ブログ記事28件
昨年夏ころブロ友のコトラーさんの「静嘉堂文庫美術館」記事を見て、また雑誌サライにも載っていたので行ってみたいと思っていた。美術館が入った明治生命館は重要文化財であるが江戸時代は常火消屋敷があったところで歌川広重が生まれ育ったところだったのです。馬場先御門のこちら側に「火消与力組屋敷」と、奥に薄く「明治生命館」と読めますこの案内板の中の「現在地」にも注目してください。十日ほど前やはりブロ友(勝手に呼ばせていただきますが)のtsubomiさんの記事を見て、ぶらり行って来ました
「吉田博木版画の100年」からの続きである。入口を入って、外を眺め、最初の展示コーナーは日本画である。とても豪華なラインナップだった。「琴棋書画」橋本雅邦明治15年(1882)下の方の女性は、硯から墨を池(?)に流しているような。水が黒くなっている。「富士の巻狩」菱田春草明治35年(1902)解説パネルによると、「巻狩」というのは「獣を四方から取り巻き、追いつめて捕らえる狩猟方法」だそうだ。「椿」小林古径
こんにちは静嘉堂文庫美術館『ハッピー龍イヤー』を拝見してきました。これでもか!というぐらい龍・龍・龍です。静嘉堂文庫が誇る所蔵品の龍がいっぱいです。▲チラシ表■トークフリー!今週末で終了する企画なので恐縮ですが、29日をえらんだのは、特別な日だったからです。この日は「トークフリーデー」で、「普段ご遠慮いただいている展示室内での会話が自由にできる日」として、入館いただいた方、どなたも作品を御覧になりながら、友人、家族と自由に話せるものだったのです。学芸員さんの列品解説もあり
2024年1月18日“ハッピー龍イヤー~~絵画・工芸の龍を楽しむ~”(静嘉堂文庫美術館)あまり期待せずに行った割には、けっこうな時間をかけて拝んできました。それにしても岩崎家のお宝ってどれだけあるんだよ。無尽蔵か。◆【摩尼宝珠図】(部分)鎌倉時代14世紀龍王の頭から出た宝珠3つが楼閣の中に。左右の龍がそれを奉っている◆褐釉絞胎龍耳瓶唐時代8世紀◆紺地龍”寿山福海”模様刺繍帳(部分)清時代19世紀皇帝の象徴・五爪龍とともに吉祥の意
静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)で開催中の「ハッピー龍イヤー!〜絵画・工芸の龍を楽しむ〜」展へ行って来ました。想像上の動物である「龍」は、古代中国で誕生しました。天に昇り。雨を降らせるなど様々な力を持つとされ、強さや権力を象徴する龍は、吉祥図様として、東アジアの絵画をはじめ、数多くの工芸品に取り上げられています。中国の「五行思想」とも結びついた龍は、四神の中で東方を護る青龍となり、西方の白虎と”玉環”を取り合う図様も多く認められます。これは陽(東方)と陰(西方)のバランスが取れてい
「2024,1,2博物館に初もうで、呉昌碩」トーハクその2は、辰年特集などなどです。狩野栄信(ながのぶ)→狩野養信(おさのぶ)→狩野雅信(ただのぶ)→狩野芳崖・橋本雅邦(栄養雅な、ながおさただのぶ、橋本雅邦)918年高麗王建(来ては、こうらい、行っておうけん)1392李氏朝鮮李成桂(いざくに建てんと、李成桂)その3に続きます。
泉屋博古館東京で開催中の「特別企画展日本画の棲み家」へ行って来ました。明治時代における西洋文化の到来は、絵画を鑑賞する馬に地殻変動をもたらしました。展覧会という制度が西洋から輸入され、かつて床の間に飾られていた日本絵画は、床の間という「棲み家」がありながらも展覧会場を新居に定めました。展覧会という場で鑑賞されるようになり、気が付けばすでに床の間という場には相応しくない「かたち」へと変貌していました。一方、泉屋博古館に収蔵されている日本画は、それと逆行するように邸宅を飾るために描かれ
息子から招待券を送ってもらい、友人たちと出かけた。住友本家の書院の床の間を飾った絵画と調度。展覧会のための大作と対極をなす床の間の軸たち。それに合わせて飾られた香炉や陶器。実に日本的な内側に凝縮していく芸術。広い書院に飾られた堂々たる屏風。実に楽しい展覧会。たくさん所蔵している木島櫻谷の雪中梅花屏風の潔さ。デコラティブな作品と全く違う宮川香山の倣洋紅意窯変花瓶の鮮やかな赤。白玉香炉の清々しさ。取り合わせの妙を感じさせてくれた。茶臼山本邸の平面図もあったので、この屏風は書院
山種美術館で開催中の「特別展日本画に挑んだ精鋭たちー菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へー」へ行って来ました。近代以降の日本画の歴史は、時代に相応しい絵画を追い求めてきた画家たちの歴史でもあります。明治時代に入り、西洋文化を取り入れつつ社会の近代化が進む中、画家たちは西洋画に匹敵、あるいは凌駕する日本の絵画を生み出そうと努めました。戦後には敗戦の影響も受け、それまでの日本画に対する価値観が社会的に問い直されて、「日本画滅亡論」を唱える声も出るようになります。画家たちは強い危機感と
洋館の西側通路でつながっている・・・和館畳廊下を坪庭を連想させる小庭書院造りを基調にし完成当時は建坪550坪に及び洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていたそうですが・・・現在は、洋館同様冠婚葬祭などに使われた大広間の1棟だけが残り床の間や襖には、幕末から明治時代にかけて活躍した狩野派絵師、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画など障壁画が残っているそうです和館の施行は大工棟粱として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた大河喜十郎と伝えられています
静嘉堂文庫美術館で開催中の「明治美術狂想曲」展に行ってきました。江戸幕府が倒れ、西洋文明が流入した明治時代は「美術」が産声を上げた時代でした。「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築やファッション、油彩画が普及、博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代でした。一方で、社会の急激な変化は「廃仏毀釈」といった伝統文化軽視の風潮も生み出しました。本展では、明治時代の美術を取り巻く社会の変化、作品の変容を「狂想曲」と見立て、静嘉堂所蔵の明治美術を中心に展観します。現代でも色褪せ
橋本雅邦(1835~1908年)といえば、明治時代に、岡倉天心とともに日本美術院を創立した日本画家です。その橋本雅邦について、こんなエピソードが残っています。ある日のこと、自宅にいた雅邦が、大声をあげて奥さんを呼びつけました。「おい、あの植木屋は今日限りで断ってしまいなさい!」「なぜでございますか。長年、この家に出入りしておりますのに・・・」「あの男は、職人としての腕は確かかもしれん。しかし、あれには仕事に対する責任感が欠けている」「私にはそんなふうに見えませんが、あの職人のどこがいけ
高崎市タワー美術館で開催中の「知る。楽しむ。」展に行って来ました。作品をみるとき、どこに注目すれば良いのかよく分からない方も多いのでは。本展は収蔵作品をモチーフごとに展示し、鑑賞ポイントを紹介することで、作者の感性や物の見方に触れることを目指すものです。最初のセクションでは風景で、水の表現の楽しみ方と余白の楽しみ方が紹介されています。水は流れや波は線によって表現され、筆さばきが動きの速さを表現しています。静謐な水面は鏡のように周囲の光景を映し出します。作者が水に託した想いや感
山崎美術館公益財団法人山崎美術館橋本雅邦画伯橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。依って、郷土川越の有志が集まり、明治32年(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管…www.koedo-kameya.com旧山崎家別邸のすぐ近くにあります橋本雅邦画伯の作品が多く収
西行の受容の広がりに圧倒された特別展「西行―語り継がれる漂泊の歌詠み」展。平安時代生まれの西行が、鎌倉・室町・江戸時代にわたり、様々に形を変え、参照され、書に記され、絵画や物語の中に埋め込まれていった様子が一望でき、その時代を超えた存在感はまさに圧巻でした。今回展示に昭和のものはないけれど、現代においてもなお威光は消えていません。辻邦生さんは「西行花伝」を著しましたし。作品の広がりがこうして概観できるのは、様々な美術館から鋭意関連資料をかき集めた五島美術館の努力のたまものと
6月25日(土)は宅急便でコープに家内が依頼した(鉢植えセット)が届き、11時頃に家内と一緒に「かめさん公園」の「百村朝市」を覗きに行けば、猛暑日が続きお客さんが少ないから、たくさんの新鮮野菜が残っていたので重たい(カボチャ)600円、(きゅうり)1袋150円×2袋、(万願寺唐辛子)150円、(じゃがいも)150円、枝豆の(湯あがり娘)150円を買ったんです。そして以前から気になる(サルスベリ)の様に木肌がツルツルしている木に、白い花が咲き風が吹くと落ちているので、スマホ「Googleレンズ
大智勝観の梅と蓮勝観は、日本美術院の再興に参加し、小林古径と共に推挙され、のちに日本美術院の発展に尽力。横山大観風の画風で軽妙な趣を感じさせる作品を描いた。岸竹堂の虎今尾景年の鷲猿景年は、京都生まれ、浮世絵師梅川東居に師事し、のちに鈴木百年に四条円山派の画風を学んだ。写生を重視した花鳥画を得意とした。精密な花鳥画を描いた。橋本雅邦の竹林猫松林桂月の玉蘭に雀野口小蘋の春秋山水五姓田芳柳の勿来関曾山幸彦の試鵠曾山幸彦は、工部美術学校に入学し、サン・
○小笠原長生1867-1958海軍中将(左)○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。○昭和4年実業の日本社刊○川村清雄1852-1934○初代新潟奉行旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳川宗家より留学生
○小笠原長生1867-1958海軍中将(左)○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。○昭和4年実業の日本社刊○川村清雄1852-1934○初代新潟奉行旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳川宗家より留
○小笠原長生1867-1958海軍中将(左)○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。○昭和4年実業の日本社刊○川村清雄1852-1934○初代新潟奉行旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳
○小笠原長生1867-1958海軍中将(左)○東郷平八郎海軍大将・元帥(右)○小笠原は海軍退役後、東郷平八郎のスポークスマンとなり、政治的な動きにも加わりました。没年が昭和33年ですからついこのあいだまで生きていたという感覚を私は持ちます。この頃まで日本海海戦参加の士官が生き残っていたということです。○昭和4年実業の日本社刊○川村清雄1852-1934○初代新潟奉行旗本川村修就の孫、江戸城明け渡しの時、徳川宗家、徳川亀之助(後の家正)に従い小姓役を勤める。のち徳川宗
2月28日(日)に広尾の山種美術館へ川合玉堂ー山崎種二が愛した日本画の巨匠ー開催中の展覧会-山種美術館1966年に日本初の日本画専門の美術館として開館。2009年渋谷区広尾に移転。近代・現代日本画を中心に、古画、浮世絵、油彩画、6点の重要文化財を含む約1800点を所蔵し、年5~6回の展覧会にて順次公開しています。創立者・山﨑種二の「美術を通じて社会、特に文化のために貢献する」という理念を受け継ぎ、理想的な環境づくりと質の高い展覧会を通じて、日本画の魅力を発信…www.yamatane-
岡倉天心と橋本雅邦が組織した日本美術学院の事業に「有望画家の留学」という事業があり、その第一号に選ばれたのが安田靫彦画伯。当時23歳。2年間の奈良への留学で法隆寺や奈良に遺された古美術などに接し、展覧会などへの出展に大きな勉強の場となりましたが、奈良の寒気は安田画伯の健康を害し、療養を余儀なくされてしまいました。新井旅館三代目相原寛太郎(雅号:沐芳)の勧めで明治42年の5か月間を新井旅館で療養し、その後94歳まで長生きをされた日本画家「安田靫彦画伯」。新井旅館での療養を終
ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、先週月曜日にアップした記事の続編、東京都台東区池之端の『旧岩崎邸庭園』(和館)をテーマにします・・・敬称略。先週月曜日の記事ではジョサイア・コンドルが設計した洋館をご紹介しましたが今日は洋館に隣接する和館をご紹介します。洋館の西端にはステンドグラスが鮮やかな通用口があり
明治43年5月9日の「安田靫彦画伯からの手紙」4枚目の読み下しです。3枚目の最後は、雅邦期ここから続きます。以後のしかも新派の急先鋒の大家としては物足らず存候(然しこは多く人物画に於て)乍然追々にこれ丈の作品をしかもそれぞれ合畜浅からざるものを作られ候事、実に敬服欽羨に不堪所又我等後進の感謝すべき事に御座候。観覧者及其会員の多くは日本橋武の人士なるも意外に候。柿沼氏佐竹永邨翁等も見受け候。例の近藤氏の観覧後の所感面白く候ひし。只今御葉書着。原氏は御宿所
川越散歩、中院、喜多院と歩き、うなぎをしっかり食べて、いよいよ、初めて入る、川越「山崎美術館」に行ってきました。こちらは、川越藩のお抱え絵師・橋本雅邦のコレクションが中心の美術館で、2か月に一回展示替えがあるそうです。橋本雅邦は、「絵画は専ら心を表現するもので、写実を第二義とし個性を尊重すること」を力説されていたそうです。そんな橋本雅邦作品、この日は、5作品が展示されていて、どれも、静かな奥深い作品でした。橋本雅邦作品のほかには、女流画家の野口小蘋(し
旧岩崎邸庭園・・・岩崎彌太郎の長男で三菱第三代目社長の岩崎久彌の本邸だった建物と庭園を公園として整備したもの。岩崎邸は明治29年(1896年)に造られ、現在の公園の3倍の広さを有し、敷地に20棟の建物が並んでいたそうです。戦後にGHQに接収され、その後、日本へ返還。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が重文に指定。昭和44年(1969年)に和館大広間と洋館東脇の袖塀が、平成11年(1999年)に敷地全体と実測図が追加指定。平成13年(2001年)に東京に移管、都立公園として開園。
11月13日(水)は、東京藝術大学デザイン科「アート&デザイン」(押元一敏先生)の授業に呼ばれて、毎年恒例となった、「金唐革紙特別講義」を開催いたしました。金唐革紙(きんからかわし/国選定保存技術の手製高級壁紙)を実際製作した経験を持ち、その製法を詳しく知る人物は、現在ほんの数名(3名程)しかいません。その中でも私は、学生時代から約12年間、日本画制作のかたわら、金唐革紙製作にも打ち込み、現代作家の中で最も多くの実質的製作にたずさわったのです。今では、日本画家・絵本画家としての顔以外
先月、旧前田侯爵邸へ行った時にみた杉戸絵を描いたのが橋本雅邦山種美術館で開催中の日本画のパイオニア大観・春草・玉堂・龍子こちらに展示されている横山大観、菱田春草らが在学した東京美術学校(現東京藝術大学)の日本画主任教授そして、今回訪れた川越で最初に入ったのが山崎美術館橋本雅邦は川越藩のお抱え絵師だったそうです地元川越の有志で作った画宝会の初代幹事が山崎家4代目の山崎豊翁山崎氏が尽力して雅邦の作品をできるだけ集めて保存につとめ、子孫に伝承し、美術館設立に繋がったそうです古い蔵の美
週末、東京藝術大学大学美術館の校内に入る機会がありました。・・・というか講演会が大学の講堂で行われた、ということなのですが。さすが天下の芸大。美術品がごろごろころがっています。講堂の前の長いすの向こうには、歴代卒業生の卒業制作作品なのでしょうか、神社の構造物模型とか古代人の住居跡とか想像力貧困の私にはどうイメージしていいのかわからないオブジェが忽然と姿を現していました。面白かったのは、教授の名札が屋外にズラリあったこと。アーティス