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3月23日(月)JR奈良線を玉水駅で下車。玉川沿いの桜並木(まだまだ蕾でしたが)を歩いて、30分ほど。地藏禅院に。ここは、桜の名所として知られていて。玉川沿いの桜が、まだまだ蕾であり、期待がしぼみながら、来たのですが。しかし、およそ駅から30分ほど歩くと、目の前に、うすい桃色に色づく桜の木々が、目の前に。地蔵禅院、創建は未詳。廃寺となっていたところを、曹洞宗の物外麟応が中興開山。本多忠政の正室妙高院を壇越として、再興。桜の名所として知られていて、なかでも、樹齢約280年のシダレザク
藤原不比等と橘三千代を起点として、藤氏橘氏の系譜を奈良時代から平安時代中期にかけて辿ると共に、桓武天皇を起点として、皇族平氏源氏の系譜を合わせてきた。これらの系譜は、娘の婚姻により織り成す布のようなもので、各札の上位が母、下位が子を表し、父系(橘三千代だけは母系)の色違いで区分された領域に、札の母を配置することで表現されている。この構成では、藤氏12代・皇族10代にわたって、330の札がコンパクトに配置されている。札の構成は以下の通り。上位の□枠:母下位の□枠:子
ー茶碗作りとは別テーマ、ご容赦くださいーNHK大河ドラマ『光る君へ』では藤原姓の登場人物が多過ぎて非常に悩ましいが、その家系をさかのぼれば、行きつく先は同じ。その元から藤原氏栄花の頂点と云える道長の世に至る迄、皇族・橘氏・源氏・平氏を交えながら家系図を面白くコンパクトにまとめてみたい。その元は、藤原不比等(フヒト)。その子孫のみが藤原姓を名乗って、太政官の官職に就くことができた経緯による。その父中臣鎌足も藤原姓を授かってはいたが、一代限り。よって不比等は藤原氏の実質的な家祖
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそまたまたブログ記事のアップがマイペースで申し訳ありませんそんな中でもいつも閲覧してくださったり、「いいね!」してくださっている読者の皆様には感謝の気持ちでいっぱいですいつもありがとうございます心の負担を感じることなく、継続して書き続けたいと思っているので、記事アップの遅さにはご容赦とご理解いただけたら幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします今日も前回に引き続き、『光明皇后』の続きです安宿媛が阿倍内親王を産んだ後、父不比等が死去し
日本初の立太子・草壁皇子の夭折後、52歳超人持統天皇、36歳ぼんやり阿閉皇女(あへこうじょ・後の元明天皇)、32歳県犬養橘三千代、この女三人が大議論いかがすると仰せになりましても叱られてばかりの阿閉皇女あたなは、人の話をろくに聞かぬお人ねなにをうかうかとしておいでかあなたには、ご生母としての自覚が足りない。今少しお心を用いられよいつ何時、どのようなお働きをなさることになるやもしれない。そのお覚悟がおありか?おお怖っ女帝斉明天皇仕切る戦艦に乗り込み、筑紫の地で出産までした持統天皇
ご訪問ありがとうございます。さて神亀元年(724年)、藤原氏の血を引く聖武天皇が即位し、口分田不足のため三世一身の法などが長屋王のもとで行われます。このバックには元正上皇がおり、房前もまた内臣として天皇と上皇を支える立場にいました。そして、いよいよ奈良時代前期最大の政変である長屋王の変なのですが、ざっくり説明しますと(コトバンクより引用)奈良前期,天武天皇の孫で,高市(たけち)皇子の第1皇子である長屋王(684〜729)が謀反の疑いで自殺させられた事件。長屋王は聖武天皇即位とと
藤原不比等が異例の出世を遂げたのは、持統天皇に重用されて、引き立てられたから、です。不比等は鎌足が相当の歳になってからできた子で、壬申の乱のとき鎌足はすでに死んでいますが、まだ不比等は幼い子供でした。なので近江朝滅亡後は親戚の田辺氏のもとでひっそり?育てられました。ちょっと遠回りになりますが、天武朝とは何か、って話をします。いわゆる大化改新、天智天皇の進めた急速な「中央集権政策」は、実は豪族たちの反発を買っていました。そこで、豪族たちに担がれてる形で挙兵して天下を取ったのが天武天皇
ご訪問ありがとうございます。先月末からエアコンが止まるわ、洗濯機がキュインキュインと鳴り出すわwヤマダ電機に3回も通いました😵💦おかげで不比等どころでなくてたいへんです≡≡≡ヘ(*--)ノどちらも待ったなしの家電なのでしかたないとはいえ、わずかな時間差で壊れるとめんどくさいですねー>_<さてさて、落ちついたところで今日は不比等の女性関係について見ていきましょう😊不比等といえば前回の「眉月の誓」に何人かの女性が出てきましたが、昔の権力者ですから奥さんも多い。最初の正室は蘇我娼子と
法相宗(ほっそうしゅう・ほうそうしゅう)の大本山とされる興福寺(こうふくじ)です。五重塔は、奈良のシンボルでもあるようですね。飛鳥・奈良・平安と政治の実権をにぎった藤原(ふじわら)氏の氏寺だったといいます。藤原氏の始祖といわれる中臣鎌足(なかとみのかまたり)が病気を患ったさい、中臣鎌足の妻・鏡女王(かがみのおおきみ)が回復を願って、669年に京都・山科に築いた山階寺(やましなでら)がはじまりだそうです。しかし、この年にあえなく鎌足は亡くなったといいます
奈良公園東大寺エリアを離れ国立博物館を経ててくてくと・・・今回旅の目的の一つ『阿修羅に逢う事』のため興福寺へ向かいます。法相宗大本山『興福寺』興福寺について-法相宗大本山興福寺www.kohfukuji.com一目散に国宝館へ・・・今回も、展示レイアウトの変わった館内圧巻5メートル級の千手観音菩薩立像に見とれふと振り返るとじっと私を見つめる”阿修羅”(〃艸〃)なんてne.(笑)↓館内は撮影禁止のためネットよりお借りした阿修羅像の写真です
本来ならば、法隆寺を語るのには、厩戸王(⇒聖徳太子)とか、その父の池辺皇子(橘豊日命⇒用明天皇)とか、その同母妹すなわち厩戸王の叔母にあたります額田部皇女(豊御食炊屋姫尊⇒推古天皇)のことを先に語らなければならないかと思います。※古代の「大王」の呼び方は難しいです。「天皇」の称号は、7世紀の前半にはまだありません。ましてや、聖徳太子とか用明天皇とか推古天皇とかの“諡号”は、お亡くなりになって100年以上経ってから“おくられた”ものです。もし仮にタイムマシーンに乗って7世紀はじめに行き、運よく
箙かおるさん。ラストショーが終わった頃ですね。突然の退団発表。定年なんでしょうか。残念です。今の専科さんたちは以前(私ががっつりどっぷり宝塚大好き生活を送っていた中学生くらいの頃)に比べると層がかなり薄くなってきていますし、定年制度がある限りこれからもしばらくは続々とご卒業が続きそう。組の層の薄さもですが、専科さんの存在ってやはり大きいので、退団はさみしいし残念です。なんで定年なんかあるんや。舞台人にも俳優にも定年なんかないのに。でも、それが宝塚の決まりなら仕方ない。長年宝塚
奈良に向かう前にNHKで光明皇后が1歳で亡くなった基王を阿修羅像他4体が少年像である事から、反映したんじゃないか⁈とやっていたのを見た♡耐震強化工事のため国宝館休館中のため国宝特別公開中につき向かいました✨奈良初めてで…教科書に載ってた興福寺五重塔は思ってたより大きかった✨奈良に行く前に昔よんだ蘇我入鹿や額田王他は捨ててしまい橘三千代さんの本を読み返し始めたら…その次の日にNHKで阿修羅像の事を見た光明皇后が1歳で亡くなった基王の姿を阿修羅像他に投影したと言う光明皇后