の悲劇が始まるのかも…(ω-、)そして日本は…動乱と権力争いと、新しい日本への脱皮のための産みの苦しみが続きます。目次百済救援軍の要請馬津城の役
ご訪問ありがとうございます。ちょっと道草を食ってしまいましたが、「日本書紀」に戻って来ました。今回は東アジアの中の大きなうねりを見ていくことになります。特にこのころの東アジアにとっては、倭国なんて海の向こうにいる端っこの国でして、むしろ百済や新羅ですら半島の南端に貼り付いているようなもの、やはり中心は北朝と南朝に分かれている中国の王朝と、日本海沿岸から朝鮮半島の大部分を勢力下に置く高句麗の動向だったのです。そこで今回は高句麗の歴史を見ながら、当時の日本、すなわち倭国に及ぼした影響を見て
ご訪問ありがとうございます。任那問題は結局うやむやになっていますが、その後を見ていくことにしましょう。目次粛慎人の出現百済との通交百済の丈六仏膳臣巴提便の虎退治粛慎人の出現越コシの国=北陸地方から連絡があり「佐渡島の北の御名部ミナベの海岸に粛慎人ミシハセノヒトがおり、1艘の船に乗って留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。その島(佐渡島)の人は人間ではないと言い、また鬼であるとも言って、敢えてこれ=粛慎人に近づかない。島の東の禹武ウム(新潟県両津市梅津?)という村の人
ご訪問ありがとうございます。任那問題、まだ続きます(^^;)そろそろ聖明王の本音?が…金官加羅の短甲(美術館ナビより転載)目次日本からの詔書聖明王の具体策「任那日本府」と「百済」日本からの詔書11月に、百済は使者を派遣し、日本府と任那の執事=役人を召集し、「天皇に使者を派遣して伺った奈率ナソチ得文トクモン・許勢コセノ奈率ナソチ奇麻ガマ・物部モノノベノ奈率ナソチ奇非ガヒ等が日本から帰って来た。今こそ、日本府の臣と任那国の執事=役人は、百済に来て天皇の詔勅を聞き、ともに任那
ご訪問ありがとうございます。相変わらずよくわからない状況が続く任那問題で、百済の聖明王はついに倭国(日本)へ遣使します。目次百済聖明王から天皇への上表文百済の言い分倭国(日本)の解答は?「コトバンク」で任那の分かりやすい地図を見つけましたので転載しました。今はオレンジの部分だけです出典小学館日本大百科全書(ニッポニカ)百済聖明王から天皇への上表文3月に、百済は奈率ナソチ阿乇得文アトクトクモン、許勢コセノ(巨勢)奈率ナソチ奇麻ガマ、物部モノノベノ奈率ナソチ奇非ガヒ等を
ご訪問ありがとうございます。今回はこの前の百済が置いた郡令と城主の問題の続きです。事態はかなり混乱しているようですが、今回は前進できるのでしょうか?目次百済の方針決定第2次任那復興会議の召集河内直の糾弾百済vs日本府百済の方針決定12月に、百済の聖明王は、以前の詔書を再び、群臣全員に示して「天皇の詔勅はこのようなものだが、どうするべきであるか?。」と言った。上佐平ソクサヘイ(佐平は百済の官位第1)沙宅己婁サタクコル・中佐平シソサヘイ木刕麻那モクラマナ・下佐平オトサヘイ木尹貴
ご訪問ありがとうございます。第1次任那復興会議がなんだか盛り上がらないまま、終わった百済の聖明王ですが、その後の動きを見る前に当時の任那を確認します。目次任那日本府の動き聖明王の任那諸国への苦言任那日本府への苦言大和朝廷の動向任那日本府の動き秋七月に、百済は安羅日本府=任那日本府と新羅が謀り事を通じていると聞き!Σ( ̄□ ̄;)、前部奈率ゼンホウナソチ(百済の官職)鼻利莫古ビリマクコ・奈率ナソチ宣文センモン・中部奈率チュウホウナソチ木刕眯淳モクラマイジュン・紀臣キノオミ奈
ご訪問ありがとうございます。欽明2年からは「第1次任那復興会議」と呼ばれる国際会議が始まります。ところがこの記事、「日本書紀」は神功皇后以来、日本が三韓を支配していた前提に立っているのに、実際は金官国や安羅国あたりを本拠にしていただけと見られ、しかもこの記事自体が用字から「百済本紀」を元にしていると考えられるので「日本書紀」バイアスと「百済本紀」バイアスがかかっていて、真相解明にはめちゃくちゃたいへんです。しかも肝心の「三国史記」(韓国の現存する最古の歴史書)の成立が1145年、「日
ご訪問ありがとうございます。「欽明天皇紀」ここからいよいよ国際関係ですが、この頃の東アジアを見ておきましょう。目次南朝の隆盛百済聖明王6世紀の任那南朝の隆盛Wikipediaより当時の中国南朝は、三国時代(卑弥呼の時代)の呉から、薹與トヨが遣使した晋シン(西晋⇒東晋)、倭の五王が遣使した宋ソウ(南宋)の後に斉セイが起きますが南朝斉の皇帝東昏侯トウコンコウの暴政で一族の蕭懿ショウイが殺害されると、弟蕭衍ショウエンは501年に荊州で挙兵し、首都建康に進撃して東昏侯や側近を
ご訪問ありがとうございます今回は后妃と皇子女になりますが、けっこう大勢いるので(^^;)ささっと見てwただ2章目では、大伴金村が失脚しますので、(これは教科書レベルということで)ご留意いただけたら、と思います。目次石姫皇女の立后磯城島金刺宮大伴金村の失脚欽明天皇の妃と皇子女妃堅塩媛の皇子女妃小姉君の皇子女その他・まとめ目次を開く石姫皇女の立后元年春正月庚戌朔甲子、役人たちが皇后を立てるようにお願いしたので、「正妃で仁賢天皇の皇女である石姫を皇后とする。」と仰せになった
ご訪問ありがとうございます今回は欽明天皇の治世が長いので、登場人物の世代をできるだけ確定しておきたいと思います。何で?こういう面倒なことをやるかと言うと(;^_^A前の「飛鳥の夢」というシリーズで、この時代を書いたときにこの人こんな若かったんや~💦とかこの人以外後継者なかったんや~💦など、いわゆる「一般的イメージ」とずいぶん違うぞ(-""-;)みたいなことがめちゃくちゃあってそれは子供向けの歴史マンガから、学術論文に至るまで‼️広範囲に及んでいたのです( ̄▽ ̄;)それをき
ご訪問ありがとうございます。今回から欽明天皇、32年にわたる治世です。父継体天皇ばかりか息長オキナガ一族母からは雄略天皇と和珥氏、葛城系皇統の血を受け継ぐ、ハイブリッドな天皇の誕生でした。これ以降の天皇は全員欽明天皇の皇子の血統になり、まさに天皇家の祖というにふさわしい位置にあり、皇后石姫もまたハイブリッド皇女で、さらに尾張氏という継体天皇の後ろ楯となった氏族の血も引いていました。異母兄の安閑・宣化朝には屯倉ミヤケの整備も進み、「大王」を中心とする「大和朝廷」の形がようやく見え始めて
人には忘れられないほどの視覚的な衝撃を感じるときがあるらしい。私にもあった。高校生のとき、映画『スターウォーズ〜新たなる希望〜』を映画館で観た。これはスターウォーズシリーズの記念すべき第一作である。その冒頭、くだんの華々しいメインテーマの音楽に乗って、スクリーンいっぱいに広がる宇宙空間の一角から、巨大な物体があらわれ、やがてそれが巨大な宇宙戦艦だということに気づかされた。巨大戦艦がスクリーンをゆっくりと満たして、延々とつづくその艦底部がスクリーンを覆い尽くしていった。とにかく衝撃的だ
以前にも下記のように考察していますが・・現在の皇室と天照大神(豊玉姫・卑弥呼)・宇佐王家との関係について『現在の皇室と天照大神(豊玉姫・卑弥呼)・宇佐王家との関係について』現在の皇室と天照大神(豊玉姫・卑弥呼)・宇佐王家の関係、繋がりについて改めて考えみます。蘇我王朝が、現在の皇室に繋がるのは、旧東出雲王国の富家から蘇我家へと…ameblo.jp八幡神社の総本社は、宇佐神宮になりますが、宇佐神宮の創祀は、第二次物部東征途中、安芸の宮島で亡くなった豊玉姫命(卑弥呼・天照大神)を
長門市俵山温泉の西の方にある一位嶽(一位ヶ岳)は、かつて仲哀天皇に柊など祭祀のものを奉ったところとて一位の位を授かったといい伝えられる。標高七〇〇メートルばかりの形のよい山である。第二十九代欽明天皇の御代のこと、国土平安鎮護のため「神上寺」を建立されるということになったが、さてその建立にふさわしい候補地をめぐって、一位嶽山麓の住民と、仲哀天皇殯葬地といわれる華山(豊浦郡豊田町)山麓住民との間に激しい争いが巻き起こったという。その結果、さまざまな曲折を経て、神上寺は華山に建立されるこ
今の皇室は、実は出雲王国の末裔である大江家の血筋にもあります。大江磐代(おおえいわしろ)が、閑院宮・典仁親王(東山天皇→直仁親王→典仁親王)の側室となり、もうけた皇子が、光格天皇となって、以後、仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇と今上天皇まで男系が続いているのであります。大江氏には二流あり、いずれも東出雲王国の登美(富)家の流れとなります。登美(富)家・本家・・野見宿禰→土師氏→大枝諸上(諸土)→大枝本主→大江音人(大江家)磯城登美(富)家・・磯城県主→中原家→大江(中原)広元
…の占いにより、賀茂神の祟りと分り、飾り馬に葵・鈴を付けて五穀豊穣を祈った事とされる。どの天皇の御世の事か?欽明天皇は、第29代天皇で、539年から571年まで在位。継体天皇の嫡子であり、母は手白香皇后。『日本書紀』では「仏法を信じて、神道を尊びたまふ」と評されており、仏教を信仰したことが特徴です。外戚の蘇我氏の影響も大きかったと推測され、彼の治世は、日本における仏教受容の初期段階と深く関わっている。古代の欽明天皇のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が流行し、天
明徳3年(1392)、南朝の亀山天皇が京嵯峨野の大覚寺に入り、北朝へ三種の神器を渡して南北朝という皇統分裂状態は解消されました。しかし、一本化された天皇家の前に、ある「モンスター」が立ちはだかります。室町幕府3代将軍の足利義満です。本ブログで過去に書いたテーマですが、再検証してみたいと思います。天皇家が「万世一系」であるという考え方には疑問符がついていますが、少なくとも日本では六世紀に即位した欽明天皇から現皇室に至るまで天皇家は血縁的なつながりを保っていたと考えて
2025-10-18懿徳(いとく)天皇陵地図の説明では第4代天皇安寧天皇の第2皇子欠史八代の1人お仲間さんが何人かいたので、少し安心しましたとっとと次に行きます次のスポットは順番が逆になったけど、第3代天皇陵だ安寧(あんねい)天皇陵地図の説明第3代天皇欠史八代の1人綏靖天皇の皇子ここまで、即位順に、神武→綏靖→安寧→懿徳と4人の天皇陵を歩きましたトコトコ〜高取川沿いを歩きます歩いているとこちらで写真を撮ってるお仲間さんが、「古墳群がありますよ」と教えてくれました