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ロシアのサハリン島を走る鉄道の線路幅が、日本統治下で敷設された時の1067mmからロシア本土の1520mmに全面改軌された。台湾のように日本統治期の鉄道を楽しむ風土は、過去のものとなった。歴史的に流刑地のサハリン島に帝政ロシアは鉄道を敷かなかったが、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南を手に入れた日本は、北方に備える新たな領土として鉄道の整備に着手。600mmの簡便鉄道から始めて、1067mmの狭軌の路線網をひろげていった。大泊から豊原(ユジノサハリンスク)を経て東海岸沿いに延びる路
鉄道マニア=「テッちゃん」にはよだれが流れ落ちそうな鉄道歴史博物館の日本統治時代の展示である。日本語とまでは言わないが、せめて英語の説明がロシア語説明に併記されていれば、少しはわかるのだが。統一感のない展示、だが豊原市街の古マップには興味なぜこんなものまで、といぶかしい展示もある。最近の朝日新聞だ。紙面を開いた所に、軌道付け替えの記事があった。おそらくウラジオ駐在の特派員がこの鉄道歴史博物館に取材に訪れ、その掲載紙を送ってきたのだろう。むろん博物館のスタッフは記事は分からない
バスで連れて行かれるだけだから、地理が全く分からない。僕たちが案内されたバザールがどこなのかも分からない。外に出て鉄道発見、位置を知るしかしバザールの外に出て、道路を見ると、交差点の左側の道の向こうに踏切が見える(写真)。僕たちが樺太鉄道に乗れなかったように(18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」、及び18年7月19日付日記:「樺太紀行(1);戦前40年間の日本統治時代の遺産を探して」を参照)、今、鉄道は運休
ユジノサハリンスクを北上し、ドリンスク(旧・落合)をさらに北に行ってバスが行き着いたのは、本来は宮澤賢治の乗った樺太鉄道で行くはずだった終点の旧・栄浜駅(スタロドゥープ駅)であった(18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」を参照)。賢治の降りたはずの旧・栄浜駅は何も無し詳細は、上記の日記を参照していただきたいが、ここには駅舎はもちろん、標識も看板も、さらに記念碑すらなかった(写真=何も無い旧・栄浜駅跡)。野草に覆われた
南樺太(サハリン)の旅の第3日。早朝に起床し、ホテルの部屋の窓から外を見ると、前日には見えた遠くの丘が全く見えず、雨が降っている。この日は、白鳥湖ワイルドフラワーの探訪が予定されていたが、前夜の予報どおり雨である。これは、本当は樺太鉄道で行くはずであった(18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」を参照)。ぬかるみの道を予想して登山靴同じホテルに同宿となったS旅行社のツアー一行は、前日の夕方に添乗員から明日の(すなわち今
今回の僕たちの旅の旅行社の募集した最初のうたい文句は、「フラワーハイキングとサハリン鉄道」だった。工事による全面運休を把握できなかった大失態ところが、サハリン(樺太)鉄道が6月からレール幅の改修工事で全面運休になることを迂闊にも旅行社が把握せず、出発直前の10日くらい前に「サハリン鉄道には乗れなくなりました」と言ってきた(18年7月19日付日記:「樺太紀行(1);戦前40年間の日本統治時代の遺産を探して」を参照)。ツアーの募集キャッチである2本柱のうちの1つが欠けるのは、もはや商
13日から17日、4泊5日で南樺太(サハリン)に行ってきた。旧豊原のユジノサハリンスクの同一ホテルに4連泊し、名目はワイルドフラワーハイキングだが、僕にとってかつて(1905~1945年)日本が統治し、樺太庁を置き、未開地を開拓した地を望見したいという願いからだ。樺太鉄道に乗れず残念僕の参加したツアーは、最初はワイルドフラワーハイキングの他にかつて宮澤賢治も乗った樺太鉄道にも乗る、ということだった。ところが旅行社の何という不手際か、6月から9月まで軌道敷き直し工事で全面運休中という報
考古講演会須玖岡本遺跡調査のあゆみ春日市ウェブサイト平成28年9月17日(土曜日)から開催する平成28年度考古企画展史跡指定30周年記念「奴国の首都須玖岡本遺跡展」の関連企画として、講演会を開催します。賀田山遺跡現地説明会(2016.8.27)配布資料公益財団法人滋賀県文化財保護協会2016.8.27実施彦根市賀田山町賀田山遺跡.今回の発掘調査では、現在の水田の向きあわせて平安時代から鎌倉時代の建物や溝、耕作痕が見つかりました。上谷遺跡養蚕関連墨書文字花見川