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吉田松陰は、この事を、金子重之助に黙ったまま、連れて行くのは、やはりできないと思い、金子重之助に告げる事にした。「実はな、金子君、君に言ってない事が、あるんじゃ」、「はい、何でしょうか?」、「驚いて、大きな声を出すじゃないぞ」、「はい、先生のやろうとする事では、もう、いちいち驚きません、言って下さい」、吉田松陰は、声を小さくし、「実はな金子君、ペリーの黒船に乗り込むのに成功したらじゃ、わしは、ペリーを・・・斬り殺すつもりじゃ」、吉田松陰は、ペリーを暗殺するつもりである事を知った金子
「横井小楠という人物」■朝日(20230730)「日曜に想う」というコーナーでは、郷土の横井小楠が大きく取り上げられています。なぜ、本県では、加藤氏や細川氏は取り上げられても、横井氏はとりあげられないのでしょうか、不思議でなりません。トップではないからでしょうか。私が思うには、権力に逆らう人だったからではないかと、考えているところです。記事内で、勝海舟はこう述べたと、紹介されていました。「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」「その思想の高調子
5月発行地名研ニュースレター「熊本乃地名」259号では、激動の維新から明治期の城下を探る「散策」を4月末に開催。地元児童も参加で大盛り上がり!120名超がグループに分かれ、地名研ガイドの案内を聞きながら散策…〈余談〉最近モートン病になり、足裏が痛ーい私(地名研運営委員)は途中離脱を表明していましたが、面白さに惹かれ、結局2時間程歩いて「城彩苑」まで随行。参加した子ども達は城彩苑で同行された校長先生からアイスクリームのご褒美!私は翌週、野球界のスーパースター大谷も使用しているらしい「衝撃波治療」
「「越前福井藩主松平春嶽」安藤優一郎著平凡社新書」明治維新と言えば薩長同盟と思われがちですが、大政奉還までは、薩越同盟とも言える薩摩藩と越前福井藩の連携が牽引したとも言えます。福井藩は、藩主松平春嶽の指揮の下、早くから藩の財政立て直しをするとともに富国強兵路線を推し進めてきました。その中心になったのは、橋本左内、三岡八郎(後の由利公正)、熊本から呼び寄せた横井小楠などです。春嶽は、徳川一門の大名でありながら、公論をキーワードに徳川家独裁の政治体制ではなく、挙国一致の国家造り
憲法記念日の5月3日、東京にて大25回公開憲法フォーラムが開催されました。(共催:民間憲法臨調、美しい日本の憲法をつくる国民の会)今年のテーマは、国難迫る―急げ、憲法に国防条項・緊急事態条項の明記を!有識者、各界・各党からの発表がなされました。基調提言は、ジャーナリストの櫻井よしこ氏がつとめました。その提言の中で、特に印象的だった箇所を以下に引用致します。―――――――――――――――――――――――――――――私はこの頃、先人たち
吉田松陰は、宮部鼎蔵に別れを告げ、熊本を出て長崎へ向かった。吉田松陰が去った後、宮部鼎蔵は、『吉田君、成功しろよ、死ぬなよ』と、心配な思いで、いっぱいになっていた。しかし、長崎に入った吉田松陰は呆然と海を見ていた。「遅かった、アハハハハハ」。長逗留しているはずのロシア艦隊が去って行ってしまった後だった。吉田松陰は悲しみのこもった笑い声を上げている、「どうして、わしのやろうとすることは、こんなにも空回りが多いんじゃ」、浜辺で海を見つめる吉田松陰を風が、強く吹く風が、吉田松陰の結ん
毎春恒例の「城下町歴史散策」を「維新と明治の偉人たちの町をさるく」と題して4月30日に開催しました。総勢約130名(小学生12名含む)は5グループに分かれ、各グループにガイド1名・サブガイド2名(一新まちづくりの会、壺川校区まちづくりの会、熊本地名研究会)が随行して熊本市内坪井・壺川校区周辺を2時間半ほど散策しました。「こんなところにこんな歴史の跡が!知らなかったぁ~」と皆驚きつつ、歩くにはちょうどよい天候の下、皆爽快な気分で散策ポイントを巡りました。コースは、壺川小学校堅山南風像に始まり、
熊本市東区沼山津に所在する市指定有形文化財、市指定史跡の四時軒(しじけん)、四時軒跡です。秋津川の右岸に所在します。説明板によると、幕末の開明思想家として知られた横井小楠の旧居です。安政元年(1854年)兄の時明が亡くなったために家督を継いだ小楠は翌年、城下からこの地に移り住み、四季の眺めを楽しむということから「四時軒」と名付けました。坂本龍馬もこの地を3度訪れたそうです。この旧居も明治時代に客間だけ残して焼失しましたが、諸記録に基づいて再建しました。その後、平成28年熊本地震で全
今春の地名研メンバーが案内する「城下町歴史散策」は『維新と明治の偉人たちの町をさるく」!4月30日(日)に決定。今回も『第19回熊本城坪井川園遊会』との連携行事として行います。9時熊本市立壺川小学校に集合~11時半桜の馬場城彩苑で解散。当日配布の資料準備のため、事前の申込(ハガキ・FAX・地名研運営委員に連絡)をお願いしています。■当日受付は8時40分~参加料:500円(保険・資料含)▶申込先:ハガキ:861-5533熊本市北区和泉町168-18FAX:096-245-5218
NYの街歩きの路上でよくポスターを買った。そんな何枚かが今も残り、デスクの部屋にも吊るしてある。お気に入りの一枚の主役は、イエローキャブ。背景は、ランドマークともいえるタイムズスクエアのノッポビルで、そこにはSUNTORYの広告が。毎日、何度も見ているポスターだが、今日は、このイエローキャブを別の意味で流行らせた女性作家を思い浮かべることになった。乗車拒否無し。誰でも乗せる日本女性をイエローキャブに例え、それを著したひと。日本の留学女性の尻軽
随分前の話になるが、英語圏のお客様と会食をした時のこと場所は丹巌洞という江戸時代の福井藩医の草庵だった料亭松平春嶽や橋本左内、横井小楠らが来ていたという歴史ある建物や庭園だった会食が始まり、しばらくした時のこと英国女性が「ぎゃーっ」と声をあげ一同👀‼️どうしたのかと思ったらσ(^_^;)?「わさび」を口に入れたことがわかった彼女曰く「ginkgo」だと思ったとのこと!つまり、好きな銀杏だと思ってわさびの塊を口に入れてしまったのが理由彼女は初来日だった説明不足を詫
熊本市東区沼山津に所在する横井小楠遺髪墓です。文化財の指定は受けていません。小楠公園の敷地内に所在します。説明板によると、明治2年1月5日に京都で暗殺された横井小楠は、京都南禅寺天授庵に手厚く葬られたそうです。この小楠公園の遺髪墓は、門人の岩男俊貞が持ち帰った遺髪を「飯田山の見える小高い場所に」というかねてからの小楠の言葉によりこの地に葬ったそうです。※写真は2020年9月撮影
↓結城秀康像当時忌み嫌われた双子で生まれた為(もう一人は生後間もなく死亡)、当初は家康から煙たがられたという。秀吉に人質(養子)に出されてから、彼の人生は大きく変わった事だろう。↓結城秀康像_顔拡大お顔拡大。何か、西洋人っぽいんですけど。↓神保悟志さんちょっと違・・・(笑)そんなに似て・・・ないか、ないね↓結城秀康公と福井城_説明関ヶ原の戦い時には、上杉の備えとして宇都宮城を預かった。もし上杉が関東遠征に動いていたら・・・家康にとっての彼は、ある意味捨て駒的に使われた存在だっ
熊本城包囲散策、続きです。行幸橋を渡って加藤清正像を見て、坪井川沿いの長塀通りを東へ。みごとな竹の丸を守る重文の長塀に感動!兵庫・明石城の長塀↓を思い出す。狭間がないのが特徴?、長さ240㍍あるという。右手の平御櫓まで、長塀は続く。平御櫓。厩橋を渡って城内へ、すぐ右手の高橋公園、ここにズラリ銅像が立ち並ぶ。左から、龍馬、勝海舟、中央に横井小楠、そして細川護久、松平春嶽。龍馬は海舟から勧められて横井小楠に会いに熊本へ来た。12代、最後の熊本藩主細川護久は
熊本県熊本市東区小楠公園日本の武士、儒学者。高橋公園、横井小楠記念館に続いて3体目の横井小楠像をみつけたのは、遺髪が埋葬されている小楠公園。銅像の下でたくさんの子どもたちが走り回って遊んでおり、ほんわかした気分になった春の土曜日。小説横井小楠[小島英記]楽天市場3,960円横井小楠幕末・維新人物伝(コミック版日本の歴史)[加来耕三]楽天市場1,100円横井小楠1809-1869(別冊『環』)[源了円]楽天市場3,080円
熊本県熊本市東区横井小楠記念館日本の武士、儒学者。歴史の授業ではあまり取り上げられないけれど、重要な出来事の裏には必ず横井小楠がからんでいる!記念館を訪れて以来、我が家では「よっこいしょういち」ではなく「よっこいしょうなん」と言うようになりました。横井小楠維新の青写真を描いた男(新潮新書)[徳永洋]楽天市場748円横井小楠の人と思想幕末に国家をデザインした男[田口佳史]楽天市場1,650円横井小楠道は用に就くも是ならず/沖田行司【3000円以上送料無料】
ことしは司馬遼太郎氏の生誕100年にあたる。そして1996(平成8)年に腹部大動脈瘤破裂で急逝されて、もうすぐ27年が経つ。20代以下の若者では知らない人も多いかもしれない。その司馬氏が五十路に入るころ、ある人についてこんなことを言っている。浮世を年を経て、ちかごろになってしばしば驚かされるようになり、ついにはこういう人間が自分と同じ民族の中に存在したのかという疑わしくなる思いで、その人を眺めるようになっている。司馬遼太郎NHKアーカイブス・NHK人物録よりその人の名は、勝
2023年1月1日日曜日晴れ今朝の比叡山です。朝食の白味噌のお雑煮を食べ、ゆっくり。息子と嫁さんが来るまで炬燵でウトウトする。10時前にやってきた。2番目の娘も来ました。嫁さんがおめでたで、みんなでお祝いです。孫4人になります。お祝いのケーキの写真を失念しました。お昼はおせちでした。我が家はおせちはこれ一回です。午後の比叡山です。午後は、ダイナコのヒューズの交換です。この段階ではOKでした。C4に繋ぐと再度、ヒューズが飛びました。原因は?考え中です。今日もべリーニを
正観さんによると…。(そ・わ・か~掃除・笑い・感謝で幸せになる~)●上級者の笑いとりあえずハハハと笑っておいて、笑い終わってから一緒に笑っていた隣の人に、「今のは何がおかしいんですか?」笑っていた隣の人が、「私もよくわからないんです」これが上級者の笑いです。そういうふうに、なんでもいいから笑っていると、「喜ばれるとうれしい神様」を味方につけることができます。(イラストはネット画像です)📚マンガ世界の偉人「坂本竜馬」~伊藤伸平朝日新聞出版📚
松井録を読んで頂き誠にありがとうござりまする。本日、師走十日は、皆様方も知っておる坂本龍馬殿が京都の近江屋にて、何者かによって暗殺された日に御座る。拙者が天命を全うした、約二百年後の幕末に、活躍したという坂本龍馬殿、中岡慎太郎殿、龍馬殿の従僕である山田藤吉殿の三名が京都の近江屋にて何者かによって暗殺されたのじゃが、その龍馬殿が熊本を訪れたという記録が残っておることを皆様方はご存知か?何故、龍馬殿は熊本を訪れたのかと申すと、勝海舟殿の遣いで横井小楠殿に合うべく、熊本を訪れたように御座る。
熊本信用金庫熊本城の最上階で見つけました。「くまもとに…まっすぐ!しんけんに」ワクワクな感じの市電乗るのが楽しくなりそう。熊本城から熊本市役所までの途中で見つけた自動販売機天下無双の名城だそうです。天下無双味のコーヒーがあったら、即買いですね!熊本市役所で見た折り鶴で作った熊本城。高校生が作ったそうです。全部で8000羽があるそうです。熊本に対する熱いにジーンときます。熊本駅のくまもん。熊本城稲荷神社のお向かいの高橋公園に何やら像が。【維新群像】横井小楠さんは熊本出身
先日、南禅寺の塔頭のひとつで紅葉で有名な天授庵に行って来ました。開園は9時からですが、すでに結構人が並んでいたので、南禅寺の他のところをウロウロして時間を潰し、30分ほど経ってから入園しました。ええと、たしか拝観料は500円だったと思います。この天授庵は江戸時代に肥後藩細川家の京都屋敷となっていました。細川家の九曜紋入の竜吐水お目当ての紅葉は、まだちょっと早かった感じですが、緑や黄色が混じって、これはこれで見事なものでした。
熊本県熊本市中央区高橋公園センターは横井小楠!一般的に知名度の高い坂本龍馬や勝海舟をバックにして、堂々とした立ち姿がかっこいい!!下部のレリーフは、左から竹崎健次郎、嘉悦氏房、徳富一敬、長野濱平、山田武甫。『くまモンの使い捨てカイロ冬眠ポーチ8枚入×3セット』使い捨てカイロをポーチに入れると発熱が中断する省エネポーチです!【RCP】楽天市場1,485円【メール便可/50】くまモンのカタチハンカチ【05P03Dec16】楽天市場770円【新品】くまモンのエアービンゴくじ+5ゲ
江戸檜物町の襲撃事件で「仲間を助けずに逃げたのは武士にあるまじき行為」であるとして士籍を剥奪され、平民に落とされた上で蟄居生活を余儀なくされた横井小楠は、その後熊本に逼塞していましたが、その間も同じ肥後藩士で、のちに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語などの起草に携わることになる井上毅(いのうえこわし)や、土佐脱藩の坂本龍馬等の訪問を受け、様々な提言を授けています。そして慶応三年(1867)、王政復古の大号令が発せられ(十二月九日)、天皇を頂点とした新政府が立ち上がると、朝廷は肥後藩に
文久三年(1863)三月二十三日、大日山に登った堤松左衛門の最期の様子については『堤義次割腹始末』『尊攘並街談混雑録』(ともに東京大学史料編纂所データベース参照)などに詳しく書かれています。山頂に鎮座する大日堂の前に腰を下ろした松左衛門は、肥後藩邸である南禅寺の方角に手を合わせて何度も拝礼すると、突然脇差を抜いて腹を切りました。しかし当時の大日山は景勝地であり、遊山客も少なくなかったため、すぐに大騒ぎになって周りに人だかりが出来てしまいました。松左衛門はやむなく立ち上がり、腹
前記事で、訪問先に「コメント一覧」の開けない方が相当数いることを書いた。本日は、昨日一日のアクセス数がゼロになっている。昨夜、帰宅する8時過ぎの時点で250名ほどの方が訪問してくれていた。ボクを訪問してくれる方は、9~12時がピークなので、トータルのアクセス数が分からないままである。これまた、ボクのPCの問題なのか、アメブロに何か問題があるのか。どうでもよい話しとは言え、どこかスッキリしない。さて小学校~大学まで同期の連中はまだたくさん残っている。が
横井小楠の暗殺に“失敗“した堤松左衛門は、そのまま京都に帰って来て河原町二条下ルの長州藩邸内に匿われていました。それから間もない文久三年(1863)の正月はじめのことです。京都に滞在中であった松左衛門の師・宮部鼎蔵のもとに長州藩士の瀧猶太郎という人物が訪ねて来て面会を求め、松左衛門が江戸で横井小楠らを襲撃したものの、失敗に終わったことを告げました。※.堤松左衛門が江戸から戻った後に匿われていた長州藩邸跡(現・ホテルオークラ京都)宮部鼎蔵は大いに驚き、同じく松左衛門の師であ
堤松左衛門らが横井小楠を狙ったこの事件ですが、どうも不可解な点が多いように思います。松左衛門は二階から駆け下りてきた小楠をなぜ見逃したのでしょう。或いは玄関前で待ち構えていた長州・土佐の志士たちは、どうして料亭から出て来た小楠をそのまま素通りさせたのでしょう。そもそも、横井小楠が命を狙われたのは小楠が「和議開港を主張」していたからだと松左衛門は言っているのですが、果たしてそれは本当だったのでしょうか。実は事件のあった文久二年(1862)十二月十九日の少し前、十二月三日に小楠は松平春嶽に
文久二年(1862)十二月十九日の夜、江戸日本橋檜物町の料亭で起こった肥後藩士同士の争闘は、実際にはほんの数分の出来事であったと思われます。今回はこの事件の当事者となった人々のその後を紹介したいと思います。まず、この夜の酒宴の主客であった横井小楠ですが、敵に立ち向かわずに仲間を残して逃げたのは武士にあるまじき態度であるとして切腹を命じられてしまいます。小楠自身も「有合いの物、棒にても何にてもおっとり駆け上がり、両人を助け身命限り働」くべきだったと後悔の念を書き残していますが、同月二十三
都筑四郎が黒瀬市郎助を組み伏せ、床の間に置いておいた自分の刀をまさに取らんとした時、遅れて二階に上がって来た堤松左衛門が都築に斬りかかりました。たたみ掛けるように何度も打ち込まれ、都築は避ける間もなく頭部に一ヶ所、更に右の眉から目にかけても一太刀浴びてしまいました。傷はいずれも深くはありませんでしたが、流れ出した血が目に入り視界を奪われてしまった都築は、誤って奥の中二階に落ちて体を強く打ちつけてしまいました。都筑四郎を斬った堤松左衛門は、続けざまに安田喜助と揉み合いに