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「棺掛椎(かんかけのしい)」の後ろに、古宮の社(やしろ)があった昨年(2022年)11月3日の西日本新聞に、「香椎宮の明治期再建活動巡る資料」が東京の古書店で発見された、との記事が載っていた。発見された資料とは、香椎宮の楼門や廻廊を再建するための財政支援を国に求める活動資料だった。明治31年~32年(1898~1899年)に、当時の香椎郵便局長だった森禎次郎氏や香椎宮禰宜の木下美重氏(現在の権禰宜・木下英太氏の曽祖父)らが中心となっって資料を整え、代表団が上京した。東京の古書店
仲哀天皇・神功皇后が熊襲と戦った場所に、斉明天皇が朝倉宮(行宮)を造営した。その共通点は?「斉明天皇の朝倉宮と仲哀天皇の橿日宮①」の続きです。●=橿日宮●=朝倉宮●=磐瀬宮14代仲哀天皇崩御の後、天皇の意を継いだ神功皇后は大臣の武内宿禰と共に熊襲を征伐し、その足で朝鮮半島へ出征して三国(高句麗・百済・新羅)と国交を結んだ。また伽耶に貿易基地として任那(みまな)府を置いた。西暦372年、百済国王から神功皇后へ同盟記念
こんにちは、スタルペスです。福岡県古賀市の「船原古墳」のすぐ近くに、「小山田斎宮」があるので立ち寄ることにしました。この神社は、日本書紀にも記されている斎宮で神功皇后が橿日宮(かしひのみや)で崩御した仲哀天皇を祟った神の名を明らかにしようと小山田邑に斎宮を造らせたと言われるものです。※小山田斎宮参道の社叢(イチイガシの自生地)物語は少し長くなりますが、仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征討のために筑紫(九州)に来ます。※小山田斎宮の石標しかし、妻の神功皇后に神が降りてき
こんにちは、神社伝書びと守本です。香椎宮の続きですよ。(※今回の記事は、私が仲哀天皇さまについて個人的に感じたことを書いており、何ら証拠に基づいているものではありません。)さて、本殿や竹内神社などにご参拝したあとは古宮に向かいました。上の写真の門を出たところに摂社、巻尾神社があります。下の写真が、巻尾神社。「巻尾」という名の由来が気になりますが今のところわかっておりません。ここにお祀りされているのは、中臣鳥賊津大連命さま。(なかとみのいかつおおむらじのみこと)