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【問題】江戸時代前期の徳川家の代官頭・伊奈忠次が実施した検地を、通称何と呼ぶか?【選択肢】三州検地下駄検地備前検地大割検地【正解】備前検地【解説】徳川家に仕えた伊奈忠次は、主に江戸時代前期より関八州をはじめ全国各地の検地を指揮した。この検地を、忠次が備前守であったことから「備前検地」と呼ぶ。
天海㉖忠次が得た所領は三河国小島の僅か35貫文であった。それでも忠次は両親を呼び寄せ、徳川家家臣としての生活を始めたのである。かつて小島城主であったという誇り高い忠家は内心不満であったが、忠次は本当に幸せであった。寄親となった小栗吉忠は武将としてより、行政官としての働きが多かったようだ。領内の検地や街道整備、宿舎の手配、橋の建設、小荷駄の指揮等を担当していたのである。これは忠次には誠におあつらえ向きの仕事であった。水を得た魚のように忠次は活躍し、いつしか小栗同心の中心人
2023年5月31日『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です。西村執筆分約86,000文字を書き上げたので、冒頭の部分からブラッシュアップしていきたいと思います。本日から「第一章高野宿・浪江宿と権現堂の名前」「権現堂村」の名称について、を推敲していきたいと思います。----------------------------------------------------権現堂村という地名が史料上最初に確認できるのは、天正十八年(一五九〇)十月に豊臣秀吉によるいわゆ
2022年7月7日。『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です😄「第三章近世の権現堂第一節近世権現堂の土地」の執筆中。本日は107文字。元禄大検地によって、権現堂村は833石5斗2升6合6勺・新田8石5斗6升1合1勺として打ち出されたことが『奥相志』に記されています。その前の明暦大検地では762石3斗8升3合でしたから、80石も村高が増加していることがうかがえます。村高の増加はそのまま年貢の増加につながりますから、かなりの負担増になったものと思います。なお、『
2022年7月6日。『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です😄「第三章近世の権現堂第一節近世権現堂の土地」の執筆中。本日は315文字。元禄大検地は、元禄九年(一六九六)~十年に行われた大検地であり、慢性的な藩財政の悪化を解消し、年貢の増徴を目的としたため、領内の打出(検地によって領内の石高を増やすこと)を計画したものです。元禄九年一月二十二日に家老と地方掛によって検地条目が出されて、検地が行われ、その打出高は四万五千石にも及び、総高は一三万七千石余となりました。
2022年7月5日。『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です😄「第三章近世の権現堂第一節近世権現堂の土地」の執筆中。本日は114文字。前回は相馬藩の明暦検地全般について書きました。この明暦検地によって、『相馬藩政史』によれば権現堂村は「中ノ上」という村位に設定され、村高は七六二石三斗八升三合と記されてます。一方、『奥相志』では七六二石三斗八升三合二勺。二勺だけ差がありますが、『相馬藩政史』の方は他の村も勺以下が記されていないので、これは単に切り捨てられたものと思
2021年11月20日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は『奥相志』(『相馬市史4資料編1』相馬市、1969年)の記述から高瀬村の村高などを確認してみました。もともとは近代の連合戸長役場設置の際、何故権現堂村と高瀬村とが一緒になったか、という疑問から端を発した課題でしたが、結局よく分からず。今後の課題としておきたいと思います。これをきっかけに『奥相志』の権現堂村の記述を確認していたところ、天保の大検地の際の土地の様相について、これまでちゃんと見ていなかったな
ボーイング737「飛行中もタイヤ丸見え」の謎カバーなしでも爆売れ半世紀実は効果抜群?Yahoo!ニュースタイヤを格納する引き込み脚を装備した旅客機は、レシプロ機の傑作モデルであるダグラスDC-3がデビューした第二次世界大戦前から一般化してきました。[道あり]別府唯一の映画館長岡村照てるさん90<1>映画の灯守り続ける-読売新聞オンライン読売新聞泉都・大分県別府市に唯一残る一般映画館「別府ブルーバード劇場」。戦後間もなく創業した父と、後を継いだ夫を相次いで亡くし、岡村照
浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回は福島県歴史資料館所蔵の明治16年地籍帳と丈量帳の内容を確認してみました。この資料のおかけで明治16年段階での権現堂における土地所有の様相がはっきりとします。その他、『福島県史9資料編4』(福島県、1965年)には明治3年正月の「権現堂村午人別改帳」が表化して掲載されており、それぞれ人物の持高も確認できます。近代の土地所有については地租改正の際に大方定まりますが、相馬藩の場合、そもそも天保年間(1831~1845)に検地を実施してい
今回の動画です。豊臣秀吉が最も恐れた徳川家康の政治力五カ国総検地とは!関東移封へ家康はどのように三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を治めたのか!徳川家康は豊臣秀吉の政権下で、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大名となっていた。各国を治めるために様々な政策を行い手腕を発揮していた。中でも五カ国総検地は、年貢を治める農民たちの立場に寄り添ったもので、この政策により国は豊かに治まった。後の天下人となる家康の政治力の基礎となる経験である。豊臣秀吉は、この家康のずば抜けた政治力を恐
戦国大名の領国支配の現実、という話の、続きです。「戦国大名というのは、国衆連合の盟主にすぎない存在で、家来の領地を検地して石高をきっちり把握する、なんてことまでは到底できなかった」と言ったら、「いや、北条も武田も、戦国大名はみんな検地をやっていたはずだ、家来の石高を把握していないなんてありえない」というご批判をいただきました。しかし、当時の戦国大名がみんなやっていたのは「差出検地」というもので、これは要するに自己申告です。それだったら、比較的容易にできるでしょう。しかし、直属の役人が、
小学生から中学一年になると、いきなり英語の授業で、『彼女は流暢に英語を話す』という日本語が出てくるじゃないですか!流暢って何?と思いながら、英語の勉強をしてるのに、なんで国語辞書を引くのさ、って思ってた私。その歴史バージョンです!あくまで私の脳みその問題なので、初めにお断りしておきます。例えば、『城下町』ってしれっと書かれてるけど、私の場合『どんな町よ?』ってハードルが上がるんです。今日やっと分かりましたよ~。『お城の下にある町』、まんまじゃんって思うかもしれないけど、本当に分からない
原則1回の問題数は2問。アトランダムに出題する。センター試験前日まで、できるかぎり連日出題する。問61近代における民法制定過程に関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の➊~➍のうちから一つ選べ。X民法などの編纂をとおして、日本は近代的法治国家としての体裁を整えた。Y民法典論争を経て、ボアソナードらによって起草された民法が公布された。➊X正Y正➋X正Y誤➌X誤
CITYカレッジ(いちいちシニアって名乗るのも言い訳がましいからやめときます)の歴史の講座でのこと。現代の家族の形態はいつからできてきたかという話になり、歴史のY先生は「江戸時代に形成された」と思うとのこと。それまで(信長の時代)は複合大家族で一つの家にみんなで暮らしていた。みんなって…①血縁(地侍も含む)②隷属農民(農家の手伝い等)③おじ・おば等このうち②と③は一生独身ですごしたらしい。(社会の中に3~4割居た)→人口が増えにくいそこで、秀吉が検地をした。ってこ
皆の者達者であるか?大ふへん者前田慶次じゃ!我が日記帳開き大義。本日も戦国の今日は何の日?参る一五九〇年八月九日豊臣秀吉、天下統一本日は戦国乱世が一つにまとまったそう、天下統一された日なんじゃ。何をもって天下統一と思うたか?全土の領土を掌握すること。即ち、全国の大名が従う。形上従うのではなく本に下らせる。それが今日である。豊臣秀吉様が会津黒川城に入り豊臣秀次様に検地を命じ奥州仕置を発令。天下統一が叶った。検地をするは己の領国でどれだけ米が取れるか、其れは相手
経済で読み解く豊臣秀吉[上念司]1,199円楽天上念司先生の経済で読み解くシリーズです。今回は、豊臣秀吉がテーマです。今までのシリーズは、タイトルよりもその前の時代のほうがメインでした。しかし、今回は、もちろん、序盤で信長の時代のことも話は、していますが、メインは、本能寺の変以降の秀吉支配の時代のことになります。戦国時代は、これまでのシナからの渡来銭である永楽銭を流通することでなっていた貨幣経済がシナ本国での銭不足のために永楽銭の供給が厳しくなっていました。この背景があ
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神無き月十番目の夜(小学館文庫)Amazon慶長七年(一六〇二)陰暦十月、常陸国北限、小生瀬の地に派遣された大藤嘉衛門は、野戦場の臭気が辺りに漂う中、百軒余りの家々から三百名以上の住民が消えるという奇怪な光景を目の当たりにする。いったいこの地で何が起きたのか?嘉衛門はやがて、地元の者が「カノハタ」と呼ぶ土地に通ずる急峻な山道で、烏や野犬に食い荒らされるおびただしい死体を発見した。恭順か、抵抗か―体制支配のうねりに呑み込まれた土豪の村の悪夢。長く歴史の表舞台から消されていた事件を
365日のブログ【No.261】★おはようございます★岡崎市を中心に西三河エリアで暖かい木の家をお届けしておりますサイエンスホーム岡崎店店長のてっさんです^_^昨日は昼3時くらいからお休みをいただいて娘と岡崎城に花見に行ってきましたもちろん『岡崎城』にも入城ですそこでこんなものが展示されてました田んぼの広さを測るのに用いられた『測量用木札』ですこれで田んぼの広さを測って採れたお米を年貢として納めさせていたんですね今の測量は専門
皆様おはようございます。2017年2月19日(日)のおんな城主直虎の『検地がやってきた』を視聴し終えました。今川義元は相変わらず高貴な身分であるので声を聞かせません。大きな声を聞かせるのは桶狭間の戦いでの死に際でしょうか。亀之丞と鶴丸とおとわの幼馴染は、それぞれ井伊直親と小野政次と次郎法師となり、少しずつ関係が変わってきているところが描写されていました。小野政次は、犠牲にばかりされて不服があるようです。また、井伊直親が小野政次を信頼しているふりをして信頼していないことにも不満がある
皆様おはようございます。2017年2月19日(日)のおんな城主直虎のタイトルは『検地がやってきた』です。写真は岩手県陸前高田市の丘に登り撮った田んぼです。岩手県陸前高田市に仕事で行っていた時の休日に撮りました。近くにフライパンという美味しいレストランもあります。検地というと豊臣秀吉が行なった全国で行なった太閤検地が有名ですが、今川義元も検地を行なったようです。今川義元が桶狭間の戦いで大兵力を動員できたのも検地をしっかりやっていたからのようです。検地はお米がどれくらい取れるか田畑の