ブログ記事10件
はじめに………一年前の今日2022/06/29は畠山重忠役中川大志オールアップの日こみあげるものはあったんだろうけど小栗さんとの死闘のあと…こんな笑顔で\(^o^)/鎌倉殿の13人の放送中ドラマは頼朝が落馬していよいよ後半は……ドラマの真髄にと向かっていく時でもオタク的には『餅を丸めるのもお上手なんですね』の回でしたえ?見えないって?この餅が見えないのか?いや……失礼しましたエアー餅のはずもないこの前のどうする家康は一見いいお話からのえええ?でも考えてみれば
第十一話万寿さまが獲物を仕留められるように人は集まらずに散った方がいいと話したのに一夜明けたら皆忘れたのか万寿さまの元に集まり次々と口を出す御家人たちわからない人たちだと口走ってしまった間髪入れずに「お前も来てるじゃないかー!」小四郎だ……語気が強めだった確かに……北条家の婿の私にとっては義兄強気だと感じつつもその通りなので何も言い返せなかったそういえば……昨日私が仇討ちの企てを阻止すると言うと背中で義父上の褒める声が聞こえた「よくできた婿どのじゃ……」そんな
ちえの妹あきさんの橋供養鎌倉殿の到着を待たずに祈祷を始めた小四郎がそれでよいと言うので従ったのは私も感じるところがあったのだ近ごろの鎌倉殿はまず顔色が優れない……目に力が感じられない……よく眠れていないとのこと粛清された者たちの怨念だとか占いに頼っているところもあるらしい赤いものを嫌うあまり自分の孫の赤子でさえその手に抱くどころかろくに見ようともしないとかここに来るのにも小四郎と離れたほうがいいとか方角を気にしてまわり道するとか後々義盛殿も言っていた訪ねてきた鎌倉殿と
万寿さまが明日こそ獲物を仕留められるように人は集まらずに散った方がいいと話したのに一夜明けたら皆忘れたのか万寿さまの元に集まり次々と口を出す御家人たち小四郎だ……確かに……北条家の婿の私にとっては義兄強気だと感じつつもその通りなので何も言い返せなかったそういえば……昨日私が仇討ちの企てを阻止すると言うと「よくできた婿どのじゃ……」小四郎はどう思っていたのだろう……子供のころは何をしても私が勝っていたそれを悔しがる様子もなかったが大人になると変わるのだろうか加えて鎌
ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、東京都江東区木場の『新田橋』です。最寄駅は東京メトロ東西線『木場』。駅近くを走る三ツ目通りに架かる平木橋から東の方を見ると朱塗りの小さな橋が見えます。水面に映る影が美しいこの橋が新田橋(にったばし)です。護岸は両側とも閉鎖されていますので川伝いに行くことはでき
橋供養寛保3年~天保3年(1743~1832)まで、この周辺は「境川」を境に松川地域は幕領、安達地域は二本松藩領でした。そのため、戦略上の理由で丈夫な橋を架けることが許されず、住民は木橋で行き来していました。しかし、川の増水で橋が流されたり、板が抜け落ちたりと住民の苦労が絶えなかったといいます。幕府、二本松藩のどちらかが許可したかなどの経緯は不明ですが、文化年間(1804~1818)に丈夫な橋を架けることを許され、八丁目、鼓ヶ岡、天明根(松川)、吉倉(安達)の各村で人夫などを出し合い、
元禄14年1701年建立山上城跡や隣の常広寺を訪れようとして向かう途中近くでみつけました大きな石碑なのでなにかな?と思いましたが橋の供養塔ですなんとこの石材は東南約500メートルの所にかつて在った"愛宕塚古墳"の石室の石材を利用しているそうです。。蕨沢川は大雨が降れば氾濫して水害が起こりました元禄14年石橋をかけることに成功。その竣工を記念して建てられたもの。1701年です文字がしっかり彫られ綺麗に残っています。この向かい側には。。左:
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその105第26回悲しむ前に・・・と言うより第25回絡みかなぁ・・・今回は、頼朝(大泉洋)の死に関わった稲毛重成(村上誠基)が架けた橋について(現在のものは複製されたもの)第25回『天に望まれた男』の『紀行』で取り上げられた稲毛重成が1198(建久9)年に架けた橋。関東大震災の余震で地中から出現した木の柱の数々が、国指定の史跡となっていると紹介された。頼朝の死に関しては謎が多いが、この橋供養に出かけた帰りに落馬して、それが引き金となっ
第25回でよかったなと思うシーンがありますそれは『稲毛重成とあき』夫妻のこと時政パパ&りくさんの男児誕生に一族集合重忠がちえとの子どもを授かった報告をした時大姫が謎の行動を繰り返した時・・・とも言うそこで登場したきりだった2人今回の放送前に相関図を見ると既に故人のマークがついていたあき(義時の妹)病弱だということだったけどいつの間に・・・?ナレ死にもならずに❔いつの間に😭そう思っていた数日(史実では知っていてもね😞)でも・・・よかったみんなに供養してもらえたねあき
本日のお題は下記を読んでいないと理解不能です。レバドン。(8千字あるお話です)https://ameblo.jp/tukuru41/entry-12614633800.htmlうらぶれた姿の菜簾未子(さいすみこ)と疲れ切っって、萎びれた濃とま代(こいとまよ)は橋の上から箸之介を投げ捨て手を合わせる。簾未子:ご苦労だったわね、とま代さん。とま代:はい、もう、脱水症で死にそうです。箸之介さん、丸焦げになったとは言え、長身で、それを私一人で、一人で、担いで
以前「橋供養塔」について書きましたが史跡の調査が好きな知り合いの方に「橋供養塔」の話をしたところ結構あちこちにあると言われその一つを訪ねて来ました。この「橋供養塔」は武蔵台5丁目、6丁目の方が買い物に行く山道の途中にあるとのことでした。その道の入口はこんな感じです。でこの山道をしばらく進んで行くとこの様な場所へたどり着きます。この巨木(?)の根方に目指す橋供養塔がありました。なんか神聖な感じがする佇まいです。三面六臂の阿修羅像かと思われます。横にはこの様
筆供養や針供養で供養塔を立てるのは良く見受けますが、先日こんなものを発見しました。(とは言っても、今までも道端にあったのですが)真ん中の新しそうな碑には、橋供養塔改修記念の文字があります。では、どれが橋供養塔なのかと良く見るとこちらには普賢菩薩橋供養塔の文字が!普賢菩薩橋。どんな橋だったんだろう?普賢菩薩とはどんな関係だったのだろう。謎は深まるばかりです。創価学会の施設の向かい側に、このお地蔵様は祀られています。大橋地蔵尊。このお地蔵様と普賢菩薩橋は、橋つながりのよう
前回まではこちら⬇️目次諸行無常の世の中…我は北条泰時(ほうじょうやすとき)が妹、竹子(たけこ)です。(泰時はこの時点で頼時(よりとき)と名乗っています。)1198年暮れ、源頼朝(みなもとのよりとも)様が落馬したとの報せを聞き、頼時は馬を走らせました。頼朝さんは御家人、稲毛重成(いなげしげなり)さんに招かれて相模川の橋供養式に出席して、その帰りに落馬したらしいんだ。相模川の橋脚のレプリカ頼時は頼朝様が倒れた場所に着くと現場は騒然としていました。「馬は鎌倉殿の愛馬だぞ、なのに…」